僕らのこころが寄り添い合った日

 仕事終わり、今日は前々から予定されていた部署内の飲み会に参加するつもりだったけどなんだか体調がよくない気がしたから、断りを入れて帰ることにした。強制する人がいないことはクリーンでとても良いと思う…これが当たり前だともっといいとも思う。

少し、ほんの少しこころがざわついている感覚があるような、そんな感じで落ち着かない。体調が悪い、というよりはなんだかいつもと違うような気がするし、嫌な予感がして気持ち悪い、昼休みが終わるぐらいから、ずっとそんな感じだった。

会社から最寄の駅までとぼとぼと歩いていく。僕には帰るところがある。みきちゃんは今日はもう帰っている時間だろう。はやく帰りたいのに、帰りたくない。みきちゃんに会いたいのに、会えない、会いたくない。

そんなことをぐるぐると考えていたらあっという間に駅に着く。いつもの流れで改札を通ろうとICカードを取り出そうとして、ハッとする。このままではもう帰るだけじゃないか。電車が来たら電車に乗って家の最寄りに着いたら降りて、家まで歩く。あいにく家と最寄り駅の間に寄り道できるようなところはなかった。

少し、歩いてから電車に乗ろう。

そうだ、次の駅の近くにみきちゃんが好きなプリンを置いてるケーキ屋さんがあったっけ。もしまだ残ってたら買ってってあげよう。二つ買って、夕飯の後にでも一緒に食べよう。あ、そういえば今日は晩御飯いらないって言っちゃったな。でもまあなにかしらあるだろうし、いいや。やっぱり帰ることにしたって、連絡入れればいいんだろうけどさ…

 ぼんやりと歩く。こころの、胸のもやもやした苦しさは無くならない。はやく会わないといけない気がするのに、なんだか色々ままならない。

夕方の少し寂しげな騒がしさが今日はやけに頭に響く。そんなにはやく歩いていたわけじゃないのに、もう次の駅が見えてきている。

こんなに近かったっけ。

お目当てのケーキ屋さんは少しだけ駅の向こうだったから、少しだけ急いで歩いてみた。せっかくなら、プリンをあげたい。それに、僕も今日はプリンが食べたい気持ちになっていた。

ちょっとだけ早足でたどり着いたお店の外から、中のショーケースが見えて安心する。まだケーキもいくつかは残っている様子に安心した。重めの扉を引くと、気持ちのいいドアベルの音にこころが少しだけ晴れたような気がした。

「プリンを二つ、…あとシュークリームも二つお願いします」
「プリンがお二つと、シュークリームがお二つで、600円になります」
「あ、えっと、はい」
「ではちょうどお預かり致しますね、お持ち帰りのお時間はどのくらいかかりますか?」
「えっと、30分ぐらいです」
「かしこまりました」

手早く箱に収められていくスイーツたちを見ながら、30分で家に着くかどうかは怪しいけどまあ急いで歩けばいいか、とさっきと真逆のことを考えている自分にまたもやもやがかかった。

ありがとうございました

また気持ちのいいドアベルをくぐってゆっくりとドアを閉めると、ガラス窓に『ただいまの時間、フードロス削減のためショーケース内の商品半額』という貼り紙があることに気づいた。なるほど、やけに安いな、と思ったらそういうことだったのか。それなら、もう少し買っていけばよかったな、美味しそうなケーキもたくさんあったのに。

まあいいか、それよりもはやく帰ってみきちゃんのプリンとシュークリームに喜ぶ顔が見たくなった。悪くなってもいけないし、でもひっくり返してもいけないから慎重にでもちょっぴり急いで帰ろう。

駅のホームに入ってすぐに電車がきてくてたおかげで本当にはやく帰れそうで嬉しくなる。でもそういえば、やっぱり飲み会行かずに帰るって連絡は入れてないんだよな、と自分の行動がなんだか間違っているような気がしてきてまた一人勝手に電車内で悩んでしまう。そもそも、どうしてこころがもやもやして胸が苦しいのか、わかっているようでわかっていない。みきちゃんが、なんだかいつもと違った?いや、あのみきちゃんは、確かに普段とは違うけど、あのみきちゃんはいつも通りだった。

じゃあ、僕は?

