【小説】6度の間隙

木々を揺らしながらどこか生暖かい風が吹きぬけて、血が巡るやわ肌に同じ温度のブラウスが張り付いた。
まるで人間にくるまれたかのように思われるのは、学生身分ながらうつつを抜かして、そういった事情を彼女が今思い出していたからだろう。
行く先の角から顔を出した友人と目が合って、馴染み合うように並んで話し始める。緩やかで平凡な心地よい会話の隙間で、彼女の脳裏では何度も昨日までの映像が流れている。

彼女は最近、二十歳になった。つい先月の事だ。友人達が、「再来週の土曜日空いてる?」と聞いてくれて、普段近寄らない賑やかなエリアの小洒落た飲食店にやけに楽しげに連れて行ってくれて、声の大きい店員が花火のきらめくバースデープレートを持ってきてくれた。
各々がプレゼントを取り出して開けさせてくれたとき、彼女の心は温かく楽しく充実した液体で満たされていた。画面の中で毎日のように憧れていたときめきが今、自分のためだけにこの世界を彩って存在していると感じた。
友人達と飲んだ初めてのお酒は期待したほどいいものではなくて、正直な感想を零して笑われたのも心地よい経験だった。

それから半月もしない頃、久々とも言いがたい実家に帰り、彼女は母親が精力的に見繕ってくれた晴々しい振袖に体を通した。
凍える寒さの冬の日だったはずだが、そんな震えすらも紅色が美しい華やかさの中では消えてしまい、互いに顔をよく見て話さなければそうと認知できないかつての同級生たちと再会を楽しんだ。
そしてその次の日の夜、とうとう男というものが彼女の生活にざっくりと割り込んできた。

高台の講義室に到着した。少し早めに着いてゆっくりお喋りを楽しむのがこの授業のルーティンだったので、いつものように彼女と友人は特等席を目指していく。
教授の声すら満足に反響しない空間でも、人がいないとやけに自分達の声が厄介なノイズに感じる。それはここが高台で、講義室の外が非常に静かな環境だからかもしれない。
友人は購買のパンとペットボトルを取り出し、遅めの昼食を始めた。彼女たちの他愛ない時間は進む。

その夜、彼女は高校3年生の時のクラスの同窓会に参加した。
高校の同級生なんてそんなに変わっていなくて、人によって多少悪いところが助長されたように見えてしまったり、多少いいところがお酒に押されて前面に見えてきたりする程度だった。
何より彼女には居場所がなかったのが面白くなかった。あの頃は誰とでも話せていたのに、同窓会では誰とも深く話し込めなかった。頬の筋肉が重たくなっていく時間。おいしくないアルコールが更に喉を渇かせていく。ウーロン茶で場を濁し始めた。

何故馴染めなかったのかと言えば、周りがそう変わらない一方で、彼女自身は随分変わってしまっていたのだ。
高校時代は、純粋に活動内容に惹かれて入ったダンス部で楽しく青春を謳歌していた。その結果、クラスでは特に願わずして所謂一軍の立場を確保することに成功した。
ちょっと声が大きめだから、周りに与える影響が他の集団よりちょっと大きいグループの中の、均衡を保ち平和を維持する役になっていた。
今もそうではあるのだが、当時から彼女は何となく損な役回りをさせられているように感じることがあった。普段仲良くする友人たちは、彼女のことを精神的な拠り所としようとしたり、「彼女に甘える自分」を男子へのアピールポイントにしていたりした。もちろん悩みを聞いてくれることもあったけれど、何となく「使われている」ような気配をずっと感じる。
部活の友達の方が好きだった。一生懸命ダンスを磨いて、ただひたすら目標達成のために切磋琢磨して笑いや涙を共有できる大事な仲間が、沢山いた。

