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推しを辿って、麻布十番を歩いてみる

 地下から地上へ出ると、ぬるい温度を感じた。エアコンの風を凌ぐために羽織っていたカーディガンを脱いで鞄に仕舞う。
 周りを見渡すと、知らないビルがいくつも立っている。振り向いて自分が出てきた出口の上に書かれた麻布十番駅の看板を確認した。たまたま次の予定まで時間があったので、ふらっと途中で電車を降りてみることにしたのだ。前から来たいと思ってはいたのだが、良いタイミングがなく先延ばしにしてしまっていた。
 上の方を車が行き交う橋が覆っていて、その奥に曇りがかった空が見える。視線を前に戻すと、Cafe Restaurant 縄が視界に入った。
 ここは、黄金の定食という番組で大橋が来ていた飲食店だ。暇つぶしにこの駅を選んだ理由である。
 大橋というのは、お尻がプリンプリンしている自己紹介が個性的なアイドルで、自分にとっては所謂"推し"である。
 周囲を確認しながら一枚写真を撮る。少し人がいたのでアクリルスタンドは出さないでおく。
 この店では、大橋は沖縄焼きそばとラフティを食べていた。店前の看板に書かれた営業時間とiPhoneのロック画面を確認する。営業時間内ではあるが、胃袋に自信がないため今日はやめておくことにする。他にもう一つ行きたいところがある。
 沖縄焼きそばを横目に、オレンジっぽい色味をした道を歩き始めた。

 少し歩いてから、道がオレンジの部分とアスファルトの部分に分かれていることに気がつく。頭上の看板によると、アスファルト側は自転車用レーンらしい。
 車道も車線が複数あって幅が広い。田舎者からすれば、こんなに広い道路はそうお目にかかることはないのでなんだか違和感を感じる。
 左側に見える様々な店々は、住み慣れた自分の町とは纏う雰囲気が違う。例えば、薬局一つとってもなんだか洗練された印象を受ける。
 そのまま歩き続けると、少しずつ古い建物が増えていく。いつから誰が使っているのか分からない建物を視界に入れながら歩くと、白い柱のようなものが現れた。道を挟んで代表的に二本立っている。確かここで曲がる予定だったはずだ。
 柱に書かれた文字を読むと、どうやら商店街の入り口のようだ。目的地の店の位置は地図で確認していたが、周囲の情報は確認していなかったのでもう一度地図アプリを開く。やはりこの商店街の中にあるらしい。

 安心して左へ曲がると、いかにも昔からありそうな薬局や、閉店セールののぼりが立つ服屋らしき店があった。先程までの都会らしい雰囲気とはガラッと変わって、平成を通り越して昭和の残り香を感じる。
 中にはそこまで古くない建物もあり、微妙なアンバランスがそこにある。
 視界の左側で、チラシが何枚か貼られた掲示板が道の端に突き刺さっている。その上の港区掲示板という文字を見て、ここが港区であるのを再確認する。
 駅を出てから人とすれ違う度に、何だかこの街の中で自分だけが異端であるかのように感じる。だが、却ってそれが「自分はいま知らない地を歩いている」という実感に繋がるのだ。
 心地よい居心地の悪さを感じながら、歩を進める。
 少し先に、予め調べた時に見たものと同じ看板を見つけて安堵する。首からぶら下げたiPhoneで、また一枚写真を撮る。相変わらずアクリルスタンドを出す勇気はない。

 茶色の枠にガラスが嵌められた引き戸を開けると、ガラガラと音が鳴る。ガラスには、CAFE HOUSE にしむらの名が書かれている。ここも大橋の聖地巡礼である。
 音を聞いて店の主が奥から出てくる。先客はおらず、やや気まずさを感じながらテレビの音だけが聞こえる店内に一人で入る。
 好きなところへ、と言われ、迷わず左奥のテーブルを陣取った。ここの奥側の席が大橋の座っていた席だというのは確認済みだ。大橋が座っていた席に鞄を置いてその隣に座る。
 横の壁の絵は、他のものに変わっている。撮影で来ていたのはもう一年以上前のことだから、その間に誰かが買っていったのだろう。それ以外には煙草は二本までという貼り紙も追加されている。
 何を頼むかはほとんど決めていたが、水を飲みながらメニューを眺める。ナポリタンも気になるが、ランチタイムを過ぎたこの時間に注文するのは少し憚られた。
 そろそろ注文をというところで、タイミングよく決まりましたかと聞かれて、予定通りモンブランとアイスコーヒーのセットを注文した。理由は単純で、大橋が食べていたからである。