僕だって、いつも通り、だと思う。でも、普段の僕は、みきちゃんにあんなことは言わないんじゃないだろうか。

途端に何かはわからないけどそわそわして身体が浮くような、寒気がするような気がしてくる。わからない、嫌な感じがするけど、だからそれがなんなのかといわれても、わからないとしかいえない、いいたくない、わかりたくない、そんな感じもするような…

 最寄り駅を告げる車内アナウンスによって意識が外側へと向けられた。会いに行かないといけない気がするのに、会いたくないこの気持ちはやっぱりわからないけど、もう帰るしかない。腹を括ったとか、そんなのでは全くないけど、ここまできた僕の行き先はもう、みきちゃんと僕の二人の部屋しかなかった。

ケーキは選ばなくてよかったかもしれない。二人で住む部屋のある建物のエレベーターで一息ついてそう思った。駅からここまでの道中、なぜか急がないといけない気がして早歩きしてみたり、ちょっと小走りしたりしたから。箱の中身は一応気にしてぐちゃぐちゃにぶん回したりはしてないけど、それでもちょっと不安になった。それぐらいには急いがずにはいられない気持ちになった。
はやく帰ったほうがいい、でもなぜか帰りたくない。冷蔵品を買おうと思ったのは、帰りたくない気持ちを押し除ける力が欲しかったんだろうか。自分のことなのによくわからない。最近は、色々と悩んでばかりだ。

 部屋の前まで来て、カバンのポケットから鍵を出す。みきちゃんは必ず家の中にいても鍵を掛ける人だから。特別用心深いわけではないと本人は言った。ただ気になってしまうだけだと。背後に突然、知らない人がいるかもしれない恐怖があるのだと。

「ただいま」

鍵を開けて、玄関の電気をつけた。玄関の電気をつけないといけないほど家の中が暗いことに気がついて、不思議に思う。いつも履いているスニーカーは玄関に綺麗に揃えて置いてあるし、靴箱の上の鍵置き場にもみきちゃんの鍵は置いてある。

やけに暗くて、やけに静かな家を恐る恐る進んでいく。突然の音や声掛けにびっくりしがちなみきちゃんが必要以上に驚かないように、今日も自然に音を立てて帰ってきたはずなのに、全く反応のない暗くて静かな室内に息すらも潜めてしまう。心臓がはやくて少し胸が痛い。そっとリビングのドアノブに手をかけると奥に少し明るいものがある気がして、自分に一喝入れて扉を開けると、真っ暗な部屋の奥にみきちゃんはいた。そっと入ってきたせいか、僕には気づいていないようだ。みきちゃんは、リビングの隅に小さく座り、スマホを見ているようだった。僕は、リビングの電気をつけた。

「みきちゃん、ただいま」

みきちゃんはびっくりした顔で僕を見つめた。僕は、どうしてかすごく苦しくて、大好きな人に帰りを告げただけの声はひどく震えていた。

「れんくん、おかえり。はやかったね」

みきちゃんの声も、なぜかひどく震えていた。

「こんなに暗くなるまで、一生懸命なに見てたの?」

僕は言葉と共にゆっくり、でも足早に近づいた。胸の中は、不安でいっぱいだった。その間のみきちゃんは画面を消すことも、スマホ自体を隠そうともしなかった。どうしていいかわからない、不安や悲しみでいっぱいの顔で近づいてくる僕をただ目で追っていた。

