聖書

(聖) 「自分以外に信じられる物を持つことのメリット」 (聖書の学び 28)

(約 2,300文字の記事です。)

*日本のキリスト教徒は日本人口の約1%らしい

たまたまネットで知った情報です。あまり聖書とは関係ないですが。かといって、

*「あなたは仏教徒ですか?」という問いに対して

「YES」と即答できる人も少ない気がする。もちろん、お葬式ではお坊さんを呼ぶだろうから家全体では仏教徒と言うことだろうが、そういうことではなくて、

*あなたの心は何を信じているのですか?

と言うことなのだ。

経典は何ですか?
その中のどんなフレーズがあなたの心の真ん中にありますか?

ということなのだ。ソレがなければ、それは宗教とは言えない。信じるに値しない。それはもはや無宗教と一緒だ。実際、日本人は無宗教ではないかとさえ思っている。それはそれでいい。各自の自由だからだ。その結果、今の日本があるというのは、多少なりとも納得できる。

無宗教の害悪は、以前にnoteで記事にした。心の中で勝手に作った聖人君子を目指して心が破綻してしまうことになる。それは確実なシナリオだ。だって絶対に目指せない人物像を理想像においているのだから、絶対になり得ない。結果的にひずみを自分で受けて自壊する。必然。それが無宗教の害悪。

*別に何を信じてもいい。自分以外の何かを信じられるならば

混沌の今の時代、本当に、信仰心無しで乗り越えられるとは思えない。自分自身が信じられない状態で、他の何も信じられないならば、それは生きながらにして地獄みたいなものではないか?

そのときの気分で判断していて、ソレが本当に正しい判断か?人は気分でコロコロ変わる。ソレが人なのだ。私の場合は聖書の教えを真ん中に据えているのでぶれにくいが、そうでない人はよくブレる。でもそれはその人の判断なので尊重しよう。ただ、あまり関わりたくはないなと思います。

で、あなたはどうですか?自分以外に信じられる教えや学びがありますか?これにYesと答えられる人は、きっとこれからも強く生きていけると思います。私の出る幕はない。でも、ほとんどの人がNoだと思います。だから「常に」迷っている?違いますか?「常に」です。これが重要です。

私の場合は逆に「常に」聖書の教えが心の真ん中にあります。だからぶれません。死に直面しても、ぶれないでしょう。そういう不安は既に神様に預けました(笑)今日、生きていることが、感謝でしかないからです。今日が、また、明日があるように、美味しいものが食べられることに、感謝。

*マジで思うんだよ。信仰心なしで死ぬまで自分をぶらさない方法なんてあるのかな?って。

本屋さんには沢山の啓発本があるけれど、それを全部読んだとして、自分がぶれなくなるかってのは疑問だ。来年その本がその棚にあるとは限らない。刹那でしょ?ぶれない自分のコアを作る要素がそんな刹那ものであるはずがない。じゃあどうやってソレを作ればいいのか。

ご自身で選べばいい。

私の場合は聖書だった。それだけだ。聖書を選ぶかどうかはご自由にして下さい。信仰心の押し売りほどウザい物はない。これは私も分かる。

ですが、善悪の判断する心の声を、聖書では聖霊として考えると、色んなことがしっくりきます。その判断は聖霊を通じて神様が「その人にとって望ましい人生を歩むように」とのおぼしめしから来るものだと考えると、色々よく分かります。聖書の学びがなければ到達できない考えです。

これ以上は、申し上げません。心の声に従って、真に自分以外の何かを信じたい人にしか、分からないと思っています。なので講釈は終わり(笑)


*Noと言える勇気。立ち向かえる勇気。

多分、信仰心の効果の一つは、これだと思う。心から信じられる物がなければ、Noと言ったり大勢に立ち向かうことは難しい。だって、そうしない方が楽だから。だが、死ぬまでの人生を考えたとき、あなたの一挙手一投足が、あなたの人生なわけで、そこで後悔しない判断の根拠を心の中に持てるのって、ソレはとても幸せなことだと思うのです。後悔して生きる時間も、新たな明日の希望を持って生きる時間も、等しい。それが人生です。どっちを選びたいか。

*何があなたの幸せか?

だんだん哲学的になってきた(笑)でもとても重要なこと。

「あなたにとっての沢山ある幸せのうちの一つは、何ですか?」

これに即答できますか?考えて話すのではなく、既に決まっていて即答できますか?ということです。言われて考えるのではなく。

信仰と向き合うと、必ず向き合うことになるテーマの一つです。信仰心を持つと言うことは、こういうことに常日頃、経典を通じて自問自答する機会があります。一方で、無宗教だと、自己啓発本でも読まない限りそういう機会はないと思います。その違いです。

*かたくなに無信仰を貫くメリットがないならば、何か一つ探してみては?

これが今回の結論です。別に誰も無信仰であることにこだわっている人はいないと思う。ただ、自分が信じられる良い信仰に出会っていないから、中庸(真ん中)を取って取って、仏教徒的な対面を持ちつつも、実は心の真ん中はゼロ、という人が多いと思う。

それはそれで別に構わないけれど、それでいいと思っていない人も多いんじゃないかな。


*心の真ん中に信じられる物があると、幸せになれます。

で、幸せとは何かって?(笑)それはあなた自身が決めて下さい。このとき、この瞬間、幸せに包まれている人と、不幸に包まれている人、あなたはどちらになりたいですかってこと。

幸せとは、ご自身が決めることなのです。ご自由に。


どうせ生きるなら、幸せに包まれて生きたいよね?



今回の創作活動は約15分(累積 約1,214時間)
(369回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