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「学校」という"母性のユートピア"、あるいは"ディストピア"―④教師はいかにして教室の「秩序」をつくるか

赤尾が目配せをすると、白石がいつもの五倍はあろうかというほど大きな太い文字で、黒板にある言葉を書きはじめた。
《結果より▢▢》
「さあ、▢▢のなかには、どんな言葉が入ると思う?」
 赤尾の問いかけに、「気合」「練習」「中身」――いろいろな言葉があげられたが、ついに正解は出てこなかった。赤尾の合図に、ふたたび白石がチョークを手に取る。
「結果より・・・・・・成長?」

『だいじょうぶ3組』乙武洋匡 講談社文庫 2012年 p130より
*太字は筆者による。また▢▢の部分は実際には二文字分の空白

作家の乙武洋匡氏は、2007年から2010年まで杉並区の小学校で教員をしていた。『だいじょうぶ3組』は、その体験を元に書かれたフィクションの小説で、2013年には映画化もされている。
引用した場面は、子どもたちがとある結果を求めて努力してきたものの、それが叶わず落胆しているところに、乙武氏がモデルとなっている赤尾先生が、その経験を学びに昇華させるべく生徒に語りかけている、というシチュエーションだ(ここに至る過程がとても感動的であるため、ぜひ小説もしくは映画を観てほしい)。
私はこの作品を読んで(観て)確かに感動したけれど、「▢▢」の部分がなぜ「気合」や 「中身」では間違いなのだろう、そもそも「結果より成長」という主張が正しい根拠はないのに、なぜ先生が「正解」と言ったからといってそれが「正しい答え」になるのだろう・・・と考えた。
望む結果は得られなかったかもしれないが、非常に充実した内容を残すことができたとしよう。自分たちらしさを貫けたのだから、この結果に満足して次につなげよう・・・そう言った意味での「結果より中身」であれば、十分に「正解」になりうるのに・・・。

これはあくまでもフィクションの世界における一例にすぎないが、現実の教室でも、実際には多様な回答が認められるべき問いであるにも関わらず、教師が「正解」だと思っている答えしか認められない、といったことはしばしば起こり得る。読者の中にも、算数や数学の授業でまだ習っていない解き方で解いたら「×」がついたという話を聞いたことがあったり、文章の多様な解釈が可能なはずの国語や道徳の授業で自分の答えが理不尽に否定された経験を持っている方もいることだろう。

実際の社会では、「答え」というものはさまざまな現実的な状況を踏まえて自分でつくりあげていくものだ。だからこそ難しく、やりがいがある。そして学校は、子どもたちが自分で答えをつくる力を鍛える場でなければならない。
しかし現在学校において子どもたちは、「答え」は「先生が持っているもの」ということを何年も何年もかけて刷り込まれるため、社会に出る頃には、「正解」を求めるあまり失敗を恐れるようになり、自分が得たい結果を求めて行動する勇気がなくなるか、そもそも自分の欲望を「見ないフリ」をするようになってしまう。

教師が答えを持っていて、生徒はそれを当てに行く、という現象が繰り返されていることからも、教室にはある秩序が存在することがわかる。それは、「教師が”主”であり、生徒は”従”である」という秩序だ。それを踏まえた上での回答でなければ、教室においては「正解」にならない(なりにくい)のだ。

これらの問題を解決するために、学習指導要領の内容も改訂され、「探究」という教科が設置されたことは、すでに第二章でも見てきた。
そこでこの章では、教師がいかにして教室内に「秩序」をつくりあげるのかを見ていく。

生徒との対話の形式と授業実践

教室の秩序がつくられていく過程を理解するためには、授業における教師と生徒との会話を分析することが有効だろう。
研究者のべラックらがアメリカの学校における授業を分析した結果によると、授業内における会話は「教師が発問し生徒が応答し、それに教師が評価をくだす」という形式のものが通常の8割近くを占めるという(『教育方法学』佐藤学 岩波書店 1996年 p91)。また佐藤学氏の調査によると、日本の中学の地理の授業でもほぼ同様の結果が見られたという。
このことから「教師は教室で大きな権力を行使しているのだが、その権力も生徒の支持と協力に依存している」(同著p92)ということがわかる。加えて、前章で見た教師にとっての児童・生徒の好ましいタイプ(素直、積極的、元気がいいなど)とは、この権力関係に従ってくれるタイプだということもうかがえる。

