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【小説】靄(もや)

「この前、ちょっと怖い体験をしたんだ」


 大学一年の冬。ある昼下がりに、谷野健司は高校時代の友人二人を健司の住むワンルームマンションに呼び寄せ、何をするわけでもなくだらだらと過ごしていた。

 最高気温は二度。最低気温はマイナス一度。寒さを強調するかのように、ご丁寧に雪まで降ってきた。
 
 健司は窓から忍び込む冷気にぶるりと震え、部屋に設置してあるエアコンの設定温度をさらに一度上げた。その時だった。

「なに? 怖い体験ってどんなやつよ。危ない奴にでも遭遇したわけ?」

 前田亮の突然の告白に、寝そべって漫画を読んでいた森雄一郎が顔を上げて訊ねた。依然体は寝そべったままだ。
 健司は亮の隣りに腰を下ろすと、床に転がっていたみかんを一つ取り、続きを待った。亮はふるふると顔を左右に振る。

「いや……何て言ったらいいかな。怖い体験っていうか、不気味っていうか」
「あれか、幽霊とか?」

 健司がみかんを剥きつつ訊ねると、それともちょっと違うというか……と、何ともはっきりしない返答。短気の雄一郎がたまらず体を起こし、ため息を吐いた。

「ほら、俺の住んでるアパートって、ちょっと古い感じでさ。人気もないし、審査も適当だったし。それでたぶん、変な奴が住んでいるんだろうけど」
「なんだ、変人の話かよ」

 期待していた話とは方向性が違うと見なしたのだろう、雄一郎は再び寝そべって漫画を開いた。
 健司はみかんを口に放り込みながら「それで?」と促した。亮もみかんを一つ手に取る。

「大体俺と同じ学生が住んでるんだ。空き部屋も多いから住んでる人の大体の顔は知ってるんだけど……ここ三ヶ月で立て続けに三人も、死んだんだ」
「死んだ?」

 健司と雄一郎の声が重なった。興味が出てきたのだろう、雄一郎も急いで体を起こし健司たちと同じようにみかんを手に取った。

「一人は……自殺だったみたいでさ。連絡が取れないからって様子を見にきた母親が、部屋で首吊って死んでる息子を発見したみたいで」
「それって……亮の部屋の近くかよ?」

 雄一郎が生唾をごくりと呑み込みながら訊ねる。

「真下の部屋だよ」
「げぇっ!」

 思わずといった風に、雄一郎は手にしていた剥きかけのみかんを放り投げた。

「あとの二人の死因は?」

 健司の問いに、亮は視線を天井に流しつつ答えた。

「事故死みたいなんだ」


 目に見えない重い空気が部屋に充満した。しばらくの沈黙。それを破ったのは雄一郎だった。

「けどさ、自殺の奴はまぁ『変人』的な行動をしてたのかもしんねーけど、事故死した二人も何かあったわけ? 亮が『変な奴』って言うなんて珍しいじゃん」
「うん、まぁそこが『不気味』なんだけど」

 亮は座り直して雄一郎と健司を交互に見つめると、重たそうに口をゆっくりと開いた。

「その三人が死ぬ前、共通して俺見ちゃったんだよね」
「見たって?」

 健司は続きを急かした。知らず知らずの内に気持ちが高揚している。喉がごくりと鳴った。

「三人の内二人は、俺と同じ階の人だったんだ。その人たちの部屋の前を通って一番奥が、俺の部屋だから」


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 始まりは、亮と同じ大学に通う女子大生だった。
 どうして亮が、彼女が「同じ大学」であることを知っているかというと、一度自転車置き場で会話したからだった。
 エンジンのかからない原付に悪戦苦闘しているところを、たまたま通りかかった亮が手を貸してやったのだ。それこそ、ヒーローさながらの手際で。男は誰でも美女には優しい。
 その彼女は亮の二つ隣の部屋だった。

 ある日、珍しく深夜までバイトが長引いた亮は、疲れを背負って帰宅した。
 階段を上り、自分の部屋目指して重い足を引きずっていると、ふと、その通路の違和感を感じたのだ。

「違和感って……背筋がぞくり、とかか?」
「ううん」

 亮は雄一郎に向かってかぶりを振った。

「霞(かす)んでたんだ」

 肩に力を入れて聞き入っていた健司は、なんだと笑って言った。

「単に疲れて目がおかしかっただけじゃん」
「うん、俺もそう思ったんだけどね。何か、変だったんだ。目をこすっても晴れないし、後ろを振り返ると全然、変じゃなかったんだよ」