 初めて訪れた店内に一人きりで座っている。なんだか浮ついた気分だ。
 鞄を反対側の椅子に置き直して、隣の椅子の座面を見つめる。ここに大橋が座っていたのか。
 恐る恐る隣の椅子に座り直す。そわそわしながら独り占めの店内を一望する。ただ座っているだけだと広すぎず狭すぎずちょうど良いと感じるが、撮影をするには少し狭そうだ。
 一年以上の時間を経て、同じ場所から同じものを見ている。勿論貼られているポスターや、店の端に追いやられた感染対策用のアクリルパネル、変わってしまった絵画は当時と違うのだが、不思議な感覚だ。少し深めに息を吸う。
 鞄からアクリルスタンドを取り出して、何枚か写真を撮る。ちょこんと座った大橋の姿が可愛くて、ジャニーズショップで販売されているオフショットも多めに買ってある。

 後方に置かれたテレビを見たり、壁に貼られたポスターや貼り紙を眺めながら待つ。五分ほどして、奥からモンブランが運ばれてきた。
 もしかしてジャニーズのファンの方? と聞かれて、はいと答える。迷わずこの席に座ってモンブランとアイスコーヒーを頼んだ時点で何となく気づいていたのだろう。
 随分前よね、そこの席でしたよと言われて、自分の下調べが正しかったことが分かった。
 自分が座るこの椅子に、大橋が座っていた。実感はないが、事実である。勿論、掃除や何かのタイミングで別の椅子と入れ替わっている可能性もあるが、同じということにしておこう。
 せっかくだからと言ってもらって、アクリルスタンドを持って写真を撮っていただいた。どうせならもう少しまともな身なりをしてくれば良かったが、急遽行くことを決めたのでしょうがない。

 ごゆっくり、と店主が奥に戻って行き、一息つく。
 それから、目の前に置かれたモンブランを見つめる。大橋はこれを食べたのか。
 モンブランとアイスコーヒーと、大橋のアクリルスタンドを並べて写真を撮る。塗装が剥げるのが怖くて、まだ透明の袋に入ったままにしてある。余計な余白が邪魔だが、大橋が消えてしまうよりはましだ。
 大橋をテーブルの右端に置いて、コーヒーにストローを指す。細めのストローからコーヒーを一口飲むと、キリッとした酸味が広がる。
 続いてモンブランを一口いただく。下の部分は茶色のスポンジで、中にはたっぷりとホイップクリームが詰まっている。甘い。
 中のホイップクリームは、なめらかだがしっかりと食べ応えがある。コーヒーの酸味がその甘さを引き立てている、気がする。
 実は、胃というか消化機能が非常に弱いせいでホイップクリームが苦手なのだが、味自体は好きだからジレンマを感じる。せめてホットコーヒーにしておくべきだっただろうか。しかし今日は9月下旬にしては暑いし、何より同じものを頼みたかった。ヲタクの性だろうか。

 飲みかけのコーヒーと、食べかけのモンブランを見つめる。どちらを最後にするべきだろうか。
 右脇に置いていたアクリルスタンドの大橋と目が合う。何度目かわからない可愛いが心の中に湧く。いつ見ても新鮮に可愛いと感じる自分はコスパが良い人間なのかもしれない。
 大橋はどのくらいのペースで、どのような順番で食べたのだろうと考える。つくづく大橋本位で生きている。
 やはりここは甘いものを最後にしようと思って、コーヒーを飲み進める。キンキンに冷えているからなのか、酸味が舌に突き刺さる。
 そういえば、大橋はガムシロップを入れたのだろうか。先程ミルクとガムシロップはと聞かれたが、ついいつもの感覚で断ってしまった。
 ミルクを入れていないだろうということは、グラスの中の液体の色から分かるが、ガムシロップは分からない。スマホで確認すると、端にガムシロップとミルクがあるが、蓋は空いていないようにも見える。
 きっと、大橋本人ですらそんな些細なことは覚えていないだろうから、謎のままにしておくことにした。
 コーヒーを飲み終えて、それから残りわずかなモンブランをフォークで掬う。バランスが崩れて、皿の上でこてんとモンブランが転んだ。スポンジのある方から二口に分けて食べきる。
 よく考えたら、モンブランを一つ丸ごと食べ切ったのは初めてだ。人から一口貰ったことはあるが、何せホイップクリームが苦手である。今日のモンブランも小ぶりだからなんとか健康的に食べ切れたのだろう。そもそも、大橋が食べていなければきっと選ばなかったはずだ。