「教師が発問し生徒が応答し、それに教師が評価をくだす」という会話の形式が特殊であることは、一般の会話と比較することでより明確になる。メーハンの会話分析によると、一般の会話と教室での会話の違いは以下の通りだ。

<一般の会話>
A:What time is it now, Sarah?
B:Two thirty.
A:Thanks.

<教室の会話>
教師:What time is it now, Sarah?
生徒:Two thirty.
教師:Right.

一般の会話では、「知らない人」が「知っている人」に尋ねている。そして、尋ねた方は答えてもらったら「感謝」をすることがほとんどだ。
また、会話の主導権は相互に転換するか、片方が握っているとしても柔軟に進行する。
一方教室の会話では、「知っている人」が「知らない人」に尋ねるという、一般の会話とは逆の構図になっている。
加えて会話の主導権は一貫して教師が握っているという、一般の会話からすると少々レアなケースとなっている。

これまでさまざまな研究者が教室内の会話を分析してきたが、多くの場合

What time is it now, Sarah?(教師の主導
Two thirty.(生徒の応答
Right.(教師の評価

というステップで会話が構成されているということがわかっている。

教室内での会話と同様、授業の「構成」にも形式がある。
授業の構成とは、例えば国語の授業で『走れメロス』を扱う場合、
①本文に入る前に、今日扱う内容の確認や、内容に関するちょっとしたエピソードを伝えたりする(導入)
②本文の読解や登場人物の行動についてのディスカッションを行う(展開)
③今日学んだ内容の確認をする(まとめ)
といった流れで授業が行われるが、この「導入→展開→まとめ」という流れのことを授業の「構成」と呼んでいる。
もちろん、1年間のすべての授業がこの構成で行われるわけではないが、「導入→展開→まとめ」の流れはどの教科でも使えるものであり、教員はたいてい、大学の教員養成の授業や教育実習等で、この流れにそって授業をつくる訓練を受けているはずだ。メーハンの分析では、教師の発話の88%が、この構造に即したものだったという。

教師は、この「導入→展開→まとめ」の流れで授業を行うということを、生徒に対して言葉にして伝えるということはあまりしないだろう。しかしながら生徒は、普段の授業における教師の45分の使い方から、この流れがあることを理解することができる。授業開始のチャイムが鳴ってからいきなり「山賊に襲われたメロスの心情を説明せよ」という質問はしないだろうし、残り3分のところでまったく新しい内容のプリントを配ることはめったにない。子どもたちは、そのような教師の振る舞いを何度も何度も見ることで、授業のはじまり・中間・終わりの各パートにおいて、教師の話す内容や学習のための活動内容は基本的に同じような型がある、ということを学習する。
そのため児童・生徒にも、この流れにそって自身の言動をコントロールすることが求められる。「まとめ」の段階で「導入」に位置付く疑問を提出することは遠慮しなければならない。

これらの構造は、「教室経営や生徒指導の労力を最小限にして授業と学習に専念することができる」(『教育方法学』p96)という、教師と生徒の双方にとってのメリットを生み出している。「導入→展開→まとめ」という形式があることによって、生徒の方も「今何をやる時間かわからない」ということが少なくなるのだ。
その一方でこの構造は、「授業の展開を形式的手続きへと転落させ, 教師の活動と生徒の活動の創造的な性格を奪ってしまう」(同著p96)という性格も持ち合わせている。教師が尋ね、生徒が答える、という形は教師にとっても生徒にとっても慣れ親しんだものだが、生徒にとっては「さっき発言したから当分は大丈夫」と思考を使うことを放棄してしまうことも多くなるし、教師と生徒の一対一の関係になってしまいやすいため他の生徒が聞いていない、ということもしばしば起こる。また生徒同士のディスカッションも行いづらい。
加えて、この構造において授業をする場合には、教師の認識の限界が、その教室で起こる生徒の認知活動の限界になりやすいということも指摘しておきたい。なぜなら、教師は自分がわからないことに関して問題を出すことはほとんどないからだ。これによって子どもたちは、自身の知的能力を教師以上に向上させる可能性をほとんど摘み取られてしまっているという非常に重要な問題がある。だが、これについて語るにはさらに一章を費やす必要があるため、ここでは深入りしないでおこう。

