【小説】捻転(5027文字)

 飲み屋街の暖色灯が眩しい。俺はスーツを着ないから、会社を出て足を進めていると、筋違いな気まずさを覚えることがある。月曜の夜から楽しくやっているあのおっさん達……元気だよな、もしかしたら俺よりも。俺は損な性格だと思う。改札上の時計を見上げると二十時半、定時を大幅に過ぎていた実感が湧いてしまう。改札に収まり、列をなし、鈍行の内部へ吸収されていく。
 冷たい金属とくたびれた人工物に囲まれるこの時間、多くのサラリーマンは、心底疲れた顔で眉間にしわを寄せている。そして落ち着いた配色の車内に乗ってくる学生は本当に目立っており、彼らも疲れたような顔をしつつ、小声で談笑なんかしているのだ。こんな時に俺はどうして、自分にもあったはずの青春を思って、微笑ましく感じられないのだろうか。
 俺の最寄りは、比較的静かな駅で助かっている。賃貸のことなんかよく分からないし興味もなくて、言われるがままに見たり、頷いたりしていたが、それにしては満足な生活を享受できていると思う。足はほとんど慣性で住処へ向かって行く。しかし、目の前にあるコンビニに視線を取られると、容易に進路が変更された。知っていたかのように自動ドアが開く。慣性で冷蔵庫に近づく。
「……っしたー」
 最近、店員が「あ」すら言わなくなった。俺は艶めくチョコレートに惹かれて購入したケーキを鞄に収め、今度こそ帰宅した。
 いつ見ても狭くて散らかっている。いつか付き合った人に、部屋の乱れは心の乱れとか言われたのだが、俺はそれを思い出すたびに瞼が開く。口角が下がる。別にどうでもいいなんて俺も思っちゃいない。置くともなくいつの間にか鞄を手放し、無くても構わない上着を脱いで、やはりなくても構わないなと思ったりした。平日と言えば普段からそんなもので、全ての作業が億劫だから、惰性に任せられることをやっているに過ぎない。飯を食うのも、シャワーを浴びるのも、ベッドで寝着くのも。
 しかし最近は一つだけ、些細な楽しみがある。時刻は二十二時前、期待してメッセージを開くと、思った通り。数分前に届いていたようだ。
『私なら申し訳なくて、そんな風に困らせるようなこと出来ないです笑』
 昼のやり取りの続きだ。
『すごいな~。自分で出来ちゃうんだもんね』
『こっちは今日も例の後輩のために残業してきたわ笑』
 まだ会ったことは無いが、自分なりに手ごたえは感じている相手で、しかも健気でかわいい。冷蔵庫から開封済みのワインを取り出し、コップに注いだ。
『お疲れ様です!』
『今日は何があったんですか?』
 なんたって、こんな風に日常の事を聞いてきてくれるのだ。俺に興味を持ってくれていると思っていいんじゃないかな、と期待している。
『明後日締め切りなのに、穴だらけの資料を持ってこられてさ』
『丁寧に確認したんだけど、全部知らないって言われたから、教えながら訂正してきた』
 まったく困った後輩だ。自分の担当している分野の事しか知らないのも、俺に修正されることが前提のような資料を持ってくることも。しかし俺は放っておくことも出来ない性格なのだ。
『わわわ汗大変だー!』
『月曜日の残業って、いつも以上に疲れちゃいません?』
『まあそうかもね。でもそのままじゃ帰れなくて』
『そうなんですね……』
『いつも、本当にいい先輩だなって思います!』
 気づくと、目じりが下がっていた。この時間が今の俺には必要だ。それに、そろそろ会えないだろうかとも思っている。燃えている。

