迷走から始まり、瞑想して始まる
ここ数日、デスクの片付けや模様替えに勤しんでいた。
特に大まかな理由がなければ、明確な完成なるイメージすらまともに思い描いていない。それは、今現在もなお進行中でもあったりする。
机自体の向きであったり配置などと、細かい部分で気に入らない一方で、個人的に「いいな」と思った機材を、片っ端から購入してみたりしている。
ただ、ほとんど頭の中で理論的に考えようとせず、自身の脊髄反射で行動してばかりいる。我ながら、呆れた手段に出し続ける日々を過ごしていた。
いずれ、自分の思い描いた環境へ完成に近づいたとしても、おそらく数日ほど経てば気が変わり、白紙に戻すようにして、レイアウトを一からやり直すことになるかもしれない。
こうした自分の飽きっぽい性格に、なんとも言えない苛立ちを覚えてしまう。一つの物事に長続きしない要因は、たぶん遠回りしすぎて深く考えすぎた挙句、糸口すら見つけられない結果を、何度も残しているからなのだと思う。
主観的に近づいているつもりが、側から見れば遠ざかっていることに気づいていない時点で、もはや手遅れと等しい。これまでの人生で幾度、周回遅れになってしまったことか、今さら数えたとしてもキリがないくらいだ。
綻びができてしまったその穴を、必死で藻がいて埋めることはもはや困難だろう。
開き直るわけではないが、私自身、誰かと足並みを揃えて歩くことを諦めている。それはもしかしたら、家庭を作り、将来を育むことも含まれているかもしれない。
自ら降りることは、不思議なもので意図容易く出来ている。だからといって、そこで己の人生を諦めてしまったら、その程度の人間でしかなかったことを、自分で証明することになりかねない。
「生きてるだけで、丸儲け」だと、誰もが口々にそう語る言葉を、ふと思い出してみた。
この先、特に自分自身に安寧という未来が約束されないのなら、あるがままに生きる姿勢を見せたらいい。
幸か不幸か、どちらに転んでしまおうが関係ない。この場で終わらせる気がないなら、終わらせる旅の支度でも始めたらいい。
悲観的な声を聞くのも、そろそろ飽きてきた頃合いだ。ただただ首を垂れて泥まみれの言葉を投げ続けるだけで、その場から一歩も行動しない者たちに、興味を示す必要などない。
所詮、人は飛べやしない。ならば、その先はどうするか?
自分の口から他人の言葉を借りて語るならば、数々の功績を残した偉人の名言よりも、ありのままに思いついた台詞がちょうどいい。
心が形がどうなっていようと構わない。語るべき次の口先は、昔よりも未来につなぐための今だろう。
最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!