前章の内容を引き継げば、教師がつくり出すこれらの構造をいち早く理解し、それに沿って行動できる児童・生徒こそが、教師にとって好みやすい性質を持った子どもなのだ、ということが言えそうだ。教師が好む「努力家」「素直」「積極的」「さわやか」「元気がいい」「独創性がある」「思いやりのある」という性質を持った生徒は、教室の構造(秩序)の中でどのように振舞う生徒だろうか。学校に通った経験があれば、ありありとイメージできるのではないだろうか。
教師が一生懸命つくる秩序に積極的に加担してくれる生徒。そのような生徒は教師に安心を与えるだろうし、教師にとってありがたく、嬉しいはずだ。

教師と生徒の会話について、今度はネガティブな状況におけるパターンを見ていきたい。
これらの秩序を壊す生徒がいた場合に、教師はどのように対応するのだろうか。その対応に秘められた、教師の意識とはどのようなものだろうか。

米国の心理学者であるゴードンは、教師と生徒の間に問題が発生した際に教師がとるコミュニケーションを「非受容を表す言葉」「あなたメッセージ」「勝負あり法」という3つに分類している(『<講座学校 第6巻>学校文化という磁場』堀尾輝久 久富善之他 1996年 「2章 "教師という役割"と教師・生徒関係」近藤邦夫 以下引用部以外も同書参考)。それぞれ具体的には以下の通り

①「非受容を表す言葉」
子どもが「宿題が難しすぎる。僕にはできない」と言ってきた場合に、教師はしばしば、「文句ばっかり言っていないで、さっさとやってしまいなさい」(「命令・指示」)「宿題をやらずにすませるにはどうしたらいいか、そればっかり考えているんだろう」(解釈・分析・診断)「なぜもっと早く言ってこなかったの」(詰問)などの12の型からなる「非受容を表す言葉」を使う。
子どもは援助を求めているにもかかわらず、教師が「聞く姿勢」を取らないため、上記のような対応になるケースがある。ここには教師の「私が正しく、生徒である君が間違っている」というメッセージが隠されており、それを受け取った生徒は自信をなくすか、教師とのコミュニケーションをあきらめてしまうことにつながりやすい。

②「あなたメッセージ」
教師が生徒の言動によって、「教師としての欲求」(話を遮られたくない、生徒が散らかしたごみを拾いたくない、など)を妨げられたとき、教師は以下の三つの種類のメッセージを送る傾向があるという。
a 「解決メッセージ」・・・「今すぐ着席しなさい」(命令・指示)、「もう一回いたずらしたら、放課後も残すよ」(注意・強迫)といった、教師が解決策を生徒に与え、その解決策を生徒が受け入れるように期待し要求するメッセージ。
これらは、暗に「あなたがグズだから、私は困る」「私がボスだ」といったメッセージを含んでいるため、生徒の反抗や抵抗につながりやすい。
b 「やっつけるメッセージ」・・・「みんなの注意を集めたいから、そんなことをするんだ」(解釈・分析・診断)、「授業中おしゃべりばかりして、単位が取れると思っているの」(質問・尋問)などの、生徒を否定的に評価し、やっつけるメッセージ。
「生徒が原因で自分は問題を抱えている」と生徒を非難し、責任を生徒にとらせようとするため、生徒は教師を無視するか、抵抗することにつながりやすい。
c 「遠回しのメッセージ」・・・「君はいつから校長先生になったの」「お笑いの時間が終わったら、先に進もう」など、生徒をからかったり、話をそらしたり、生徒の気晴らしになりそうなことを言うメッセージ。
これは「解決メッセージ」と「やっつけるメッセージ」が孕む危険と対決を回避する比較的穏やかなメッセージとなっているが、そこには「まともに対決すると君は、私を嫌うかもしれない」「君に対して率直になることは危険だ」といった隠れたメッセージが含まれている。