 そこで亮は不審に思いながらも歩を進めた。一歩踏み出すたびに、靄(もや)はどんどん濃くなっていく。
 だが、一番濃くなった場所を通り過ぎると、不思議なほどに視界がクリアになった。振り返るとやはり、通路は霞んでいる。
 亮は覚悟を決めて、靄の一番濃い場所まで近寄ってみた。
 そこは亮の二つ隣の部屋――彼女の部屋だった。

「それから一週間もしないうちに、彼女は交通事故に遭ったんだ。即死だったって、テレビのニュースでやってたよ」

 後味の悪い体験だったが、亮は特に気にしないよう努めて過ごしていた。
 一月後、再び亮は深夜帰りとなった。
 階段を上り終えて通路に足を踏み入れた瞬間、首筋がざわりとして足を止める。

 またあの時と同じように、通路が霞んでいたのだ。

「なんとなくだけど、あぁ、また誰か死ぬのかなって思ったんだ」

 今度は、一番手前側にあった部屋を通り過ぎると視界は晴れ渡った。
 そして案の定、そこの住人は一週間以内に通り魔に遭って死亡したのだ。

「もう一人の時もそうだったのかよ? ほら、自殺したって奴。階違うのにどうやってそれ見たんだ?」

 雄一郎は組み合わせた手をいじりながら亮へ訊ねた。貧乏ゆすりもしている。落ち着かない様子だった。
 健司は、亮の話のせいもあって寒気を感じ、部屋の設定温度をさらに一度上げた。場違いな可愛らしい機械音が響く。

「その人、俺の真下の部屋って言ったじゃん? その時俺、よっぽど疲れていたみたいで階間違えたんだ」

 二人目が死亡したさらに一月後。
 亮が帰宅し通路に足を踏み入れると、今までとは比べようにならないほど薄く霞んでいた。だから、亮はすぐには気づかなかった。
 一番奥の自分の部屋へ向かうほど、靄は濃くなってくる。そこで亮は、恐ろしさのあまり足を止めてしまった。どう見ても、この靄は通路の突き当たりが一番濃くなっていたからだ。

「でも、ぱっと横を見たらそこが一つ下の階だってわかったんだ。あの時の安心感といったらなかったよ」

 そう言って亮は柔らかく微笑んだ。

「亮ってさ……」

 健司は居たたまれなくなって、口を挟んだ。

「そこまで知ってて、なんで三人目の時何かしなかったんだ?」
「何かって……何を?」

 きょとんとした顔で訊ね返してくる。ボク、何か悪いことした? といった感じだ。

「そりゃあ、気をつけた方がいいよ、とかさ。声かけてみたりとか」

「でも三人目は自殺だったんだ。それに今どき、見ず知らずの他人に向かってそんなこと言う人、いる? 変な宗教勧誘とかと間違われるじゃん」

 そうだよな、と雄一郎が共感の色を見せた。

「あれじゃねぇ? 靄ってゆうより、何か葉っぱでもやって煙が漂ってたんじゃねぇの?」

 けらけらと笑いながら、雄一郎の中ではもう話は終わったと踏んだらしい。再び寝そべって漫画を開いた。

「まぁ、同じアパートで三人も立て続けに死んだことが不気味だっただけなんだ。それだけの話だよ」

 そう言って、亮もみかんを食べ始めた。
 健司はまだ温まらない部屋に少し苛立ち、設定温度を一気に三度上げた。


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 雄一郎は約束があるからと先に帰り、残された健司と亮は、二人でまた何をするわけでもなく、だらだらとテレビを見ていた。
 健司は毛布にくるまり、ベッドの上に座っていた。目の前に亮の後頭部が見える。

「……健司、実は言いたかったんだけどね」

 意味深長な物言いで、亮はくるりと振り返る。その雰囲気に、健司は思わず身構えた。

「この部屋……暑い」
「え?」


 設定温度を二十八度にされたエアコンは、苦しそうにごうごうと息を吐き続けていた。
 どれだけ寒がりなんだよと、亮は笑いながら毛布にくるまった健司を指差した。

 だってさ、亮。
 今日の最高気温は二度、最低気温はマイナス一度で、外は雪が降ってるんだぞ。
 寒いに決まってるだろ?

 亮は呆れたように笑う。



「何か暑くなり過ぎて、この部屋白く霞んでるじゃん」




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