僕が画面を覗こうとしていることにみきちゃんが気づいたのは、その画面に映る文字の衝撃を僕が受けたあとのようだった。

「みきちゃん!?だ、だめだよっ!?」

あ、という顔でみきちゃんは慌てる僕を見つめる。僕はみきちゃんの手をスマホから奪って強く、優しく握りしめた。

「だめ、なの…?」

みきちゃんは、僕の言葉を理解したのか困った顔で言った。僕に冷静さは微塵もなかった。

「あ、当たり前だよ!?ダメに決まって、」

僕はそこまで言って、みきちゃんの悲しそうな顔と自分の言葉に気がついた。本当に、だめだ。ダメ、だけど…。ダメ、なんだけど…

「『しにたいのなら、しんだらいいよ』って、言ってくれたのに?」

違う!!……でも、違わない…でも、ダメなんだよ、嫌なんだよ…みきちゃん、ごめん、僕が全部間違ってたんだ。

涙を流して、震えた声で、それでも綺麗に笑おうとするみきちゃんが、僕はイヤでどこへもいってほしくなくて、たまらず強く抱きしめた。二人して身体は震えているし、どこかひんやりした温度が、抱き合うことでどうにかあたたかさを感じられたような気がした。

「れんくん…?」

みきちゃんの声が優しくあったかく響いた気がした。僕はどうにか身体の震えを止めたくて、みきちゃんをいっぱいいっぱい抱きしめて、深い呼吸を繰り返した。

「私ね、ズルいから。だから、れんくんが見てるってわかってたけどなにもいわなかった。いつか、レンくんから欲しい言葉がもらえるような気がしちゃったから…」

そうか、みきちゃんは気付いていたのか。みきちゃんのこころのうちのどうしようもないところを、僕には見せないようにしていたところを、僕が勝手に見ていたことを。そんな僕が、いつかみきちゃんの欲しい言葉をあげてしまうことまで、わかっていたのか。

「私、最低だよ、優しいれんくんのこと利用して、」
「違う!」

そうだ、違う。僕だって、気付いていた。みきちゃんがどうしようもなく悩んでしまうことも、それを僕には無いとしていたことも、それが僕のことを大事に思ってるからだってことも。
抱きしめているみきちゃんからは心臓のはやさは伝わってくるけど、いつの間にか身体の震えはなくなっていた。

「僕が、直接みきちゃんに聞けなかったんだ。悩みも、苦しみも、痛みも」

「違うよ、私が直接れんくんに言えなかったんだよ。れんくんは私が苦しむようなこと言わないだろうってわかってたのに、気付いてたのに」

「違うよ、僕が聞いてあげないといけなかったんだ。みきちゃんは本当は僕に伝えたいって気付いてたんだから」

みきちゃんは、その悩みやこころのうちを文章に綴ってはときどきネット上に投稿していた。そのことを知ったのは、半年ぐらい前にたまたまみきちゃんのパソコンを使わせてもらった時に、たまたまそのサイトのみきちゃんのユーザーページを見てしまったからだった。きっと、みきちゃんからすればこれも下心があったことだというのだろうけど、そもそも僕はみきちゃんが僕に本当に悩んでいることや人間がどうしたって抱えてしまうことのある、いわゆる黒いところや澱んだところを見せないようにしていることには、気付いていたのだから。

「みきちゃん、ごめん。ごめんなさい。あれはみきちゃんに僕があげたかった言葉じゃない。伝えるって、すごく難しいのに、ましてネットのただの文字だけでぶつけていい言葉じゃなかった」

そうだ、あんな無機質な短い言葉だけでいったいなにが伝えられるんだ。僕の悩んでいたことも、聞きたかったことも、伝えたかったことも、なに一つ、なに一つなにもできないまま、もうみきちゃんと会えなくなっていたところだったんだ、