「解決メッセージ」「やっつけるメッセージ」「遠回しのメッセージ」の3つのメッセージには共通する特徴がある。それは、教師である「私」が問題を"所有"し、 「私」が困っているにもかかわらず、直接的にそのようなことは伝えず、また「私」に関する情報も皆無である、ということ。そして常に「あなた」(生徒)を主語にして、「あなた」を責めるメッセージになっている、ということだ。

③「勝負あり法」
教師と生徒で意見や欲求が対立している場合、対立が解決するのは、自分(教師)が勝つか負けるかである、つまり生徒との対立は「勝負」であるという思考に基づいて行われるコミュニケーションが「勝負あり法」だ。
「最初が肝腎。とにかくコワモテでやるべきだ。そうすれば生徒は、誰が教室で一番偉いのか分かって、教室管理が楽になる」(同著p52~53)といった考え方に、生徒との対立を「勝負」であると捉える見方が表れている。
生徒とのコミュニケーションを「勝負」と捉えている場合、それに勝つために教師の側は命令、指示、脅迫あるいは賞罰や体罰などを用いて生徒の意向を押しつぶそうとすることがある。そうやって勝負に勝った場合は教師の意向が通るが、負けた生徒の心には怒りや劣等感、無力感などが生まれる。
一方教師が勝負に負けた場合は教室をコントロールすることができなくなり、教師の側に怒りや劣等感、無力感が生まれる。秩序を回復しようとして再び、命令、指示、脅迫、賞罰、体罰等を用いることもある。

ここまで見てきた3つのコミュニケーションの方法から、生徒との関係における教師の意識が読み取れる。それについて近藤は幅広く分析を行っているが、ここでは要点を絞って記したい。
「非受容を表す言葉」「あなたメッセージ」「勝負あり法」の3つのメッセージに共通していることは、「教師についての情報がない」ということだ。これが意味していることは、
・教師が子どもに伝えるメッセージは、「私個人としての意見ではなく、常識や規範を”代弁”しているだけなのだ」というもの。
・「私の方が知っている」「私のほうが正しい」(教師が正しくて、生徒が間違っている)という暗黙のメッセージを伝えている、というもの。
・「教師はありのままの自分をさらけ出してはいけない」などの神話が教師を縛っているということ。
ということだ。
これは大学教育をはじめとする日本の教育の問題だが、教師といえども論理的思考や情報収集・編集の技術、あるいは教師として必要な教育技術をしっかりと訓練し、それらを身につけた上で教師になっているわけではない。
加えて企業に勤めた経験もないため、その点に関して自信がない状態で教師をやっている人も多い。
そのような人物(自信がないのも無理のないことだ)が、「教師という”役割”」と自分を同一化し、ありのままの自分を隠して「完璧な大人」を演じることで、何とか児童・生徒に対して威厳を示し、教室の中での主従関係とそれに伴う秩序をつくることを正当化しようとしている、というのが日本の教師たちの現状ではないだろうか。
本来授業の形態というのは、幕末にさまざまな塾で行われていたように、生徒同士で教え合うなど、教室の中の関係性のつくり方も含めてさまざまなものがあってよいはずだ。
しかし、教師が主従による秩序を守ろうとするあまり、他の形態で授業を行う可能性が非常に狭くなってしまっている。
また、教師が自分自身に向けた完璧志向は生徒にも向かう。教師は児童・生徒に対して「あるべき姿」という期待や規範を持ちコミュニケーションをとっている。そのため、自分の理解から逸脱した行動を取る子どもに対して過度に否定的になってしまうのだ。

