映画「月」の違和感
正欲の磯村勇斗さんが良過ぎたのもあり、
気になっていた津久井山ゆり園の事件をモチーフにした「月」へ。
しかし、見終わった後、ぼんやりと違和感が。
感じた違和感について、
東京ニトロさんという方がものすごい熱量で
書いていたこちらの前後編のnoteを読んですっきり。
この方ほどの怒りは持ってないのだが、
自分なりに感じたことを整理しておく。
違和感①だれに向けた映画なのか。
宮沢りえの本音と建前が交錯するシーン。
磯村勇斗と宮沢りえのイマジナリーラインを超えた不自然なカットバック。
これらのシーンからして、この映画の狙いはあの事件に対する当事者意識を観客に突きつける、
ということなのだろうとは思う。
事件に全くもって無関心だったり、
他人事、と思っていた人がいるならば
確かにそれは効果的だっただろうとは思う。
でも、そもそもこの映画、
あの事件に全く無関心な人が観に行くかしら。
元はもっと商業映画として広く公開する予定だったそうなので、というところなのかもしれないけど。
でも、もっと広く公開するのであれば、
あの施設の描き方は酷い。
あまりに現実的ではない。
今でも虐待が起きてしまうケースもあるだろうけれども、あの描き方は大問題だ。
違和感②さとくんの動機はなぜ生まれた?
あんな酷い施設で働いてたら、
精神狂ってしまうだろうと思う。
が、現実はそうではなくて、
そうではないのに「さとくん」の思想が生まれてしまったこと、
その考えに賛同していた人がいることが問題なんだろうと思う。
東京ニトロさんが書いていた、
人を人たらしめるのは生活や環境だ、
という言葉はとてもしっくりきたし、
なんだか胸がじーんとした。
植松死刑囚を措置入院させたものの、
すぐ退院させたことが良くなかったんじゃないか、とか。
あるいは、そもそも措置入院させられたこと自体が引き金を引いてしまったのでは、
など。
そういうことについてももう少し思考を深めたかったけど、そのあたりもしっかり描けてなかったなあ。
かつて私は適応障害が一時的にめちゃ悪化して、
妄想が激しくなってしまい、
閉鎖病棟に「医療保護入院」したことがあるのだが、
その措置をとられたこと、
そして、閉鎖病棟で生活したこと自体が
私を病人たらしめたようにも思う。
とはいえ、今となっては、
家族が付きっきりで私の面倒見るわけにもいかなかっただろうし、
あとはガッツリ入院したことでその後の回復も早かったようにも思うので、
良かったとも思うけど。
しかし、あの環境で暮らしていたら、
誰もが病人になる気もする。
誤解なきように言えば、
病院自体は綺麗だし、適切な対応をしていたんだとは思うけど。
違和感③何者か、である必要とは?
若い時は何者かになりたいと思うし、
それが大事だと思ったりもするけれど、
中年になってみて、
何者かになんてなれなくてもいいし、
生きてる意味なんてなくて良い。
と思う。
自己実現とか、社会的に役に立ってるかどうかとか、そういうことに苦しまざるを得ない社会だからこそ、植松死刑囚みたいな思想が生まれてしまったんじゃないのか。
結局なんにも社会から認められなかったさとくんが「社会の役に立とうとして」事件を起こし、
映画で小さいとは言え賞をとり社会から認められたオダギリジョーは前を向いて進んでいく、
という描き方は根本的に問題の捉え方が違っているように思えてならない。
結局、社会的に認められなければ、
私たちに生きてる価値はないとでもいうのか。
他にもいろいろあるけれど、とりあえず最後に、
一番最初の方の二階堂ふみの家族での食事シーンの時にめちゃ不自然なカメラワークでワインを飲む口元にぐっと寄ったのだが、
あれの意味はなんだったのか。
あと、色んなカットの暗喩だったり構図だったり照明だったりが意図あります感が強過ぎて、
観ながらいちいち気になってしまった。。。
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