「ごめん、でも、よかった、ちゃんと帰ってきてよかった、飲み会行かずに帰ってきてよかった…」

みきちゃんはいつの間にか少し落ち着いている様子で、どこもかしこも苦しくてたまらない僕の身体を優しく強く抱きしめて、その穏やかな手で僕の背中をさすってくれていた。

「みきちゃん」

「なあに…?」

「苦しんでるのも、悩んでるのも、痛くてたまらないのも、…しんでしまいたいのも…全部、全部みきちゃんなんだ。どうしたって、みきちゃんなんだ。その苦しみを無いようにしたって、やっぱりそれはあるんだよ。それを感じるのも含めて、全部大事なもので全部みきちゃんにとって大切なものだって僕は思ってる。だから僕は、みきちゃんの苦しんでることも、悩んでることも、痛いことも、全部大事にしたいって思ったんだ。だから、…しんでしまいたいって気持ちも、すごく、すごく脆くてやわくて危ういけど、でもみきちゃんの大切な気持ちだって思ったから、だから…、否定したくなかったんだ。でも、違う、違うよ、否定したくない、でもごめん、僕は、みきちゃんに生きてて欲しい…!生きて、僕と一緒にいて欲しい、まだみきちゃんと行きたいとこもやりたいこともたくさんあるし、なによりもっとずっとたくさんみきちゃんと同じ時間を過ごしたい…。苦しいって、痛いって、しんでしまいたいって思っていい、でもお願いだから、僕の見えないところでもう、思い詰めないで…お願いだから、生きて僕の隣にいて…」

僕は、思いを伝えられたんだろうか。あのメッセージを送って、でも結局すぐ消して、そのあともずっと胸がもやもやして苦しかった、この思いを、それだけじゃない思いを、僕はみきちゃんに伝えられたのだろうか。

「れんくん」

みきちゃんの腕が、僕の身体をより強く抱きしめた。みきちゃん、僕は、僕たちはいつまで経ってもなかなか間違えちゃって、うまくいかないね。

「少しの間だけ、ひどいこと、言うよ」
「うん、いいよ」

震えて掠れた声で、みきちゃんはそれでもしっかり僕に伝えようと言葉にしようとしてくれている。密着してる僕らは体温も拍動も全てが共有されている。僕が伝えたかったことが伝わったかはわからないけど、みきちゃんの身体があたたかくなって、規則正しい振動がはやくなったことが僕には伝わってきていた。

「隣にいてって、生きて欲しいって、言ってくれてすごく、すごく嬉しい、でも、どうしても苦しくなって痛くなって、しんでしまいたくなる時があるの…こんなに、苦しいのに、痛いのに、どうして生きていなくちゃいけないんだろうって、」
「…うん」

みきちゃんの言葉が詰まる。僕には、みきちゃんの感じる全てはわからない。もし客観的に二人が感じているものの比較ができたとしたら、もしかすると僕はみきちゃんの感じていることの全くをわかってあげられてないかもしれない。それでもいいなんて、言えない。わかってあげたい、僕にも分けて欲しい。その身を裂くほどの苦しみを、痛みを、絶望を。でも、どうしても僕はみきちゃんにはなれないから、きっとわかってあげることなんて、できない。でも、そばにいたい、隣にいたい、寄り添いってあげたい、そばにいてほしい、隣にいてほしい…

「それでも、れんくんは私に、生きていてって、思うんだよね…?」
「うん…ごめん。みきちゃんの感じる痛みも苦しみも、僕は本当の意味でわかることはたぶんない、僕は僕で、みきちゃんはみきちゃんだから。それでも、僕はみきちゃんの隣にいたい、みきちゃんには生きて僕の隣にいてほしい…みきちゃんの痛みがわからなかったとしても、痛みを感じてるみきちゃんに寄り添いたい…」

みきちゃん、僕らはどうして、自分以外の感じていることがわからないんだろうね。ああ、ごめん、たくさんたくさん痛いを感じてるみきちゃんに、これ以上たくさんの痛いは感じてほしくないから、やっぱりいいや。僕の感じる、みきちゃんの痛みを感じられない痛みもまた、みきちゃんには感じられない痛みなんだよね。ひとの全部感じてたら、それこそおかしくなっちゃうからね。だから、伝えたいことは、きちんと言葉を、音を、熱を、拍動を、あらゆる全てを駆使して伝えようって努めるから。ほんの少しだけでもいいから、みきちゃんの感じてるものを、僕にも感じさせてほしい。

