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政治講座ⅴ1640「ナワリヌイ氏拷問で死亡」

ソ連時代から今のロシアに至っても政治弾圧や暗殺などの犠牲者が跡が絶えない。
今回はロシアの暗黒社会の実態を報道記事から紹介する。

     皇紀2684年2月18日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

ロシアでナワリヌイ氏追悼の動き 独立系紙「拷問に苦しんでいた」

毎日新聞 によるストーリー • 5 時間


ナワリヌイ氏を追悼して記念碑に花を手向ける人たち=モスクワで2024年2月16日、AP© 毎日新聞 提供

 ロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が16日に収監先の露北部ヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所で死亡したことを受け、ロシア各地では追悼の動きが広がった。一方で、モスクワ市では司法当局が無許可の集まりに対して警告を発し、拘束される人も出ている。

 ロシア独立系紙「ノーバヤ・ガゼータ」は16日、服役中にナワリヌイ氏が置かれていた状況について詳報した。

 同紙によると、ナワリヌイ氏は2022年8月以降、「ボタンが外れていた」「すぐに手を後ろに回さなかった」などさまざまな理由で懲罰房に27回入れられ、300日以上を過ごしたという。繰り返し懲罰が科され、必要な医療も与えられなかったとしている。


ナワリヌイ氏を追悼する支持者らが献花、プーチン政権は8都市で100人以上拘束か

読売新聞 によるストーリー • 

ナワリヌイ氏=AP© 読売新聞

 ロシア北極圏の刑務所で反政権運動指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が収監中に死亡したことを受け、露各地で16日夜、支持者らが追悼の献花を行った。プーチン政権は世論の動向を警戒しており、独立系人権団体「OVDインフォ」によると、国内8都市で計100人以上が拘束された。

 露独立系英字紙「モスクワ・タイムズ」は、モスクワにあるソ連時代の政治的弾圧の犠牲者を追悼する記念碑などで、ナワリヌイ氏の写真や花をささげる人の列が出来たと伝えた。

 露当局は、献花を無許可の集会と位置付けたとみられる。SNSには、サンクトペテルブルク市内で参加者が雪上を引きずられ、当局に拘束される様子が投稿された。露北部のムルマンスクでは「ナワリヌイが殺害された」と書いた紙を持った女性が拘束された。

 ドイツでのミュンヘン安全保障会議に出席しているナワリヌイ氏の妻、ユリア氏は16日、「プーチンは露国内で行ったすべての虐殺の責任を個人的に負うべきだ」と語った。

 西側各国はプーチン政権を非難した。米国のバイデン大統領は16日にホワイトハウスで演説し、「プーチンの残忍さをさらに証明するものだ」と述べた。「汚職や暴力、政権が行うあらゆる悪事に勇敢に立ち向かった」と述べ、ナワリヌイ氏をたたえた。

 これに対し、ロシアのドミトリー・ペスコフ大統領報道官は16日、米欧からの非難について「容認できない」と反発した。

ナワリヌイ氏は「散歩後に意識失った」 ロシア政府責任問う声も

毎日新聞 によるストーリー • 17 時間

アレクセイ・ナワリヌイ氏=モスクワで2019年9月、大前仁撮影© 毎日新聞 提供

 ロシア北部ヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所に収監中の反政権活動家ナワリヌイ氏についてインタファクス通信は16日、「矯正施設で散歩後に気分が悪くなり、意識を失った」と伝えた。死因は調査中という。ただ、その死の責任をロシアのプーチン政権に問うべきだとの声が広がっている。

 インタファクス通信によると、ナワリヌイ氏が意識を失うと間もなく、医療関係者が到着し、救急車も呼ばれた。同刑務所は「蘇生措置を施したが、肯定的な結果は得られず、死亡が確認された」と発表している。

