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シュタイナー教育と心理学⑧

ルドルフ・シュタイナー著 新田義之訳 『教育の基礎となる一般人間学』を読んでいます。

第2日目、第十五段落目まで↓


第十六段落要約

人間の心的な要素は、地上では物質的なものに姿を現す。つまり"反感"、"記憶"、"概念"の中に現れるものは、全て肉体的なものの中に自己を表現する。これは神経という肉体機構と結合している。
神経組織が肉体の中に形成されることによって、その内部で、全ての誕生前の要素が人間の肉体に作用することになる。
知覚神経とか運動神経とかという区別の一切は全く意味のないことである。

第十七段落要約

"意志"、"好感"、"ファンタジーおよびイマジネーション"は、ある意味で再び人間から外へ向かって作用する。
これは種子的なものと結びついているから、本質的に言って、決して本当の意味での完全体に達することはありえず、生まれ出る過程ですでに、再び解体しなければならない。これはあくまで種子で、成長しすぎてはならない。
ここで私たちは人間総体を、霊的(精神的)、心的(感性的)、物質的(肉体的)に理解することを学ばなければならない。
人間の中には霊的になろうとする傾向をもつものが絶えず形成されているが、人間はこれを大変大きな、しかも利己的な愛情をもって、肉体の中に確保しておこうとするため、これは決して霊的なものになりえない。
それは血液のことであり、物質的状態から出て霊的な状態へ移行しようと絶えず"意志"しているが、霊的なものになろうとする瞬間に人間が血液を殺してしまうのである。

第十八段落要約

血液は「特別な体液」である。
血液をもし変質させず、破壊されることもないようにして、人間の肉体から外へ取り出すことができるならば、血液はたちまち霊となって舞い昇っていくだろう。もちろんこれは地上の生という条件の下ではできないことである。
人間は血液を造り、殺し、造り、殺し……という働きを、吸気と呼気によって続けているのである。

第十九段落要約

私たち人間は自分の内部に、対極的な作用過程経路を持っている。血液は私たちの存在を霊的なものの中へ連れ出そうとする傾向を絶えず持っている。神経は常に死滅、物体化する傾向を持つ性質のものである。
一般に言う運動神経とは、本来は血液路のことであるはずなのである。



「地上において証明ができない」ことをもとに論理を進めるのに拒否感を持ってしまう。
はたして血液は霊的なものなのか? 霊になって舞い昇るという状態は、体内における何を指しているのか?
血液は流れ出ればどす黒くなって死滅する。凝固もする。常に生成されてもいる。しかし地上において霊になっていくことはありえないという。では神経との違いは何なのか?

記憶に神経が関係するという部分は、そうであろうと想像(あるいは現代の科学を信じ込んでいるとされるのか?)できる。

運動神経の例えがさらに深掘りされていればよかった。
現在「運動神経」といわれるものは「運動血液」である。ということだろうか。
常に霊化しようとしている「運動神経」は"好感"と結びついて"ファンタジー"を生じさせる。……関連が見えない。
常に造られ、殺されている「運動神経」は鍛錬によって最適化できるものである。……少し低次元な見方だが、こんな話なのだろうか。


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