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辻村美月『傲慢と善良』を読んで①~現代の生きづらさである「善良」について~

 まず、本当に面白い作品でした。何がどう面白いのかについては実際に本を読んでいただいてもいいですし、そのうち映画化もするみたいなので、それを見るのもいいんじゃないでしょうか。私は上映されれば見に行きます。映画を見たら、また感想を書こうと思います。ここからは、ネタバレ有で、あらすじと感想について書いていこうと思います。「恋愛ミステリの傑作」と謳われている通り、ミステリ調なので、ネタバレ無しで作品に触れることを強くお勧めします。
 本書は2部構成となっており、1部がミステリ調となっています。ここでの主人公は架(かける)で、失踪した婚約者である真実(まみ)のことを調べていくことになります。ミステリなので、読み進めていくにつれ、どんどんと先が気になる展開になっていきます。その中で、主人公の架と真実のことが深掘られていきます。2部ではミステリ調はなりを潜め、失踪した真実の視点からの物語となり、真実の心情描写に特に力が入ります。ミステリ調の中で展開された架と真実、そのほか真実の母、姉、お見合い相手や、架の友人などの深掘りがミステリ中に前提として共有されているので、すらすらと内容が頭に入ってきます。この構成力は本当にすごいと思いました。最初のミステリ展開がなかったら、久々に小説に触れた私は途中で脱落していたかもしれません。(ちなみに、ミステリがなぜ面白いのかについては、『すべてがFになる』の作者である森博嗣先生が、『面白いとは何か?面白く生きるには?』という新書で言及されているので、もし興味があればおすすめです。)
 本書を読んで、①善良について、②母と真実の関係(+姉)、③婚活について、色々と考えました。以下、順に面白かったことや感じたことを書いていきます。
 本書で善良の体現者として描かれるのは真実です。結婚相談所の小野里という女性が、「現代の日本は、目に見える身分差別はもうないですけれど、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆さん傲慢です。その一方で、善良に生きている人ほど、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて、“自分がない”ということになってしまう。傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代なのだと思います」「その善良さは、過ぎれば、世間知らずとか、無知ということになるのかもしれないですね」と。これが本書で伝えようしている善良さのすべてだとは思います。また、自分の価値観に重きを置くことを傲慢だともとらえていますね。
 真実は母と共に結婚相談所に訪れているのですが、「親御さんに言われて婚活される方の大半は、結婚などせずに、このままずっと変わりたくない、というのが本音でしょう。…けれど、そのまま、変わらないことを選択する勇気もない。婚活をしない、独身でいる、ということを選ぶ意志さえないんです」「ですから、…強引に、選択しないまま、新しいステージに飛び込む方がいいんです。何も考えないまま結婚して、出産して、それでいいのではないか、と私は思います」と小野里は話します。なぜなら、「皆さん、謙虚だし、自己評価が低い一方で、自己愛の方はとても強いんです。傷つきたくない、変わりたくない」からだといいます。
 つまるところ、ここでいう善良とは、「自分が無いこと」であり、だからこそ、善良でいられる。しかしそれは、自分の力で生きていく力が無いことを意味しています。ここで面白いのが、善良さは現代に特有のものとして描かれている点です。現代は、情報があふれています。そのため、「どんな方でもまずは結婚の前提として恋愛を求める傾向が強いです。…恋愛経験が乏しくても、『この人ではない』と思ってしまう。そのうえ、皆さん、他人から理想が高いのではないかと指摘されるとたちまち否定」すると小野里はいいます。確かに、現代は情報があふれている社会です。情報へのアクセスコストが極限まで低下した結果、調べて得た知識と自分の状況をそのまま重ね合わせてしまい、本当は自分に選べる選択肢はそれほど多くなくても、多いかのように錯覚してしまうこともあると思います。現代の若者が抱える生きづらさの正体は、この辺りにあるのではないでしょうか(特に就活の状況などを見ていて強く感じます)。
 親や学校からの教育は、善良な人になりなさいと教えることが多いと思います。しかし、その結果本人が生きづらくなるのであれば、本末転倒です。では、教育で生きていく術を教えることはできないのでしょうか。本作では、難しいのではないか、というのが回答のようです。
 「真面目でいい子の価値観は家で教えられても、生きていくために必要な悪意や打算の方は誰も教えてくれない」「悪意とかそういうのは、人に教えられるものじゃない。巻き込まれて、どうしようもなく悟るものじゃない。教えてもらえなかったって思うこと自体がナンセンスだよ」と、架は真実の姉から持論を述べられます。真実は、負の感情を取り除かれ、苦労が無いようにと親に御膳立てされた道を、確かに歩いてきたのだと架は実感します。「親の望んできた『いい子』が、必ずしも人生を生きていく上で役に立つわけじゃないんだよ」という姉の言葉が、善良さと生きにくさが両立しない状況をよく表しているように思います。実際に、第2部で真実は架の女友達と話している最中、「彼女たちは噓のプロだ。嘘はいけない、という私が信じてきた常識を取り払った世界で、こんなにも上手に生きている」と実感します。
 つまり、「教えられない」ことが、善良さを生み出す、ということです。情報の入手がますます簡単になることで、知りたいことは何でも手に入るように錯覚するようになります。なぜ錯覚なのかというと、手に入る情報は「教えられる」情報のみなのです。つまり、善良になるための情報はいくらでも手に入るけれども、「上手に生きる」情報は手に入らない。しかもそれは上手に生きている人しか気づいていない。そんな構造が、現代社会にはあるのかもしれません。例えば、大学での学びは抽象的なものから具体的なものへと変化しており、学生が「わかる」かどうかで授業評価がなされます。巷にあふれているハウツー本も、具体的な手段は列挙されていますが、上手に生きるための情報が載っていることは非常に稀です(教えられないから当然ですが)。情報へのアクセスコストが極限まで低下し、それらしい答えが簡単に手に入る時代において、「体験」や「経験」、つまり「教えられないこと」の価値はますます高まっていると言えるのかもしれません。
 ここまでで既にけっこうな文字数になっていますので、②母と真実の関係(+姉)、③婚活については別のNoteとしてまとめたいと思います。長文を読んでいただき、ありがとうございます。引き続き読んでいただけますと幸いです。

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