ここまで教師の教室での会話について確認してきたが、このように「教師が主で生徒が従」の関係性をつくりあげ、完璧を期するあまりその形に固執すると、その形になじめなかい子どもが自信を失ってしまうなど教室の中にさまざまな問題が発生するし、第二章で見てきたような今の時代に合った力を育成する新しいスタイルの授業に移行することが難しくなる。

実際に、日本の教師がその呪縛に囚われていることが、データからもはっきりと見て取れる。

TALIS2018報告書 ――学び続ける教員と校長―― の要約』より筆者作成

ここに示したデータは、OECD国際教員指導環境調査(TALIS)が発表した『TALIS2018報告書 ――学び続ける教員と校長―― の要約』において示された中学校教員の指導方法についてのデータの一部をまとめたものだ。色分けされた棒は左から、日本(オレンジ)、アメリカ(黄色)、フィンランド(緑)、TALIS参加48か国の平均(水色)の割合となっている(*④-1)。グラフでは文字量の問題で各質問項目を省略しているため、結果とともに以下に記しておく。

・(一番左)授業の始めに目標を設定する
日本:84.3% アメリカ:84.5% フィンランド:64.2% TALIS平均:83.4%
・(左から二番目)新しい学習内容と過去の学習内容がどのように関連しているか説明する
日本:63.1% アメリカ:87.7% フィンランド:72.9% TALIS平均:86.2%
・(左から三番目)明らかな解決方法が存在しない課題を提示する
日本:16.1% アメリカ:27.6% フィンランド:34.5% TALIS平均:37.5%
・(右から三番目)批判的に考える必要がある課題を与える
日本:12.6% アメリカ:78.9% フィンランド:37.2% TALIS平均:61.0%
(右から二番目)完成までに少なくとも一週間を必要とする課題を生徒に与える
日本:11.1% アメリカ:33.0% フィンランド:22.4% TALIS平均:30.5%
(一番右)生徒に課題や学級での活動にICT(情報通信技術)を活用させる
日本:17.9% アメリカ:60.1% フィンランド:50.7% TALIS平均:51.3%

パーセンテージは、「自らの授業において授業の始めに目標を設定する」などの指導方法を「しばしば」または「いつも」実践していると回答した教員の割合だ。

「明らかな解決方法が存在しない課題を提示する」「批判的に考える必要がある課題を与える」「完成までに少なくとも一週間を必要とする課題を生徒に与える」「生徒に課題や学級での活動にICT(情報通信技術)を活用させる」という、思考力や創造性あるいはICTを活用する技術など、今の社会で必要な能力を身につけることに関連する4つの授業実践において、日本の数値は明らかに低い。パーセンテージもそうだが、48か国の順位で見てもすべてワースト5に入っている。「批判的に考える必要がある課題を与える」に関しては10%台は日本だけだ。
これら4つの項目が10%台であるということは、第二章で見た教師の学びの現状において、熱心に読書をしたり研修に参加したりしている教員が10%程度であったことと関連しているように思える。

その一方で、「授業の始めに目標を設定する」「新しい学習内容と過去の学習内容がどのように関連しているか説明する」の2つは、日本の教師の実践としては多い方だ(後者は48か国の平均と比べて20%も低いが)。