「れんくんは、優しすぎる…でも、私もそう思う。私も、れんくんには生きて私の隣にいてほしい、私のそばで、体温を分け合うみたいにお互いの感じてるものに寄り添わせてほしい…私のせいでれんくんが痛みを感じてしまうことが、私もまた痛くて苦しい、でも、それでも、ごめんね、私もやっぱり、れんくんの隣に居させてほしい、寄り添わせてほしい、寄り添ってほしい…」

ああ、なんて嬉しいんだろう。僕らはどうしたってわがままだ。ごめんねって言いながらもどうしたって隣にいたいって思ってる。でも、すごく、すごく…

「嬉しいなって、幸せだなって、思う、すごく、すごく…ごめんね。でも、すごく嬉しいよ…だから、ありがとう、みきちゃん」

優しく腕を解いて、僕はみきちゃんの涙で濡れた頬を両手で柔らかく包んで、止むことのない涙を拭い続ける。

「れんくん、私、れんくんにしんでいいよって言われて嬉しいって思ったの、れんくんは、れんくんはそんなこと思ってないって、わかってたのに、私はそれが欲しくてたまらなかったから、知らないふりして都合よく受け取って、私だけいい気持ちになって、れんくんを傷付けて遠くへいっちゃうところだったの、ごめん、ごめんね…」

涙は枯れを知らないみたいに、どんどん溢れて僕の手を濡らしていく。みきちゃんの言葉が痛くて、苦しくて、でも伝えてくれたことが嬉しい。白くてやわらかなみきちゃんの優しい腕がゆっくりと伸びてきて、少しひんやりとした手のひらで僕の頬を包んだ。僕の涙も、溢れて止まない。


二人分の号泣は止まない。今感じているものが少しでも分かち合えたらいいと、またどちらからともなくお互いを強く抱き締めて、その身体に染み込むように涙は流れていく。

お互いに、向き合わなくてはいけないものから逃げていた。それは自分自身の気持ちや、相手を想う気持ちだった。どれも大切で、大事で、うまく伝えることが難しかったりして、伝えたくない醜いことに思えたりもして。相手を傷付けたくなくて、自分も傷付きたくなくて、伝えたいのに伝えたくなくて。そんないろんな気持ちが混ざりに混ざって、選択肢を重ねるごとに、最初はほんの少しの違和感だったはずが気づいた時には理解が追いつかないくらいにまで大きくなったりしていた。それでもどうしたって相手が大切だと思うから、でもそのせいで余計にままならなくなったりする。ひととの関わりなんて、きっとそんなもんなんだろう。そんなもんなんだろうか…?


いったいどれぐらい、二人して泣き喚いていたんだろうか。こころが、胸が苦しくてたまらなくて泣いていたはずなのにいつの間にか泣くのが辛くなってきていた。

「れんくん、私、泣すぎて頭痛い〜」

鼻声と喉の枯れた声が合わさって聞いたことのないみきちゃんの声に僕はどうしてか笑えてきてしまう。そんな自分の笑い声が響いて僕も頭が痛いことに気づいた。

「わたし、すっごい声してる〜!」

みきちゃんもまたけらけらと笑って、頭が痛いとこぼしている。でも、不思議なことで、たくさん笑うとまた、じんわりと涙が滲んでくる。あふれてこぼれそうなわけじゃない目尻の涙を拭おうとすると、僕じゃない、あったかくてやわらかい手が先に触れてきた。

「れんくん、ありがとう」

真っ赤に腫らした目をくしゃっと細めて、みきちゃんはとびきりの笑顔でそう僕に告げた。途端に激しくも心地よい風と、あたたかな陽射しが僕のこころにおだやかな春がやってきたように景色をガラリと変えた。

僕はまた、たまらずみきちゃんを抱き締めた。

「僕のほうこそ、ありがとう、みきちゃん」

強く抱き締めたみきちゃんからはどういうわけか、春のにおいがした。あったかくて、やさしくて、心地よくて、陽だまりみたいな、木陰みたいな。みきちゃんは僕にとってそんなひとだった。