 段々と後ろのテレビの音が耳に入るようになって、現実に引き戻されていくような感じを覚える。
 モンブランが乗っていた紙を綺麗に折りたたんで、ふと、右端の大橋とまた目が合う。忘れたら一大事なので、クリアケースに入れて鞄に仕舞っておく。
 もう一度座って、空いた皿を見つめる。食べ切ったのに長々と居座るのも申し訳ないので、伝票を持って立つと、もう行かれるんですかと言われた。
 喫茶店初心者ムーブメントをしてしまっただろうか。しかし今更もう一度座るのもなんだか違う気がするので、そのままお会計を済ませる。また来てくださいと言われて、ちょっと嬉しくなった。
 荷物をまとめて、美味しかったですとありがとうございましたを伝えてから店を出た。

 引き戸をガラガラと閉めて、後ろを振り返る。そういえば、と仕舞った大橋のアクリルスタンドをもう一度取り出して、店の外観と一緒に写真を撮る。行きには撮れなかった写真を撮れた。次に来る時は、ナポリタンを食べよう。

 ちゃんとアクリルスタンドを仕舞って、駅の方面に向かって歩き始める。
 郵便局に行かなければいけないのを思い出して、アプリで調べる。駅の反対側にあるようだ。
 せっかくなので、来た道と違う道を歩いてみる。行きとは違って、住宅が多い。
 すれ違う人は自分を見てどんな人間だと思うのだろう。見た目からして、この辺りに住んでいる人間ではないと思われているだろう。
 そのまま歩き続けると、右に花屋が見える。なんだかおしゃれな雰囲気があってつい足を止めたのだが、自分のような人間が入っていいような気がしないので、そのまま目的地に向かうことにする。
 しばらく歩いていくと、交差点の左側に行きの道が見えたので、迷子になる前にその道に移動する。さっき通った時よりも人が多い。
 爽やかな淡い青の制服を着た小学生や、ベビーカーを押す人とすれ違う。都会の人たちに何となく萎縮する自分がいる。
 行きに見た橋が斜め上の方に見えてきて、少し安心する。郵便局はさらに先にある。
 地図アプリを見て、一本隣の道に入る。この道はさっきの道よりも道幅が狭い気がする。
 お財布が悲鳴をあげそうな外観の飲食店や、地元でも見かけたことのあるお菓子屋さんの本店などを横目に歩き続けた。

 無事に郵便局に到着して、用事を済ませて外に出る。
 来た道を戻ろうとしたが、せっかくだから別の道を選ぼう。
 地図は見ずにふらふらと歩き続ける。知らない場所を歩くと、少し心が躍る。
 暫く歩いていくと、段々住宅が増えていって落ち着いた雰囲気に変わっていく。
 迷いなく歩き続けると目の前に公園が現れた。子どもたちが遊具で遊んだり木に登ったりしている。都会にもこういう公園はあるのか。
 地図アプリを確認すると駅と違う方向に向かっていたので、公園の周りをぐるりと歩いて、駅の方向に向かい直す。
 再び、おしゃれなお菓子屋さんとか、美容院とか、いろんな店が立ち並んでいるエリアを抜けて、気づけば駅名の書かれた出口に辿り着いていた。行きの出口とは違うが、駅に戻れればどこでも良いのでそのままエスカレーターに乗った。


 暇な時間に郵便局に行くだけならどこだって良いのに、大橋が行った喫茶店に寄ったことで、知らない地を随分と長くと散歩することになった。不思議な巡り合わせだ。
 知らない場所を歩くのは結構楽しい。
 何者でもない自分と向き合いながら、新たな小発見を繰り返す。足だけではなく、頭の中も一定のリズムで動いている感じがする。それに意味があるのかは知らない。

 大橋も、この街を歩いたことがあるだろうか。今日はどこで何をしているのだろうか。
 つい数日前にライブで本人を見たばかりだが、もう遠く遠くの星にいる人のように感じている。
 けれどもあの喫茶店の椅子は、大橋と自分の両方を知っている。

 帰りの電車の中で一人、今日の小さな旅を振り返った。




いつの間にかエッセイのような日記のような小説のような何かが出来上がったので載せてみました。

推し短歌はこちら。

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