では、日本の教員の中でのパーセンテージの高低は何の要素によって決まっているのだろうか。
これまで見てきたように、教室の中で主従をつくることで子どもをコントロールし、自身に対して完璧を期すというのが教師の性質であった。
ならば、どちらかと言えばパーセンテージが高い2つについては、”コントロールでき”かつ”難易度が低く「失敗」がほぼない”ということがその高さの理由として推測できる。
逆に、数値が低い4つに関しては、”内容をコントロールすることが難しい”かつ”難易度が高く「失敗」するリスクがある”ものである。
例えば「明らかな解決方法が存在しない課題を提示する」では、児童・生徒が課題に取り組んでいる際に解決方法がわからず、教師に助けを求めることが想定される。しかし「明らかな解決方法が存在しない」ことは教師にとっても同じであるため、教師は子どもたちの助けに応じることができない。そうすると、教師は児童・生徒にとって「完璧」でないことが露呈してしまう。
そもそも「明らかな解決方法が存在しない課題」をデザインすることが難しいということもあるかもしれないが、今の時代、調べれば例はいくらでもある。それを調べればできるのにやらないのは、教室の秩序をコントロールすることにコストがかかること、そして子どもたちにとっての完璧な自分というセルフイメージを失う喪失感が予想できてしまうため、むしろ教師の心の中に、「避けたい」という潜在的な欲求が潜んでいるからなのではないだろうか。
また、「批判的に考える必要がある課題を与える」「完成までに少なくとも一週間を必要とする課題を生徒に与える」のふたつも、これと同様あるいは類似の理由で実施が避けられていると思われる。

「生徒に課題や学級での活動にICT(情報通信技術)を活用させる」に関しては、教員のリテラシーが追い付いていないという問題もある。年配・若年問わずICTを活用した経験の薄い教員にとって、ICT機器は”コントロール”ができないものであり、生徒の方がはるかに早く使いこなしていくことが予想できる(それにより教師は生徒に対する優越を失ってしまう)。インターネットに繋がることで起こるトラブルに関しても、「正しく」予見できないため、必要以上に恐れて禁止事項ばかり増やすか、そもそも導入もせず子どもからICT機器を遠ざけてしまうということが起こる。
これは笑い話だが、ある自治体では、教員がGoogleに対して「おたくの会社のセキュリティは大丈夫ですか」と聞いたという話もある。

これらのことからも、教師たちが「自分が”コントロール”できることを”完璧に”こなさなければならない」という思いに囚われ、新しい学習スタイルに授業を変革していくことを避け、自分が体験してきた古い学習スタイルに固執している心の内が透けて見えてくる。


(*④-1)アメリカとフィンランドのパーセンテージにも触れておこう。フィンランドについては、意外にもほとんどの項目で平均に達していない。もちろん日本と比べたら”新しい学び方”を実践している率が高いと言えるのだが、世界(48の国と地域)の中ではむしろ低い方に入る。
それでもフィンランドは世界最高レベルの教育を行っており、ひとりあたりのGDPも順調に上げている(第一章参照)のだから、テストのやり方など、TALISでカバーしていない部分に要因があるのだろう。
また、アメリカは問題も多い国ではあるし、学校や地域ごとに大きな格差があることが予想されるものの、少なくともTALISのデータに現れる部分を見る限りでは「やるべきことはやっている」ということは言えそうだ。
TALISの平均を見ていただければわかるが、アメリカやフィンランド以外の国でも、教師ひとりひとりが責任を持ち、今の時代に合った力を子どもたちに身に着けさせるためにさまざまな取り組みをしている国は多い。


教師には、授業を改善する「時間がない」のか

日本において授業が変わらないのは、単に教員が部活や雑務に追われて授業を準備する時間がないからであって、ここまで見てきたような教員の潜在的な心理がどうなっているかとは関係ない、ということも考えられるだろう。
実際に、ベネッセの『第6回学習指導基本調査 DATA BOOK(小学校・中学校版) [2016年]』の第5章「教員の勤務実態と意識」によると、「教材準備の時間が十分にとれない」ということが教員の悩みの中で大きなものとなっていることがわかる(小学校:90.5%(1位)、中学校:83.3%(1位)、高校:70.2%(5位))。
また「作成しなければならない事務書類が多い」という悩みについては、
小学校:84.9%(2位)、中学校:76.0%(1位)、高校:71.7%(4位)
となっている。
確かにこれらのデータを見る限り、日本の教員が事務仕事に忙殺されており、それによって授業の変革が妨げられているということができそうだ。