 しかし、ロイター通信によると、ナワリヌイ氏の母親はロシア紙に「2月12日に刑務所で会った際には元気だった」と話しているという。ドイツを訪問中のウクライナのゼレンスキー大統領は「(ナワリヌイ氏が)プーチン大統領に殺されたのは明らかだ」と主張した。
一方、ナワリヌイ氏の広報担当者は「まだ死を確認できていない。現地に弁護士を派遣した」とX(ツイッター)で説明した。ロシア通信によると、ペスコフ露大統領報道官は、ナワリヌイ氏の死について「死因は医師によって明らかにされるべきだ」と話した。
 ナワリヌイ氏は2023年8月に過激派団体を創設したとして新たに懲役19年の判決を受け、同9月に刑が確定した。モスクワ東方ウラジーミル州の刑務所に収監されていたが音信不通になり、その後、北極圏にあるヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所に移送されていたことが判明した。
 大統領選の日程が決まった同12月には、プーチン氏以外の候補への投票を獄中からネット交流サービス(SNS)で呼びかけるキャンペーンを始めていた。
 20年8月に西シベリアで毒を盛られて重体となり、ドイツに出国して治療を受けた。回復した翌年1月に帰国したが、過去の経済事件に関連して拘束された。その後に懲役2年6月の実刑判決を受け、別の事件でも寄付金詐取などの罪に問われ、懲役9年を言い渡された。収監された後のナワリヌイ氏は度々、健康状態の悪化が伝えられていた。

プーチン政権批判のナワリヌイ氏、北極圏の刑務所で死亡…散歩後に「体調が悪い」と訴え意識失う

読売新聞 によるストーリー • 19 時間


ナワリヌイ氏=ロイター© 読売新聞

 ロシア北極圏にあるヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所は16日、反政権運動指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏(47)が死亡したと発表した。ナワリヌイ氏はロシアのプーチン政権批判の急先鋒(せんぽう)として知られる。3月の大統領選に向け、プーチン大統領以外の候補者への投票を呼びかけるキャンペーンを獄中から実施していた。

 発表によると、ナワリヌイ氏は16日、散歩の後で「体調が悪い」と申し出た後、意識を失った。刑務所の医師が対応し、救急車を呼ぶなどしたものの、死亡が確認されたという。死因は調査中だとしているが、臆測を呼びそうだ。

 ロシアの独立系メディア「ノーバヤ・ガゼータ」によると、ナワリヌイ氏の弁護士が14日、刑務所で面会した際には体調に問題はなかったという。タス通信によると、ロシアのドミトリー・ペスコフ大統領報道官は、ナワリヌイ氏の死亡がプーチン氏に報告されたと記者団に明らかにした。

リヌイ氏は、反プーチン政権の象徴的な存在だ。元々は弁護士で、2011年の下院選で政権与党による不正を追及し、大規模デモを主導したことで知名度を高めた。インターネットで政権の腐敗ぶりを暴露し、13年のモスクワ市長選では、プーチン大統領側近の現職に対抗して立候補した。そこで善戦したことで、政権側が弾圧強化に転じたとされる。18年の大統領選には出馬を認められなかった。

 20年には、露国内で猛毒ノビチョク系の神経剤による襲撃を受けた。21年に療養先のドイツから帰国と同時に拘束された後、過去に受けた有罪判決の執行猶予が取り消されて収監され、昨年末に北極圏の刑務所に移送されていた。

ロシア反政府活動家ナワリヌイ氏「獄死」...大統領選を前にプーチンは怯えている 「これは強さではなく弱さ」

ニューズウィーク日本版 によるストーリー • 20 時間


ロシア反政府活動家ナワリヌイ氏「獄死」...大統領選を前にプーチンは怯えている 「これは強さではなく弱さ」© ニューズウィーク日本版

ロシアの反政府活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏(2012年5月) REUTERS/Maxim Shemetov

<アレクセイ・ナワリヌイ氏は摂氏マイナス30度にもなる北極圏の刑務所に収監されており、2月15日にはビデオ審問に参加していた>

[ロンドン発]ロシアのウラジーミル・プーチン大統領を厳しく批判し、昨年12月に北極圏ヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所に移された反政府活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏(47)が2月16日獄死した。ロシア国営タス通信は「死因は調査中」(ヤマロ・ネネツ自治管区刑務局)と伝えた。西側やウクライナ首脳からプーチン体制を非難する声が相次いだ。

