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大師になれなかった三蔵法師

 称号や諡号に縁がなかった円載に対して、唐で三蔵法師の称号を授けられた日本人僧侶がいた。三蔵法師というと、日本では西遊記の三蔵法師のことかと思われてしまうが、三蔵法師は称号で人名ではない。西遊記の三蔵法師は玄奘という名である。西遊記がいろんなかたちで日本で有名になったために、三蔵法師がほぼ固有名詞になってしまっている。

 三蔵法師とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶に与えられる称号で、玄奘のように訳経僧に対する尊称にもなっていた。

 歴史的に見て、日本では三蔵法師の称号は公式には存在しなかったが、三蔵法師になった日本人僧侶がひとりだけいた。筆者の他の駄文の中でも少しばかり言及しているが、霊仙という法相宗の留学僧である。霊仙は最澄や空海とともに、遣唐使船に乗り唐に渡った。

 霊仙は長安でインド人僧侶般若三蔵に師事して、梵語を学んだ。学んだ、などと気軽に言えるレベルではなかったため、まだ漢訳されていなかった「大乗本生心地観経」の翻訳者の一人に選ばれる事になった。母語ではない言語同士の翻訳に関るということが、言語能力としてどれほどのものか、想像しなくても驚異的なレベルだということは想像がつく。

 この「大乗本生心地観経」の翻訳は、当時の憲宗肝いりの国家事業だった。それを八ヶ月あまりで完成させたと言われており、仏教を手厚く保護していた憲宗の目にもとまることとなり、霊仙は憲宗から「三蔵法師」の称号を与えられることになった。

 こうして憲宗に認められたことは、当然のことながら霊仙にとっても非常に誇らしいことであったのだが、結果としてはこれが後の悲劇の要因ともなったのである。

 ちなみに憲宗は仏教を保護した、というよりは依存していたといったほうが正しいかもしれない。会昌の廃仏をしでかした武宗は、道教にのめり込み不老長寿を謳う丹薬の毒にあたって命を縮めたと言われている。それに対して、憲宗は仏教だけではなく道教にものめり込んだ。太子になった長男を若くして亡くした悲しみから、仏教や道教に入れ込んだとも言われている。精神のバランスを崩して、あれこれ依存しまくっていた状況だったのであろう。

 仏教側にとっては、皇帝が予算をつけてくれるので仕事がしやすい。しかし、いつの時代でも金の使いすぎは無駄遣いだと批判される。有名な韓愈の諫言も無視というか韓愈を左遷し、丹薬で錯乱したのか宦官を虐待するなどしたため、結果的には宦官に暗殺されてしまった。

 歴代中国王朝の皇帝の歴史は宦官の歴史と言ってもいいくらいに、要所要所で宦官が活躍あるいは暗躍してきた。皇帝や皇室の奴隷ともいえる存在の宦官だが、派閥を作り、利権争いをし、騙し騙されなどといつの時代、どこの社会でもある人間組織のドラマが当然のように渦巻いていた。皇帝に近ければ近いほど、それだけの権力も持っており、宦官が皇帝を操ることも稀ではなかった。宦官に関しては、浅田次郎氏の「蒼穹の昴」という名作小説があるので、ここではこれ以上深入りしない。

 さて、憲宗が殺されてしまったとなると、憲宗の庇護下にあった仏教関係者の立場も危機にさらされる。長安にいては危険だと察知した霊仙は五台山に居を移した。

 五台山は文殊菩薩が現れだ地であると信じられており、多くの寺院が存在する、いわば仏教都市のような存在だった。霊仙は五台山で修行に励んだ。

 霊仙は弟子である渤海人僧侶貞素を日本に使いとして行かせ、「大乗本生心地観経」を天皇に奉納し、かつ金銭的な援助を求めた。当時の嵯峨天皇は貞素に金を託して霊仙の元に返した。

 ここで注目したいのは、貞素が渤海人であることがひとつ。もう一つは、霊仙も円載と同様に優秀な弟子に恵まれていたことである。この件に関しては改めて論じようと思う。

 さて、霊仙は金銭的な援助をしてくれた天皇に対して、お礼をするとともに、さらなる援助を求めて、再び貞素を使いとして送った。皇帝の手厚い庇護の元にあったときと違って、五台山では財政面で追い込まれていたのであろう。

 しかし、再び日本から戻った貞素は、霊仙と再会できなかった。霊仙は毒殺されたと言われているが、詳細は不明である。恐らくは、霊仙が五台山にいることを察知されて刺客が送り込まれたのではないか。

 霊仙が唐で三蔵法師の称号を与えられ、内供奉という官職も与えられたことを、日本の皇室も知っていたことを思えば、霊仙が日本に帰国したら、日本での活躍は保証されていた。没後に大師の称号も与えられたであろう。三蔵法師にはなれたが大師にはなれなかったのが霊仙である。

 五台山に戻って、敬愛する師が殺されたことを知った貞素は大いに嘆き悲しみ、その思いの丈を詩に書き記した。

 のちに五台山に入った円仁が、七仏教誡院という朽ちた廃寺の中で「日本国内供奉大徳霊仙和尚を哭するの詩ならびに序」という文が板の上に書かれ壁に打ち付けられているのを発見して、全文を書き留めている。

 円仁が訪れたときには朽ちていたことを考えると、霊仙の居であった七仏教誡院は、貞素が戻ってきたときには廃寺になっていたであろう。憲宗に近かった霊仙とその関係者関係箇所は徹底的に潰されたはずである。五台山に戻ってきた途端に、師を失い、居場所がなくなっていることを知った貞素は、どうしたのであろうか?長安に行くのは危険すぎる。五台山にいても、霊仙の弟子であることは知られており、身に危険が及ぶのは時間の問題であろう。とすると、渤海に帰ったと考えるのが一番自然ある。しかし、貞素のその後の消息に関して、歴史は黙して何も答えてくれていない。

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