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批判的とクリティカルは違うよ

2023年最後のゼミ、忘年会の帰りに院生の先輩に言われた言葉に、ここ数ヶ月間囚われ続けている。 
先輩の最寄駅に着きドアがそろそろ閉まるという去り際、あっ西野さん、と声をかけられた。

批判的とクリティカルは違うよ。
研究は、楽しく生きるためだよ。

(批判的とクリティカルは違う?…違う!?!?)

私はもう何が何だかわかんないほどに酔っ払っていたし、とんでもなく重い言葉と共に電車に取り残されて完全に混乱状態であった。
丁寧に説明しない先輩も先輩だよね、と指導教員に冗談混じりにフォロー(?)されながらとりあえず咀嚼を試みる。

アルコールが浸透した脳は微塵も動かなかったので、「これはきっと、ものすごく大事なことを言われたんだろうな」と直感的に判断し、忘れないように頭にメモする。
そのメモを、毎日読み返す。

さてさて、こんなことを言われてから早3ヶ月。
卒論の研究をようやくスタートさせた今、もう一回考えてみる。



批判的 ≠ クリティカル

https://www.ei-navi.jp/dictionary/content/critical/

criticalは批判的だし、批判的はcritical。
言葉の綾なんだろう、そこはあまり気にしないでいこう。

ここでなぜこの話になったか、推測される前提を話しておく。
私は12月上旬に例の先輩ととある町に旅行をしに行った。そこでは地域会議が開催されており、私は単なる観光で、先輩は研究のフィールド調査として訪れた。
もちろん地域の方々が何ヶ月も準備し、人脈やアイディアを駆使した本イベントは「美しい地域振興の物語」である。ただし、私はそこにどうしても違和感を感じてしまうのだった。
観光者に対して地元住民のクローズドな関係性、かのアンノン族隆盛期からは想像がつかないほど閑散とした土産物店、地域みらい留学と称して都心部から高校生を誘致する移住政策。
初めて訪れる場所ということもあり、SNSで映える観光地とは程遠いというギャップが私の中で「違和感」として残った。
こうして、私は感じたことを「こんなダークな部分もありましたよー!」と、さも自分が何かを発見したかのように自慢気に語ってしまったのである。

私は研究対象を突き離しすぎなのだという。

突然フィールドに入り込み、散々地域会議に参加し地元住民に話を聞いておきながら、東京に帰ってきた途端彼らのいない場所で批判をする
信頼で成り立った<研究者―研究対象>の関係性を壊すような批判の仕方をしていまっているということだろうか。

だが、もちろん現地でたくさんの知人を作りたくさんの学びを得たこの地で何か失礼なことをしでかしたとは思っていない。先輩方が時間をかけてフィールドに入り、現地で築いた関係性をなるべく乱さないように気をつけてきたつもりである。
他者が地域に入ってくることへのある種の抵抗を頭では理解していたから、建前と本音はきちんと切り替えたつもりである。
だからこそ、ゼミの場や先輩くらいにしか話していない。


批判とクリティカルの話に戻ろう。

おそらく、どちらかがあるべき理想でもう一方が私の現状だろう。
ここで「クリティカル」を研究者のあるべきスタンスだとすると、私の「批判」的態度は何かが間違っているということになる。

どちらのワードも、「批判的なまなざしで事象に向き合う」という意味合いとしては同じであろう(“批判的”まなざしと批判は、また少し違う)。
では、これは程度問題なのだろうか?

「あまり厳しすぎる批判だとちょっと良くなくて、でもしっかりと社会の矛盾を突くような鋭い視点は必要だよね。」
…そんな曖昧な判断基準では、私は納得しない。そして先輩はきっとそんな意味で言ったんじゃない。


研究者とは、そういうモン

こうやって自分なりに先輩の言葉を噛み砕いて解釈してきたけれど、やはり「研究者とはそういうモン」ではないだろうか…?という身も蓋もない疑問が自身の根底にある。

その後先輩の博論構想発表を拝聴させていただいたが、「いや、先輩もどこかで突き離してるじゃん!」と思ってしまったのだ。
ある地域に行ってきました、色々人と出会って調査してきました、でもおおっぴらには語られていないウラの文脈があり、それを検討します…。
彼らのいないところで分析しているのは、突き離すこととイコールではないだろうか?

事象や地域の生活を丁寧に描く、までは人類学である。
そこに、構造化するという工程を入れることで初めて社会学研究になる(と、私は解釈している)。
いくら現場に入り込めたとしても、社会を構造で捉え図式化してから考えるものが社会学であるとしたら、「構造を見る」という権威的な行為を挟んでいるじゃないか!

研究者とは、研究とは、どこかメタ的で神的なポジションにいないとできないことだと感じる。
研究とは、そもそも権威的なものではないだろうか?