タス通信によると、ナワリヌイ氏はこの日刑務所で散歩した後、気分が悪くなり、すぐに気を失った。医務班が駆け付け、救急車が呼ばれた。必要な蘇生処置が施されたが、ナワリヌイ氏は回復せず、救急隊員は死亡を宣告した。ナワリヌイ氏は2月13、15日、ウラジーミル地裁による控訴状のビデオ審問に参加しており、体調は極めて良好だった。

露中南部チェリャビンスクに滞在中のプーチンはモスクワのドミトリー・ペスコフ大統領報道官から報告を受けた。ナワリヌイ氏は詐欺罪で2度の執行猶予判決を受け、何度も猶予の条件に反したとして2021年実刑に切り替えられた。22年法廷侮辱罪と選挙運動資金に関する罪で有罪となり、23年には過激派団体を結成した罪で懲役19年が言い渡された。

ベラルーシの反政府系メディア「Nexta(ネクスタ)」はナワリヌイ氏が生前に残した遺言となる動画を配信した。ナワリヌイ氏は「絶対にあきらめてはいけない。もし彼らが私を殺したとしたら、それは私たちがとてつもなく強いことを証明している。この力を利用しなければならない。あきらめて何もしなければ悪が栄えるだけだ」と訴えた。

「プーチンがナワリヌイ氏を暗殺したのは間違いない」

カマラ・ハリス米副大統領やアントニー・ブリンケン国務長官が欧州の同盟国を守る米国の決意を改めて表明したミュンヘン安全保障会議で、ナワリヌイ氏の妻ユリアさんは「夫の死が本当ならプーチンと側近、友人、プーチン政権には彼らが祖国と私たちの家族、夫にしたことの責任を取るべきだ。その日はすぐにやってくる」と話した。

英紙フィナンシャル・タイムズのモスクワ支局長マックス・セドン氏はX(旧ツイッター)に「ナワリヌイ氏の生存が最後に確認されたのは15日のビデオ法廷審問。彼は元気そうに見えたが、やせ細った容貌は過酷な環境での健康状態の悪化がいかに常態化していたかを物語る」と投稿した。極寒の刑務所は摂氏マイナス30度と言われる。

ロシア当局の関与が疑われる2億3000万ドルの横領事件を告発し、約1年拘留された挙げ句、09年に獄死したセルゲイ・マグニツキー弁護士に調査を依頼していたビル・ブラウダー氏はXで「プーチンがナワリヌイ氏を暗殺したのは間違いない。それは彼が勇敢にもプーチンに立ち向かったからだ」と断言した。

「ナワリヌイ氏はロシア国民にクレプトクラシー(盗賊政治)と抑圧に代わる選択肢を提供した。だから殺された。彼の死はナワリヌイ氏の家族にとってもロシアにとっても悲劇だ。ロシア当局によるマグニツキー氏の死と同じ完全な隠蔽工作が行われるだろう。彼らが使う言葉は想像がつく。自然死、暴力の兆候なし、予期せぬ死などだ」(ブラウダー氏)

「ナワリヌイ氏の死はプーチンの首に一生かけられる」

『プーチンの戦争:チェチェンからウクライナまで』の著者でシンクタンク、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)のマーク・ガレオッティ上級研究員は英紙タイムズのタイムズ・ラジオに出演し「ロシア国内でもプーチンがナワリヌイ氏を直接的あるいは間接的に殺したと考えない人はまずいないだろう。それはプーチンの首に一生かけられる」と語っている。

「ナワリヌイ氏が重要な人物であった理由は2つある。彼が通常の野党の枠組みを超えて手をつなぐ並外れた能力を持っていたことだ。プーチンにとって彼を本当に危険な存在にしたのは生活費を稼げず不満を抱えている工場労働者であろうと、リベラルな中産階級の知識人であろうとプーチン体制に辟易している世論をまとめ上げるカリスマ性や組織力だ」

「もう1点はナワリヌイ氏がロシアに戻ってきたことだ。20年にプーチンの工作員に神経剤ノビチョクを盛られたナワリヌイ氏はドイツで治療を受け、そのままそこに留まることもできた。居心地のいい西側に亡命してロシアで起こっていることについて不平を言うこともできただろう。しかし彼はロシアでのゲームに参加し続けるため舞い戻った」