 火曜日が終わった。今日は定時に帰れたが、そんなこととは関係なく、やはり散々だった。ようやく働くつもりになった朝一番の時に、昨日助けてあげた後輩がやってきて、他のやつらにも聞こえる声で「昨日は遅くまでありがとうございました。おかげさまで余裕をもって完成させられました」とか言ってきたからだ。俺は当然戸惑うし、周りも大げさな後輩の様子に注目していた。こいつは時々こんな調子で、空気が読めないところがある。
「いい、いい」
「いつもすみません」
「いいって」
 そんなやり取りで満足したのか、後輩は自席に帰っていった。そいつは案の定、周りに声を掛けられており、もっと要領よく生きろよ……と心の中でごちたのだった。
『へ~、なんでそんなタイミングで言ったんですかね?』
『それな!俺だって気まずいのにさ』
『周りの人は、結構詳しく聞いてた感じなんですか?』
『多分そうだと思う。確認はしてないけど』
 こんなに些細な話にまで興味を持ってくれている。こんな子が後輩だったら、近くに居たら、どんなに精神が安らぐだろう。これまで片手間に吞んでいたので、ほとんど意識していなかったが、昨日も啜ったワインがとうとう無くなった。
 二週間ほど前にマッチングした、五つほど年下の女性だ。プロフィールの写真はどれも表情豊かで活力にあふれており、話を聞いている限り、休日なぞは友人に囲まれて楽しげな生活を送っているようだ。
『そっちはどう?』
『私は順調です♪』
『嫌なこともありますけど、次の事してたら忘れられちゃうので……笑』
 こういうあっけらかんとしたところも素敵だと思う。俺は、先ほど買ったばかりのプリンを平らげながら、またニンマリとしていた。

 今日は最悪だった。一秒たりとも思い出したくないのに、嫌で嫌でという事程、それで頭がいっぱいになる。大恥をかかされた。善意を踏みにじられた。俺はあの職場で、いつの間にかさらし者にされていたらしい。つい大きめの声を挙げてしまったという顛末まで含め、本当に不愉快だ。恥ずかしい、自分が嫌で仕方ない。最寄りで降りた足を、いつもとは違う方角へ向けた。シャッターが下りていく商店街の中頃まで辿り着いて、足が止まる。年季の入ったリカーショップに立ち入ると、少しだけ顔を知っている店主がこちらを見留めた。
 日によっては声を掛けられるのだが、今日の店主は無言だった。その態度に感謝しつつ、あまり迷わずに大きめの焼酎瓶を取る。財布を開くと小銭が転げて、俺はとうとう舌打ちをしてしまった。一円玉が数枚、拾いにくいしなんでか額も腹立たしい。店主は黙っている。
「レシートいりますか」
「いいです」
 言いながら店を出た。

『今日最悪だったー笑』
 いつものように向こうから切り出されなかったので、耐え切れず送信してしまった。今日は特に、当たり障りのない前向きな、何が美味いとか何が好きとか、そういう話が出来る気分ではない。
『突然ですね笑 なにかあったんですか?』
『いつも助けてやってる後輩が、俺のせいで迷惑してるって言われた笑』
『え!?でもすっごく頼りにされてましたよね
!?』
『だと思ってたんだけどねー!俺は別に恩を売ってるつもりじゃなかったのに、そういうことも言われた笑』
『えええ汗』
『いつも愚痴ばっかりでごめんね』
『いやいや!これは辛すぎます……』
 ああ。いい子だな。俺が甘えたら、どんな風に甘やかしてくれるんだろう。度数の高い焼酎に口を曲げながら、溺れるようにテーブルへもたれかかった。
『ありがとう』
『実はさ、俺こういうことよくあるんだよね』
『そうなんですか?』
 この子になら何でも話せてしまいそうだ。年下だけどしっかりしていて、包容力があって。
『うん』
『役に立ちたいって思うんだけど、全然うまくいかなくて』