「ねえーこいつしつこいんだけど!」
当時クラスで一番仲が良かったはずの友人が、酔いの回った芯のない大声で彼女に雪崩れかかってくる。どうやら彼氏が待っていると言ったにも関わらず、男女何人かで二次会に行こうと誘ってくる男子を弾くのが面倒になってきたらしい。
「ほらもうやめたげてよー」
彼女は腕に巻きついてくる友人のほっそりとした肩を撫でながら笑った。
当時の友人たちにとって自分は、もうほとんどいらない存在になっている。
高校生の頃は、決まった恋人を持たない友人たちの心の穴は彼女が埋めていた。慰めてあげたり励ましたり褒めたり笑わせたりして。そんな彼女の事を友人たちもまた頼もしく思っている節があった。
しかし今、友人達にはそれぞれ心の拠り所となる彼氏やまったく別の軸ができていて、もう当時のような付き合いはできない。
だから、別に心躍るやりとりではないが、せめてこうして大げさに彼女にまとわりついて甘えることは、友人たちなりの彼女への配慮でもあった。

時が進む。橙の明かりが、汚いテーブルと赤面した新成人の集団を照らしている。
来なくてよかったなと周りを伺ってみたとき、ちょうど同じテーブルの対角に座っていたその男とバチンと目が合ってしまった。
彼女の左手では、男女の一軍が入り混じってうるさく会話を繰り広げ、なんとか楽しもうと必死にしている。その反対側では、当時から彼女の近辺では「痛い」と言われていた男が、中途半端に残された刺身をつまみながら、近くの誰某かと話したり話さなかったりしていた。
一度も色素に干渉を受けたことのない滑らかな黒髪が、横顔だと目にかかっている。青白いと言えるほど白い肌が、その髪を載せていっそう不思議に見えた。
彼の目は驚くでもなく彼女をじっと観察した。居づらさを感じる予感がして、彼女はすっと横にずれて、彼の向かいに座ってみる。

高校生のときはニキビ面だったような気がしたが、そんな面影はどこへやら、彼は本当にきれいな肌になっていた。
「おつかれー」
定番の挨拶と共に、テーブルに置かれたグラスへ勝手に乾杯を向けてみる。彼もテーブルのグラスに手を伸ばしたが間に合わず、しかしもうほとんど水であろう大分嵩の減ったレモンサワーを少し飲んでくれた。
「俺いらなくね」
苦笑いでそう言われると、彼女はどう返せばいいか分からず少し固まってしまった。
「え、そんなことないと思うけど。誰かに誘われたんでしょう?」
「うん、でもどっか行った」
「…んーとぉ」
わざとっぽく悩んでみせると、彼はつまらなさそうに目をそらしてレモンサワーをまた呷った。
「今何してんの。大学生?」
とても自分に興味がありそうではない人間からそんな言葉が投げられたのが不思議で、彼女は一瞬戸惑ったが、すぐに感じよく答えてやった。彼女の目は観察者のものに変わる。
「そうだよー、そっちも?」
「うん。地元出てんの?」
「出てるよ、一人暮らし。そんなに遠くないけど」
「ふうん、いいね。自由じゃん」
思ったより滑らかにコミュニケーションを展開してくれるな、と少し驚く気持ちがあった。
「うん、快適。」

高校生の頃の彼は、誰も構わなければ一人で音楽を聴いたりふらふらどこかに行ったりしていた。その日たまたま相方が欠席で寂しい思いをしている男子生徒の話し相手になってやっているときの彼は傍目に見てもつまらなさそうで、そんな彼に必死に話しかけ続ける同級生が非常に滑稽に見えたのもなんとなく覚えている。
「ねえ見て」
小声でどこか急いだように袖を引っ張られた彼女は、友人にうながされたさきを見遣る。
「ヘッドフォンしてるのやばくない?校則違反だよねぇ」
なんと返したらいいのか分からなくて、どうにもならない内心で彼に八つ当たりしながら、彼女は困った顔をしていた。