「独房生活や不眠で崖っぷちに追い込まれたナワリヌイ氏はそれに耐える体力を失っていたのかもしれない。この死が彼を殉教者にし、人々を街頭へと向かわせるのかどうか、この段階で判断するのは難しい。非常に残忍な現体制の体質を考えるとおそらく大規模な抗議デモは起きないだろう」とガレオッティ氏は言う。

繰り返されてきた「邪魔者は殺せ」の歴史

調査報道ジャーナリストで政治家のナワリヌイ氏は反プーチンの急先鋒として活動した。11年に設立した反腐敗財団はロシア政治エリートの保有資産を明らかにする動画を数十本作成し、ユーチューブで何百万回も再生された。これまでプーチンを批判した反体制派の活動家やジャーナリスト、実業家、元ロシアの情報機関員はことごとく暗殺されている。

1998年10月、FSB長官だったプーチンはアルファ部隊とヴィンペル部隊を1つにした特務センターを設立。

2002年3月、チェチェン独立派の指揮官アミール・ハッターブを神経剤が塗られた手紙で毒殺。FSBの犯行とされる。

03年7月、ロシア政府の腐敗と組織犯罪を批判していた調査報道ジャーナリスト、ユーリ・シェコチーヒン氏が不審死を遂げる。

04年2月、チェチェン独立派の最高指導者ゼリムハン・ヤンダルビエフをドーハで爆殺。カタール当局は3人を逮捕。このうちロシア大使館員1人は外交特権で釈放され、GRUの工作員2人が起訴される。

04年9月、ウクライナのヴィクトル・ユシチェンコ大統領候補に猛毒のダイオキシンが盛られる。美男子のユシチェンコ氏はアバタだらけの顔に。

05年3月、FSB特殊部隊がチェチェン独立派の最高指導者アスラン・マスハドフを殺害。

06年6月、FSBがチェチェン独立派の最高指導者アブドゥル=ハリーム・サドゥラエフを殺害。

06年10月、第二次チェチェン戦争を報道したロシア人女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤさんがモスクワの自宅アパートのエレベーター内で射殺される。04年9月のベスラン学校占拠事件の現場に向かう際も機内で毒を盛られ、意識を失う。

06年11月、元FSB幹部のアレクサンドル・リトビネンコ氏が放射性物質ポロニウム210で毒殺される。英政府はKGB元職員のロシア人実行犯2人の引き渡しを求めるもプーチンは応じず。英公聴会の報告書は「おそらくプーチンやニコライ・パトルシェフFSB長官(当時)は承認していた」と結論付ける。

08年9月、ウィーンでカザフスタン国家保安委員会(秘密警察)元議長アルヌール・ムサエフ氏がロシア語を話す4人組に誘拐されそうになる。

09年1月、チェチェン共和国首長ラムザン・カディロフのボディガード、ウマル・イスライロフがウィーンで暗殺される。

09年3月、ドバイで元GRU特殊任務部隊司令官スリム・ヤマダエフが射殺される。

12年11月、ロシアの内部告発者アレクサンドル・ペレピリチニー氏がロンドンでジョギング中に不審死。米英の情報機関は暗殺とみているとバズフィードがスクープ。

15年2月、反政府運動を展開していたボリス・ネムツォフ元ロシア第一副首相がモスクワで射殺される。

15年5月と17年2月、ロシア野党政治家ウラジーミル・カラ=ムルザ氏が2度にわたって毒を盛られる。カラ=ムルザ氏は23年4月、国家反逆罪などで禁固25年の刑を受ける。

18年3月、英イングランド南西部ソールズベリーで元二重スパイのセルゲイ・スクリパリ氏と娘ユリアさんをノビチョクで毒殺未遂。警官と市民計3人が巻き添えになり、うち女性1人が死亡。

18年9月、ロシアのフェミニスト・パンク・ロック集団プッシー・ライオットの非公式報道担当者ピョートル・ヴェルジロフ氏がモスクワで毒を盛られる。

20年8月、 空路モスクワに向かうナワリヌイ氏がノビチョクを盛られる。

23年8月、反乱を起こした「プーチンの料理番」こと露民間軍事会社ワグネルグループ創設者エフゲニー・プリゴジンを乗せた民間航空機が墜落。乗客7人乗員3人が全員死亡。

