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施術者も施術を受けて、健やかを知る

『気の巡りを良くしましょう』『気を補いましょう』という言葉。
なんで?って聞かれたら、なんて答えるか、解が一つ増えました。

気が満ち巡り始めると : 食べたい物が分かる。マイブームができる。

引越しから半年、目まぐるしく生活が変わったこともあり『施術へ行くこと』からしばらく遠ざかっていまして。年末年始にかけて体調を崩したこともあり、やっと受ける気持ちなって受け始めました。春ですね。

たった半年ぶりの施術なのに、捉え方が変化してきていると感じました。東洋医学でいうところの『全体を見る』の捉え方が、少しずつ見えてきた気がします。最近、勉強会でもみんなに言われるんだよなあ。やっとこ分かるようになってきたから、耳に入ってくるのだろうか?

いわゆる症状(腰痛とか肩こりとか)というものは、その場所が悪いのではない。体全体のバランスが取れなくなっているから、結果、自分のウィークポイントに症状が出る、だけ。

腰痛 なのだから ココが悪い のだ なんて。
『腰痛ですね』その詳細のみを聞くのでは、わからないということ。

ウィークポイントというのは、その人の体質から出るものであったりもするし、生活で積み重ねられた姿勢や体の使い方によったりもして、かなり個性がある。そして聞きとり方や、評価の仕方がある。

私の周りにいる先生方がいう、『症状を治しているのではない』という言葉も、こういうことなのかと思いました。

数日前に行った治療院は始めて伺うところ。
先生があっついお茶を淹れてくれて、2時間の施術時間中、1時間くらいずっとお茶をしていました。

「今もう問診入ってるからな〜」と言われて、そっかあ、と思う。
するりと問診に入っていて、真に一対一で話している。私はこれがしたいと思ってここに来たんだったなあ。と思った。

「今食べたい好きな食べ物が、マイブームが、なんとなく出てきません。」
「ああ、それは気が満ちてないね。」そんな会話です。

気という言葉は、自分に、人に、自分の説明をしたいのに、元気がない時、とても使い勝手のいい言葉だなあと思います。考えすぎてしまうとき、自分の感性のままに話をすることを妨げない。受け手となる私たちは、それが何を意味するのかまで受け取る必要があるけれども。

今回は、話して行くうちに、自分が思う以上に昔から、緊張状態にあったのだなあと思い出しました。小学生の時から、生理痛で保健室に行ってた。そんな忘れていた事が、自分の体が出してくれたヒントである。

頭でぐるぐる考えて、気が上がってのぼせ、下には気が足りず、うまく動かない。そして私の場合は消化器に症状が出てくる。だから、消化器単体を治療してもなかなか治らない。気が足りないと、うまく考えられなくて、暴走も増えて、何をどう捉えるかも不明瞭になってくる。

そう、気が満ち巡り始めると、好きな食べ物がわかるなど、思考がまとま る。

東洋医学を学び始めて3年くらい経つのに、そんなことさえ今まで腑に落ちてなかった私とは。『まず自分が健やかになることが大事』の意味合いが変わる。ただ施術をするための最低限の体力をつける、位の意味合いしか持ってなかった。

先日、別の先生が『大きな決断よりも、小さな選択をめちゃくちゃ大事にする』ようにしていると話していて、ああ、そもそも出来てないね。と。笑

『大きな決断』というのは、就職とか、バイト先とか、結婚相手とか。
迷っているということは、どれも正解(になる可能性をもつもの)なはず。やりたい気持ちがあるから、迷っている。

ちなみに、複数の選択肢で迷っているときは、片方が無くなった世界を思い描いて、生きたいと思った世界を選ぶといい、とのこと。ただし選ぶときは、天任せくらいの気持ちで。

『小さな選択』というのは、今日着るお洋服とか、今日食べるものとか。
この選択をしたら、こう感じる、というのがある程度分かるから、その方が再現性があって、めちゃくちゃ考えてからやってる、という持論。

小さな、自分をご機嫌とれる選択ができることって、ベースとして大事なのだなあと思う次第です。

『相手の体を。自分の体と思ってやるといいよ。』と言われました。これは技術的なことのアドバイスとしていただいた言葉なのだけれども。逆も然りみたいなとこある気がする。

そのとき、求めているものが、なんとなく浮き彫りになっていく。私が施術者になったら、そんな私でいたいから。問診という名のコミュニケーションが大事だと思える時間は、取るのがいい。やりたくなったら、まず動いて、取りに行く姿勢を続けたい。