しかし、日本の教員はほんとうに授業の準備に時間を費やすことができていないのであろうか。
先ほども確認した『TALIS2018報告書 ――学び続ける教員と校長―― の要約』によると、日本の中学校教員が1週間の仕事時間の中で「一般的な事務作業(教師として行う連絡事務、書類作成その他の事務作業を含む)」にかけている時間は5.6時間で、TALIS参加48か国平均の2.7時間に対して2.9時間も多い。
その一方で、「学校内外で個人で行う授業の計画や準備に使った時間」も見てみると、TALIS参加48か国平均の6.8時間に対して、日本の教員は8.5時間と1.7時間も多く費やしていることがわかる。
ここから、日本人の学力の高さ(第1章PISAの結果参照)は教員の多忙の上に成り立っているということを読み取ることもできる。だが、フィンランドの中学校教員が1週間の中で授業準備にかけている時間は、なんとわずか4.9時間である。フィンランドの教員は、たったの週4.9時間の準備で「明らかな解決方法が存在しない課題を提示する」「批判的に考える必要がある課題を与える」「完成までに少なくとも一週間を必要とする課題を生徒に与える」「生徒に課題や学級での活動にICT(情報通信技術)を活用させる」といった今の社会に必要な学びを、日本の教員の2倍以上は提供しているのだ。
ちなみにイエナプランなど優れた教育システムを持つオランダも、週の授業準備にかける時間は4.9時間だ。ちなみにアメリカは平均より少し多い7.2時間となっている。
この数字から、日本人教師は――個人個人によって事情は違うだろうが、平均すると――多忙ではあるものの授業準備の時間も世界一多く確保(捻出)していることが見えてくる。
これらの事実をベースに考えたとき、実は日本の学校の教員は、主観的には事務作業に忙殺されて授業準備が満足に行えないと感じているのだが、実は生産性が低いために満足に授業準備ができていると感じることができない、という面もあることがわかる。
フィンランドは4.9時間の授業準備で、子どもたちを世界トップクラスの学力水準に到達させることに成功している。ということは、フィンランドの教員のコストパフォーマンスは、日本人教員の約1.7倍ということになる(日本の子どもたちの学力も世界トップクラスだ)。日本人教員が忙しすぎるということは見過ごせない事実だが、一方で働き方のまずさも問題である。このことから、日本の教員が事務作業で忙しく、授業準備の時間が取れないから新しいスタイルの授業を実施することができない、と結論づけることはできない。
これだけ授業準備の時間があるにも関わらず、「やっていない」のだ。
だから今後は、事務作業や部活にかけている膨大な時間を削減できるように教員の労働環境を整えたうえで、大学の教員養成や教員研修によって、労働生産性を上げ、新しい授業をデザインすることができるようになるための取り組みもしなければならない。

ここまで、教師がいかにして教室に秩序をつくり、その秩序を維持しているかを見てきた。教室では、教師が理解できること、コントロールできることだけで秩序が構成され、それ以外は「なかったこと」になってしまう。
もちろん、このことは「明らかな解決方法が存在しない課題を提示する」といった授業を実践していても絶えず付きまとうことなのではあるが、日本の教員を見る限り、教室をコントロールすることが難しくなるそれらの取り組みは、「トライしているのにできない」のではなく、むしろ「避けられている」ということがわかる。
そして、教師が取捨選択したこれらの秩序の中で、第3章でも確認した「教員の幸福」が生まれている。
ここに、矮小化された「父性」を発揮しつつ、外部から閉じられた空間において自らがつくった秩序の中で子どもとの関係性を楽しんでいる教師の姿が浮かび上がってくる。
こう書くと、いかにも教師がワルモノのように見えてしまうが、責任のすべてを教師に押し付けることはできない。
なぜなら、「学校」や「教室」の側が、あるいは「教師という仕事」の側が、教師にこれらのことを強いている側面もあるからだ。
次の章では、学校が外部から閉じられた空間になってしまう理由を明らかにしていきたい。

第5章に続く


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