前出のガレオッティ氏は「誰でも殺せるのは強さではない。彼はプリゴジンを、今度は獄中のナワリヌイ氏を殺さなければならないほど恐れていた。これは強さではなく弱さだ。全体主義への道であるだけでなく、老いたプーチンが、彼が見せかけたいほど自信を持っていないという兆候でもある」と指摘している。

プーチン政権の新たな犯罪と非難 ノーベル平和賞団体のメモリアル

共同通信 によるストーリー • 

ロシアの人権団体「メモリアル」の事務所=2021年12月、モスクワ(ロイター=共同)© 共同通信

 2022年にノーベル平和賞を受賞したロシアの人権団体メモリアルは17日、反政府活動家ナワリヌイ氏の死亡を受けて声明を発表し「プーチン政権の新たな犯罪で、処罰されなければならない」と非難した。

 政権が「暴力や侵略、自由剥奪、政治犯殺害という手段」でロシアを「偉大なソ連の過去」に戻そうとしていると指摘。ナワリヌイ氏の死は「ロシアが世界に脅威を与えない民主国家になり、軍がウクライナから撤退するよう望む全ての人にとって悲劇だ」と悼んだ。

 メモリアルはソ連時代の政治弾圧などの犠牲者に関する資料を記録してきた。(共同)


G7外相、ウクライナ支援「揺るぎない決意」確認…ロシアにナワリヌイ氏の死因究明を要求

読売新聞 によるストーリー • 

モスクワでの法廷にビデオ通話で出席したナワリヌイ氏(2023年6月)=ロイタ-© 読売新聞

 【ミュンヘン(ドイツ南部)=中西賢司】先進7か国(G7)は17日、ミュンヘンで外相会合を開き、ロシアの侵略を受けるウクライナへの支援を継続する「揺るぎない決意」を改めて確認した。議長国イタリアが終了後の議長声明で明らかにした。

 G7外相は声明で、ロシア当局に対し、収監中に死亡した反政権運動指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏の死因究明を要求。政権批判者らに対する「迫害」などを止めるよう求めた。

ロシア暗殺の現状

【プーチン大統領の誕生】
1998年7月、ボリス・エリツィン露大統領によってFSB長官に指名される

同年8月、エリツィン大統領によってロシア首相に指名される

99年12月、エリツィン大統領が辞任したため、大統領代行

2000年3月、ロシア大統領に当選

08年5月、大統領を退任して首相

12年5月、大統領に返り咲き

【暗殺・毒殺リスト】
1998年10月、プーチンFSB長官が組織内にアルファ部隊とヴィンペル部隊を一つにした特務センターを設立

2002年3月、チェチェン独立派の指揮官アミール・ハッターブを神経剤が塗られた手紙で毒殺FSBの犯行とされる

03年7月、ロシア政府の腐敗と組織犯罪を批判していた調査報道ジャーナリスト、ユーリ・シェコチーヒンが不審死を遂げる

04年2月、チェチェン独立派の最高指導者ゼリムハン・ヤンダルビエフをドーハで爆殺。カタール当局は3人を逮捕。このうちロシア大使館員1人は外交特権で釈放され、GRUの工作員2人が起訴される

04年9月、ウクライナのヴィクトル・ユシチェンコ大統領候補猛毒のダイオキシンが盛られる美男子のユシチェンコはアバタだらけの顔に

05年3月、FSB特殊部隊チェチェン独立派の最高指導者アスラン・マスハドフを殺害

06年6月、FSBチェチェン独立派の最高指導者アブドゥル=ハリーム・サドゥラエフを殺害

06年10月、第二次チェチェン戦争を報道したロシア人女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤがモスクワの自宅アパートのエレベーター内で射殺される。04年9月のベスラン学校占拠事件の現場に向かう際も機内で毒を盛られ、意識を失う

06年11月、元FSB幹部のアレクサンドル・リトビネンコが放射性物質ポロニウム210で毒殺される。英政府はKGB元職員のロシア人実行犯2人の引き渡しを求めるも、プーチン大統領は応じず。英公聴会の報告書は「おそらくロシアのプーチン大統領やニコライ・パトルシェフFSB長官(当時)は承認していた」と結論付ける