「俺、帰るわ」
「え、今?」
「うん」
はっと顔を上げると、彼のジョッキは空になっており、既に片膝を立てていた。そっと周囲を見回したところ、自分たちは実に自然に周りのどのグループからも孤立していた。彼に目線を戻す。
制服だった時には分からなかったが、身近な大学生とは頭一つ抜けた洗練さを感じる装い。上質そうな深緑のシャツから伸びる肌理の整った首を上り、前髪が鬱陶しいのか伏し目がちにこちらを見る彼と目があった。
「お前も?」
「…帰ろうかな」
彼女の心を汲み取ったか、彼は小さく頷いて「先出といて」と言った。
そっと自分の分の会計を幹事役の男子に手渡しに行く。
「もう帰んのぉ?」
「えー早いー」
「うん、ごめんねーまたね!」
「ばいばーい」
忙しなく挨拶を返しつつ、彼女は店の外に転がり出た。
外気は冷たく、体の表面を一瞬で震えさせた。しかし数歩進んで気付く。頭の大事なところがぼうっとしている。
傍の交差点で信号を待つふりをしながら、アルコールのせいでほんの少し歩きにくくなった自分を情けなく思う。
よく考えたら何故この男についていこうと思っているのだろうと思い始めた頃、彼が不意に横に並んだ。
「あ。大丈夫だった?」
「…俺は自分の席に金置いてきた」
「なるほどー…」
ぎこちない相槌が、繁華街をはしる車たちにかき消される。
青になった。
「ねえ」
「な、なに?」
歩き出して間もなく、彼がしっかりとした声量で彼女を呼ぶ。

「いや。二人で同窓会抜け出しちゃったけど」
「うん」
か弱い返事を聞き取ってか、人ごみに入っていく中で彼はわずかに振り返り、なんとなく優しそうな顔で問いかける。
そんな顔を持っているのか。
「もう帰んなきゃダメ?」
横断歩道を渡りきり、何かガヤガヤと声を掛け合いながら人ごみがやってきて、飲み込まれて、去っていく。喧騒は次々になだれ込んでくる。
「ううん」
彼のことを、正直苦手だと思っていた。あまり関わりたくないとも。
「まだ飲む?」
「あ、私お酒は」
「本当はずっと可愛いと思ってた」
言葉に詰まる。
何故か、最近サークルの飲み会で初めて飲んだカルーアミルクの味を思い出した。記憶の中の嚥下につられてぐらりと血が巡る。
彼が苦手で、それは彼女の友人達が敬遠していたからだ。
しかしそれは甘くなり始めた喉元を引き留めてくれない。先ほどよく理解してきたように、今は彼女もそちら側にいるのだから。
「えっと…」
「今日だけ一緒にいようよ」
四肢がドクンと下品に脈を打つ。いよいよ酔いが回ってきたようだ。
一方的に、今日彼となら理解し合ったり慰め合ったりできる気がした。
「わかった」
手先に柔い痺れが走り、彼女の手は取られた。明かりに照らされてまるで昼のような街へ。はぐれ者同士の世界へ。

昼食に食べていたパンの袋を丁寧に縛って立ち上がった。
今の今まで会話していた友人が自分から意識をそらしたことを感じる。ゴミ箱へ向かい、パンの袋を落とす。そっと友人に目をやる。
今日この友人はどこか上の空だ。深い話だってできる仲だから分かると思っているが、なんとなく男ができたんじゃないかと感じる。
大学の女の子は結局、皆こうやって男にとられていく。彼氏なんていらないと本気で思っている自分のようなのは少数派で、中々男の気配がなかったこの友人すら、成人式の一瞬の間に絡めとられてしまって、どうせ自分とは見る間に遊んでくれなくなってしまうんだ。
諦めと、この子だけでもそうじゃなくてあってほしいという希望の隙間から見える友人の横顔は、やはりどこか恍惚として見えた。
たった少しの歓談にすら邪念を抱いて楽しめない自分のことも恨みながら、友人の元へ戻る。日常は常に変わっていく。

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