 俺は三人兄弟の次男だった。とはいえ、兄は十も離れており、弟は小学生の頃から引きこもりがちで、かつ両親はかなり仕事熱心だったから、俺は色々なことを許されて育ったという自覚がある。兄は俺に気を遣い、弟は俺との接触を避け、親は俺の寂しさを感じ取って、どんなに遅い帰宅の日にもよく笑っていた。
 弟のことを外に連れ出そうとして失敗したのが、俺は人とうまく付き合えないのかもしれないという自覚の始まりだった。あいつは、ずっと自分の部屋に籠ってこそいるが、俺が訪ねれば入れてくれることの方が多かった。だから、当時中学生だった俺は勝手に一抹の責任というか、使命感を覚えて……、弟と外に遊びに行く計画を立てた。今俺は結論だけ思い出せるわけだが、弟は徐々に、俺が訪ねてもドアを開かなくなった。
 中学生の頃、俺は特に仲が良いと思っていた同級生がいた。同じクラスになってすぐに意気投合したはずなのだが、俺の悩みは親身に聞いてくれるのに、相手は一向に胸の内を明かさなかった。そうしてお前はどう思うんだよと聞いた時に返ってきたのは、
「いや、わからん」
 悪意がないことは分かった。俺は自分に関心が無いのだと判断し、その同級生とは少しずつ距離が空くことになった。
 大学生になってできた彼女は、俺をコントロールすることに必死だった。俺からのプレゼントは心底嬉しそうに受け取ってくれて、あちらからも多くのものを貰ったはずだが、常に間合いを取りたがり、本音の全ては教えてくれなかった。それでいて俺の部屋を掃除したがり、俺の本音は把握しようとして掘り下げるようなことを聞いてきたりしていた。愛していたが、思うように身動きが取れなくて、苦しくなってしまって、終わった。
 俺の人生って、本当に誰とも繋がれないのだろうか。人は自分を一番大事にしろと言う。それは十分なのだ、俺は。誰かとの繋がりがひたすらに惜しい。惜しくて、縋ってしまっているのが悪いのだろうか……。

 翌朝、支度に慌てる中ふと見遣った焼酎は、瓶の半分にまで減っていた。

 木曜の間は連絡が来なかった。毎日欠かさずはそりゃあ無理だろうから、気長に忙しさが落ち着くのを待つことにする。夜のうちに送ったが既読のつかなかったメッセージを追うように、『仕事がんばろうね!』と入れておいた。金曜は気が楽だ。
 しかし事態は一変した。帰りの電車で開いたメールボックスに、先月応募したオーディションの結果通知が届いていたのだ。良かれ悪かれ、平静ではいられない。どこから湧いてくるのやら分からない熱い感情を感じながら、メールを開いた。
 ……まあそうだよなあ、と肩を落とした。俺は高校生の頃から、歌を仕事にできたらと夢を見ている。そして種々のオーディションに応募しては不合格通知を受け取り続けている。ボイストレーニングを習ったり、自分の歌っているのを録音して分析したりでは中々解決しない問題があるようで、狭き門であることをひしひしと思い知らされる毎日だ。

 その話もさせてほしいな、と思って開いてみたが、今日もメッセージは来なかった。繁忙期なのかもしれない。慰みに今日は、大入りのシュークリームを買って帰った。

「そういえば、あの人どうなったの?結構メッセージしてた人」
「ん?……あー、切っちゃった」
「えーそうなんだ。なんでよ。てか会ったの?」
 可愛らしい装いのカフェで会った二週間ぶりの友達が、自分のケーキを切りながら気軽に聞いてきた。気心の知れた仲というのは大事だなと思う。
「会う前に切ったよ。なんかねー、面倒くさそうで」
「ふーん、どんな感じ?」
「よく人間関係でトラブってて、しかも自分が悪いって分かってないんだよね」
「あーそれはダメだわ」
「だよね。多分だけど、素で有難迷惑をしまくってる人なんだと思う」
 この子ははにやにやしながら聞いてくれるので、私も楽しくなって詳しく話してしまう。
「有難迷惑ぅ?親切にはできるんだ?」
「そうそう。でもね、多分全部が、行き過ぎなんだよね」
「ははーん」
 にこやかに談笑する周りの女性客に馴染んだ自分達が窓にうつる。楽しくて、空気でふかふかのスポンジの味わいが、心なしか濃くなっていく。
「引きこもりの弟の腕引っ張って、無理やり外に出そうとしたとか」
「あー、絶対良くないわ」
「ちょっと引いたよね」
 アイスティーのストローを咥えた。思い返してみると、不審なところは色々ある。でも終わった相手のことだし、関係ないかな。
「一回だけ電話したんだけど、酒めっちゃ吞んでて」
「うーわ。え、それ初めての電話でする?」
「だよね!ほんと無いわと思ってー」
 締め切り二日前の資料って残業しても完成させるんだ、とか。受け止めて面倒見てくれるタイプの恋人とは上手くいかなかったのに、次の恋人にも包容力とか求めてそう、とか。
 灰汁を一通り出し切って、ケーキの一番甘いところを口に入れた。体が瑞々しくよみがえっていくような気がする。
「なんか、出会いって難しいね」
友達は、一つも疑わずに私の話を聞き終えて、楽しそうにフォークを置いた。

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