08年9月、ウィーンでカザフスタン国家保安委員会(秘密警察)元議長アルヌール・ムサエフロシア語を話す4人組に誘拐されそうになる

09年1月、チェチェン共和国首長ラムザン・カディロフのボディガード、ウマル・イスライロフがウィーンで暗殺される

09年3月、ドバイ元GRU特殊任務部隊司令官スリム・ヤマダエフが射殺される

12年11月、ロシアの内部告発者アレクサンドル・ペレピリチニーがロンドンでジョギング中に不審死。米英の情報機関は暗殺とみているとバズフィードがスクープ

15年2月、反政府運動を展開していたボリス・ネムツォフ元ロシア第一副首相がモスクワで射殺される

15年5月と17年2月、ロシア野党政治家ウラジミール・カラ=ムルザ毒を2度にわたって盛られる 

18年3月、英イングランド南西部ソールズベリーで元二重スパイスクリパリと娘をノビチョクで毒殺未遂

18年9月、ロシアのフェミニスト・パンク・ロック集団プッシー・ライオットの非公式報道担当者ピョートル・ヴェルジロフモスクワで毒を盛られ、今回と同じシャリテー・ベルリン医科大学病院で治療を受ける

20年8月、 空路モスクワに向かう反体制活動家ナワリヌイノビチョクで毒殺未遂、治療に当たった医師が死亡。


⑴ 「暗殺兵器」ノビチョク 謎に包まれた正体


「ノビチョク」はもともと旧ソビエトが軍用に開発した化学兵器で、その正体は断片的にしか分かっていません。

確かなのは、極めて強い毒性を持つことと、検出が難しいこと。
ロシアはノビチョクを暗殺に使うため、毒の威力を弱めるなど改良を加えて保有し続けているーー欧米や日本の軍事専門家の間では、こうした見方もあります。
ノビチョクの名前が世界中で知られるようになったのは、おととしの事件がきっかけでした。

イギリス南部でロシアの元スパイ・スクリパル氏とその娘が、意識不明の状態で見つかったのです。イギリスの警察はノビチョクを使った暗殺未遂事件と断定。ロシア軍の情報機関に所属するロシア国籍の男2人を容疑者として特定し、写真を公表しました。


⑵ 「裏切り者」が次々消えていく ロシア暗殺の歴史を振り返る

ナバリヌイ氏は20日、西シベリアの街トムスクからモスクワに戻る機中で体調が悪化。集中治療室で人工呼吸器をつけられるほどの深刻な状態となった。ロシアの病院は「毒物は検出されなかった」としているが、側近は、その前に飲んだお茶を疑い、「政権に毒物を盛られた」と主張。治療と安全のため、国外への転院を求めた。受け入れたドイツ・ベルリンの病院は、神経剤の成分を体内から検出したとしている。

実は「お茶」は、以前にもロシア関連の暗殺事件で登場した道具だ。中でも記憶に残っているのが、チェチェン紛争でのロシア政府による残虐行為などを批判してきたノーバヤ・ガゼータ紙のアンナ・ポリトコフスカヤ記者が2004年、機内で出された紅茶を飲んで意識不明の重体になった事件。このときは奇跡的に回復したが、わずか2年後の06年に自宅アパートのエレベーター内で射殺体で見つかった。くしくも、この日は10月7日で、プーチン大統領の誕生日。そのため「誕生日プレゼント」という見方が出た。このことも強烈に記憶に残る理由となった。やはり06年にロシアの元スパイのアレクサンドル・リトビネンコ氏亡命先のロンドンで殺害された事件では、体調を崩す直前にロンドン中心部のホテルのバーで飲んだのが緑茶だった。猛毒の放射性物質「ポロニウム210」が混入されており、その3週間後に死亡した。

英国政府が設置した独立の調査委員会が16年に報告書をまとめ、殺害はロシアの情報機関「連邦保安局」(FSB)の指示で実行された可能性が高く、プーチン大統領も「おそらく承認していた」と結論づけて、世界に衝撃が走った。

