見出し画像

群れず集まる鳥

4年前の今頃、私の分身アイコンでもあるその鳥は、まるで鏡として写しているような由比ヶ浜に降り立っている。

当時、世間では一つのパンデミックに巻き込まれようとしている中、私は鎌倉の鶴岡八幡宮へと車を走らせていた。

別段、前々から計画していたわけではない。某隣国から発生した未知なる構造体が間もなく日本に上陸するであろうニュースを聞きつけ、この一年を無事に生き延びることができますようにと祈願の意を持って向かっていたのである。

そこでお参りを済ませた後は境内をぶらりしながら、ぼたん庭園で色鮮やかに咲いていた八千代椿に心惹かれ、思わずスマホを取り出しては一枚の写真に収めたりしていた。

やがて正午を回ると、鎌倉駅の近くに佇む小洒落たお店に立ち寄り、そこで生しらすとマグロの刺身が一緒にのった海鮮丼を食す。

そこから急に海が見たいと思いつき、横須賀線が走る線路の高架下をくぐり抜け、一の鳥居を横目に見ながら通り過ぎ、由比ヶ浜まで歩いて向かっていった。

やはり真冬の海岸はとてつもなく寒い。その場でじっとしていると、海より先からやってくる冷たい風によって、自分の体がどうにかなってしまいそうになる。

なぜ唐突に海が見たくなってしまったのかと自問自答しつつ、顔の下半分をコートで隠しながら果てしなく続く砂浜を歩いていると、ヤツらはそこにいた。

はじめ1羽しかいなかったその鳥は、時間が経つごとに1羽…いや5羽?それとも10羽以上か?

みるみるうちに、そこにどのくらいいるかを指折っても数えきれないほどに集まってきた。もはや、最初に見た1羽がどこに身を潜めてしまったのか、こちらで把握しきれない具合に、一つの群れを成している。

だがこれを果たして群れと呼ぶべきなのだろうか、などという疑問点が浮かび上がったのである。

仮にこれを人間として置き換えるとするのなら、ちゃんと整列されておらず皆それぞれの個性を纏った者たちが、自らの意思を持ってその場所に降り立っている。

要約するなら、てんでんバラバラである。

 

あの時ほんの一瞬だけ立ち尽くしていたようにも見えた、ただの白い鳥を自分の分身アイコンとして、また再び此処noteに降り立ってからちょうど半年が経過した。

今日まで歩みを重ね続けてきて、望んだ自分になることができたかあるいは望んだ未来に立つことができたか等と問われると、私には未だ「はい」とか「イエス」などを使って答えられそうにもない。

およそ180日以上続けてきて、ようやくここまで辿り着くことができたという自負を感じることがあれば、まだまだこんなところまでしかやってきていないという劣等感に襲われることがある。

ただ、これまでもそうであったように、これ以降も私自身が綴る言葉は決して「肯定的」だとか「否定的」などという、分かりやすく示した一種の概念に捉われない姿勢を貫いていきたい。

数字に一喜一憂せずとも、時々文章が曖昧に形作られていると思ってしまっていても。そこに見てくれたもしくは感じてくれた人の、心のどこかにほんの僅かでも残ってくれればいい。



この記事が参加している募集

振り返りnote

最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!