「れんくん、あれなあに?」

またしばらく抱きしめ合っていると、ふと何かに気付いたようにみきちゃんが指をさす。その先にあったのは、不自然な向きの取っ手のついた白い箱。

「あ!そうだ、プリンとシュークリーム!」

せっかく大事に持って帰ってきたのに、無造作に放られたその箱を恐る恐る開けてみると、中身は案外大丈夫そうで、少しだけ常温に耐えられなかったカスタードが溶け出しているぐらいだった。

「ああ!あそこのプリンとシュークリームだ、買ってきてくれたの?ありがとう」
「一度、冷蔵庫に入れておこっか」
「うん、そうだね」

いつもより、晴れているような、僕はそんな空気をこの部屋に感じた。僕も、みきちゃんも、変わらないけど、何かが確実に変わった、そんな気がする。いつもと違うのは、お互いに掠れた鼻声と泣き腫らした顔をしていることぐらいだけど、たぶんそれが僕らにとってすごく大きなことだったんだろう。

「晩御飯、どうしよっか、おうどんとかでいい?」
「うん、冷凍のうどんに乾燥わかめと鰹節にしよ」
「よーし、おうどんチンしちゃお」
「じゃあケトルでお湯沸かすね」

なんでもない、ただの今日。みきちゃんの気持ちは、みきちゃんにしかわからない。僕の気持ちも、僕にしかわからない。それでもお互いの気持ちに寄り添いたいって言い合えたから、僕らはまた一つ、二人の糸を紡げたんだと思う。

ああ、今日帰りたくなかったのは、みきちゃんに会いたくなかったのは、ずっと避けてきていたこれと向き合うことに二の足を踏んでいたからだったんだろうな。でも、よかった。一歩を踏み出してたおかげで、ちゃんと進むことができた。

「ん?どうしたの、れんくん」

あたためたてのうどんとお湯で割った出汁を丼に作っていく僕より少しだけ背の低いみきちゃんの横顔を見ながら、あらためて大切だなあと実感していたら不思議そうに尋ねられる。

「かつおぶし、たくさん入れようかなあって」
「れんくんそんなに好きだっけ?」
「うん。好きだよ。すっごく、大切だなあって思ってたんだ、みきちゃんのこと」

幸せいっぱいの顔で鰹節をたくさん入れてくれるみきちゃんが、どうしようもないくらい愛しくて、その真っ赤な腫れが少しでもはやく引きますようにって、僕はそっとみきちゃんの頬を撫でた。

やさしい出汁のにおいが、ほかほかと二人を包んでいく。ぐちゃぐちゃに二人してなっても、そのあとがこんなにも当たり前のように特別なおだやかであたたかになれるのなら、やっぱり僕はみきちゃんの気持ちに寄り添いたい。おだやかに、けど確かに、僕はそうこころに刻んだ。











あとがきのようなもの

あなたは、僕をどんなひとだと思いましたか。
あなたは、みきちゃんをどんなひとだと思いましたか。
あなたは、私をどんなひとだと思いましたか。
あなたは、れんくんをどんなひとだと思いましたか。
あなたは、二人の関係をどんなものだと思いましたか。
あなたは、こんな二人のことをどう思いましたか。

どう思うか、それはたぶん一人一人違うんだと思います。
似たようなことを感じる人もいれば、全く違うことを思う人もいる。
どれも間違いなんかじゃなくて、逆に言えばどれも正解なんかじゃない。
わたしが思ったみきちゃんとれんくんはわたしの中にしかいない。
それでいいじゃないか。
似たようなことを感じてくれたら、似ているねと嬉しくなったり、全く思いもしなかったことを感じてくれたら、そんな感じ方もあるのねって感心したらいいだけの話なのよね、きっと。

久しぶりに小説のようなものを書いて、楽しかったな。
今日思いついたことを、今日中に形にできて、よかったな。

僕もわたしで、みきちゃんもわたし。
きっといつだって、そんなもの。


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