誕生日と言えば、90年代にロシアのある地方の市長が殺害された日は、利害の対立があったとされる、元石油王のミハイル・ホドルコフスキー氏の誕生日だったという。これまでもソ連やロシアの情報機関は国内だけでなく、国外の殺害事件でも関与を疑われてきた。59年、ドイツ・ミュンヘンで起きたウクライナの民族主義運動の指導者ステパン・バンデラ氏の暗殺。78年には、ブルガリアから亡命してソ連圏の言論弾圧などを批判した作家ゲオルギー・マルコフ氏がロンドンで毒を仕込んだ傘で刺され、殺された。ソ連が崩壊し、ロシアになってからも、上記の事件のほか、04年にもチェチェンのヤンダルビエフ元大統領代行がカタールの首都ドーハで、乗車中の車を爆破されて死亡。一時より減ったとは言え、最近も政権の関与が疑われる事件が続いているロシア当局は関与を否定しているが、国内外からの疑いの声は消えない。その大きな理由が、殺害された人々の多くが、野党指導者やジャーナリスト、元スパイら政権が敵視する人物で、容疑者として政府の関係者が浮上することがあるからだ。見方によっては、否定する姿が芝居じみて見えるほど、わざと政権が関与した痕跡を残しているようにも思える。

例えば、15年に野党指導者ボリス・ネムツォフ氏が、モスクワのクレムリンを目の前に望む橋で銃撃されて殺害された事件。実行犯として有罪となったのは、チェチェン共和国駐在の内務省軍副隊長らだったが、背後関係が不明なまま、捜査に事実上の幕が引かれてしまった。

18年に、英国の商業施設のベンチで元ロシア軍情報機関大佐セルゲイ・スクリパリ氏と娘ユリアさんが意識不明で発見された事件でも、英当局は、旧ソ連で開発されたとされる神経剤「ノビチョク」が使用され、容疑者らは「ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)の将校」と認定した。名指しされた二人は実際に現地に行ったことは認めたが、「観光目的だった」と主張した。
ユリア・スクリパリさん=フェイスブックから


⑶ 「裏切りは絶対に許さない」掟

そのため、こうした暗殺の目的を、「対立する人物への警告や見せしめの意味もある」とみる専門家もいる。しかもロシアの情報機関には、「裏切り者は絶対に許さない」という掟があるとされる。

リトビネンコ氏の場合、英メディアなどによると、88年からソ連の国家保安委員会(KGB)で勤務。ソ連崩壊後も、後継組織のFSBなどでテロ対策や組織犯罪対策部門に所属したという。

ところが98年、上司から政商ベレゾフスキー氏らの暗殺を指示されたことを記者会見で暴露。その後出版した本では、約300人が死亡したモスクワの高層アパート爆破事件について「チェチェン武装勢力によるテロではない。チェチェン侵攻の口実を作ろうとしたプーチンとFSBの自作自演だった」と指摘した。

2000年にトルコ経由で英国に亡命し、チェチェン問題への対応などでプーチン大統領を厳しく批判。亡命中のベレゾフスキー氏らプーチン批判の急先鋒と親交を深め、暗殺されたポリトコフスカヤ記者とも接触していた。

そのポリトコフスカヤ記者関連でも、06年にチェチェン共和国の特殊部隊元幹部のモブラジ・バイサロフ氏が暗殺されたが、ポリトコフスカヤ記者の暗殺事件で検察当局に証言をする矢先だったという。
英国などの報道によると、スクリパリ氏もGRU勤務時に英国のスパイとして活動していたが、ロシアで逮捕され有罪判決を受けた。スパイ交換でアメリカ側に引き渡され、英国に亡命していた。

こういった「裏切り者」への嫌悪感は、一般のロシア国民の中にも多かれ少なかれ、存在していると感じる。スクリパリ氏の暗殺未遂事件を伝える記事に国営メディアがつけた見出しは、「裏切り者の元スパイが毒を盛られた」だった。

これらの事件に政権が本当に関わっているのかは分からない。だが、少なくとも、政権に敵対したり、不正をした仲間を告発したりする「裏切り」を、かなり踏みとどませる効果があるのは間違いないだろう。