「突き離しすぎ」という指摘が研究地域における人間関係や表面的なコミュニケーションの話であるならば、私はそこに関しては自信がある。
低い姿勢でフィールドに入り、他者と良好な関係を築けというのであれば、それはまさに私がしてきたことだ。だからこそ地域の批判的分析は学問に携わる人間だけにしか話さなかったし、地元住民の前では明るく振る舞った。
そこはある意味で分人主義というのだろうか、猫を被っているわけでも裏表があるわけでもなく、研究云々以前に現代社会でコミュニケーションとして当然に求められる振る舞いである。
パフォーマティブと批判されても、受け入れられない。


以前、指導教員の先生がこんなことをおっしゃっていた。

現地のハーモニーを突き崩すのが研究である。

そこにあった社会の営みに第三者が入ってくることで初めて、その社会の様相が明らかになるのだ。それを“批判的”だと批判されては仕方がない。一歩も動けなくなっちゃう。

研究者って??
わけわからなくなる。

とはいえ、「研究対象に同化することがいい研究であるとは限らない」という指摘も予想しうる。
人は本当に自己の分析なんてできないはずだからだ。そして対象に同化していくうちに、自分自身に関する研究になってしまう。

私が研究をしようとする社会もまた、私が属する社会である。
ただ、地域とかコミュニティとかの単位である程度の距離は取れるはずだ。
自分や自分の属する社会のことは分析できないけれど、それを別のものであると仮定して距離を取ること、批判的まなざしを向けることから研究は始まるのだと思っている。
本来は同じ地球上の同じ生命体だとしても、自己と他者の境界線を引くことによって双方の存在が確立される、的な。

では、私が指摘されたことは、その距離感の問題なのだろうか?
やはり程度問題に立ち帰ってしまう。


社会学は社会の粗探しではない。

だけどついついしてしまう、粗探し。

私のゼミは100分間あって、輪読や個人の発表に対して議論する時間が存分に与えられている。
だけど学部生が数十分間で展開できる議論なんてたかが知れていて、じっくり検討もせず頭に浮かんだ意見や違和感をそのまま口に出していくうちに議論が成立してしまう(自省)。
自身の嗅ぎ当てたものの正体がわからないからモヤモヤや違和感といった言葉で形容しているに過ぎず、それらは問題意識にもリサーチクエスチョンにも成り得ぬものである。
私は(ある意味で)敏感で、「これっておかしくない?」を嗅ぎ当ててしまいがちだからこそ結果稚拙な指摘を繰り返し、日々の社会への不満を語ることで何かものすごく良いことを言った気になって終わってしまうのである。

これぞ、粗探し。反省反省。


研究対象との接点を見つけよ

研究対象はどこかで自分と繋がりを持っていないといけない。

これまた別の先生からご指摘いただいたことである。
「自分自身のことを分析できない」と先述したが、そのことがむしろ研究のキーになりうるのである。

私は人の死や苦しみと結びついた観光地である「ダークツーリズム」という観光現象に関心がある。特に広島の原爆をめぐるツーリズムに興味があり、卒業研究に向けて構想中である(涙)。

ダークツーリズム研究をされている先輩方によると、このテーマに関しては特に研究の意義をしっかりと求められるのだという。
世界的にも有名で、社会通念上重要とされる空間になぜわざわざあなたが入り込んでかき乱す必要があるのか?を説明できるようにしなければ、研究する意味がないからだ。
平和教育や歴史学習だけでなく、傷ついた被害者が存在するデリケートな問題だからこそ我々研究者にはその影響力を自覚しなければならないのだろう。

正直親戚に被爆者の方はいないし広島出身でもないし、私は広島にはなんの関係もない。
しかしこの状態を「縁もゆかりもない土地」と切り捨ててしまうことは、自分とは関係ないし他人だし…と好き勝手批判することに繋がりかねない。
そこには社会や暮らしがある。研究者と研究対象双方がなんの文脈も共有していないのだと一度みなしてしまえば、切り放題!なのだ。

広島を研究対象に考えていると伝えると、先生は「遠過ぎる」とおっしゃった(当方都内在住)。
フィールドワークなら夏休みに計画中だし、新幹線で4時間だし…と思っていたが、聞くと研究にはたかだか1、2回のフィールドワークでは足りないのだという。
どの社会も、赤の他人がちょろっと見に来たところで理論で綺麗に整理できる話では到底ない。研究対象にまさか通うことは想定していなかったため、衝撃を受けたエピソードである。
「通う」ことで、完全な他者としての位置づけから同化していけるのではないだろうか。


少し自分と関連しているからこそ、己を切りにくいように研究対象をバッサリ切ることはできないのかも知れない。
その切りにくさこそが、構造化する研究者の権威性を和らげているとも言えないだろうか。

研究は、ある種の客観性と主観性のバランスの中で成り立っていると結論づける。


今までのゼミの場では好き放題世の中を批判できて、正直実に快適だった。
しかし4年になって研究への実践を見据えた今、それだけでは研究でもなんでもないことを痛感している。
自分がどういうスタンスで社会と向き合っていくのか、すなわち研究者としての生き方(ちょっと言い過ぎた恥ずかしい汗)をじっくりと考えられる機会をくださった先輩に感謝である。

後半部分、「研究は楽しく生きるため」に関しては、また別に考えよう。
今日はこれでお腹いっぱい。


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