CIA(米中央情報局)といった他の国の情報機関なども暗殺事件を企ててきた過去がある。だが、いまも国内外で反政府派が暗殺され、真実が判明しないという国は限られる。ここにロシアの深い闇があると言えるだろう。

⑷ 「1人殺して2万円」と言われた時代も


ソ連崩壊後、ロシアは急進的な経済改革を採用し、政治家や新興財閥、マフィアなどが勢力拡大にしのぎを削る「弱肉強食」の世界となった。いまより格段に社会が不安定で、殺人事件もはるかに多かった。

新聞や雑誌でよく見たのが、自動車事故を装った殺人。例えば交差点を直進する車に、わざと曲がってぶつけて殺すといった手口だ。確実に殺すため、被害者の運転手を犯人グループの一員にすることもあったという。高級ホテルのレストランに自動小銃を持った男が乱入。銃を乱射して敵対する組織の幹部を殺した後、ゆっくり歩いて立ち去った事件もあった。

殺人の相場は1人200ドル前後(約2万1000円)とも言われ、驚くほど「命の値段」が安かった。犯人が捕まったというニュースを見た記憶は無い。

選挙が近づくと、政治家が命を奪われることもあった。ほかに大勢が殺されたのが銀行員アングラマネーを扱うことで一獲千金のチャンスを得た一方、マネーロンダリングなどに失敗すると、容赦なく責任を問われた。1年に100人以上が殺されたという報道もあった。

当時のロシアの一般的な治安は、日本で言われているほど悪くはなかった。優しいロシア人も多かった。だが、マフィアに狙われたら最後、命が助かる見込みはなかった。(中川仁樹 朝日新聞)

北方領土から泳いでロシアから逃げた事例

北方領土・国後島から「亡命のため泳いできた」と話し、難民認定を求めるロシア人男性ワースフェニックス・ノカルド氏(39)が9日までに共同通信の取材に応じ、ロシアのウクライナ侵攻を非難した上で、島を離れた判断は「正しかった」と振り返った。「ロシアに残っていたら、戦地に送り込まれていたかもしれない」と主張した。
 ノカルド氏は昨年8月、北海道標津町で警察に保護され、入管施設に収容された後に難民認定を申請。同10月に仮放免されて以降、メディアの取材に応じるのは初めて。渡航理由は「強権体制のロシアから離れたかった。プーチン政権に嫌気が差した」と話していた。

My Opinion.

吉幾三の曲「♬ おら、こんな国 嫌だ、♫  報道の自由がない♬ 民主主義て何者だ、本当のことを言ったら則、刑務所 ♬ おら、こんな国 嫌だ ♬ モスクワで出て行って牛飼うだ♬』 
自暴自棄になるロシアの姿が見える。呵々。 
 どんとはらい!


参考文献・参考資料

ロシアでナワリヌイ氏追悼の動き 独立系紙「拷問に苦しんでいた」 (msn.com)

ナワリヌイ氏を追悼する支持者らが献花、プーチン政権は8都市で100人以上拘束か (msn.com)

ナワリヌイ氏は「散歩後に意識失った」 ロシア政府責任問う声も (msn.com)

プーチン政権批判のナワリヌイ氏、北極圏の刑務所で死亡…散歩後に「体調が悪い」と訴え意識失う (msn.com)

ロシア反政府活動家ナワリヌイ氏「獄死」...大統領選を前にプーチンは怯えている 「これは強さではなく弱さ」 (msn.com)

プーチン政権の新たな犯罪と非難 ノーベル平和賞団体のメモリアル (msn.com)

G7外相、ウクライナ支援「揺るぎない決意」確認…ロシアにナワリヌイ氏の死因究明を要求 (msn.com)

ウクライナ大統領に迫る刺客とその黒幕|蟹瀬誠一 (note.com)

政治講座ⅴ312「殺人の相場は1人200ドル前後(約2万1000円)とも言われ、驚くほど「命の値段」が安かった。ロシアには人権は無いのか」|tsukasa_tamura (note.com)

政治講座ⅴ13「日本の戦国時代、恨国と北の権力闘争と処刑そしてロシアの暗殺」|tsukasa_tamura (note.com)

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