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作品の初出にあたるもまた楽し。

 最近のオタ活(内田百閒読書活動)のミニ報告です。ちゃんとした記事にする用のネタを詰めてると時間がかかる&書くものが長くなるので、たまには小出しに。

灯光舎「本のともしび」シリーズで百閒先生の本が出ます!

 このnoteは完全に灯光舎さんとは無関係個人の勝手な紹介ですが、ものすごく嬉しいので言わずにはいられない。こちらのシリーズ、一冊一冊がそれぞれの作品に合わせた装丁で素敵なんですよ。好きなシリーズで好きな作家の本が出るの、めちゃくちゃ嬉しい。

 灯光舎さんのオンラインショップで予約も始まってました!

また古い雑誌を買ってしまった

 相変わらず日本の古本屋で「内田百閒」新着サーチをしていたところ、「旅順入城式」掲載号の雑誌「女性」が手の届く値段で出品されていて……「旅順入城式」掲載の雑誌?????

 素人のイメージでは「なんかすごい昔のやつでレアそう」くらいの考えだったので、急にふつうに出てきて買える値段だったので動揺しました。

 そんでこれ、多分国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信で読めるやつなんだろうな……と、昨今の急激に便利になった環境に思いを馳せたりしたんですが、それはそれとして現物は手に入れてみたいじゃないですか。いちまんえんとかだったら買わないけど、まあ、ごせんえんだったので……(相場とかは知らない)。

雑誌「女性」大正14(1925)年7月号

 というわけでカッチャッタ。
 もう、これ以上古い雑誌は増やしたくないっていつも思っているのに……(管理しにくいので……)。でも戦後すぐの本とかより全然紙質も保存状態も良くて、普通に読めるな……となりました。大正時代なのにすごいねえ。

文芸雑誌名物観音開き目次

 目次を見て、ま、まあまあいいところに載ってる……となったし、谷崎潤一郎「痴人の愛」と同時期同雑誌だったんですね……?! さすが初出掲載誌にあたると、同時代の空気とか雰囲気がわかりやすい……。

 しかしそうそうたるメンバーですごい。発行元のプラトン社については、漫画「エコール・ド・プラトーン」で初めて知りました。この漫画のもぐもぐ食べてるけど腹の底はしっかりとした谷崎潤一郎が好きです。

 乗りに乗ってる雑誌の雰囲気を感じつつ、さて、目的のページへ……。

内田百閒「旅順入城式」掲載ページ(画像は加工しています)

 ほ、ほんとに載ってるーーッッ(当たり前)。著作権に気を遣って加工したら消しすぎた気もしますけれども(本文は岩波文庫とかちくま文庫とか旺文社文庫とか福武文庫とか全集とかでどうぞ)いや〜〜感激しますね……。

 ここで内田百間「旅順入城式」として掲載されているのは、「永日」「波頭」「残照」「旅順入城式」の4本。ストーリーのある短編小説というより、まだ『冥途』掲載の短いお話に近い形式のものですね。

 状態がいいから普通に読めるな……と、当時の漢字表記と仮名遣いで本文をしみじみ読んで、「旅順入城式」のラストを味わってからページをめくると……

谷崎潤一郎「痴人の愛」

 「痴人の愛」が出てくるの、食べ合わせ〜〜!! となりましたね。しかもこれが最終回。ナオミズムにやられた当時の読者の皆さん、最後はどうなるの!? とドキドキワクワクいきなりここから読んだりしたんじゃないでしょうか。

 いやほんと、痴人の愛と同時期か……ナオミズムの時代か……と考えることで見えてくるものもありますね。編集後記、「肉と魂の乱舞であつた谷崎氏の『痴人の愛』」とか書いてるし。

芥川龍之介「内田百間氏」の話。

 この雑誌「女性」に載った四篇は、芥川龍之介も読んで誉めています。

内田氏の作品は「冥途」後も佳作必ずしも少からず。殊に「女性」に掲げられたる「旅順開城」等の数篇等は戞々(かつかつ)たる独創造の作品なり。

芥川龍之介「内田百間氏」

 青空文庫に百閒作品ってあるかな〜? と、まだ著作権保護期間中だと知らずに検索したとき最初に出てくるのでお馴染みのやつです。あと室生犀星「「鶴」と百間先生」とかね。

 ここで芥川が「旅順開城」と間違っていることで、ヒマラヤ山系君こと平山三郎氏が後に惑わされたりした話が平山三郎『実歴阿房列車先生』(中公文庫)に載ってたりしますがそれはまあ置いといて。(平山三郎「 「旅順開城」か「旅順入城式」か」)

 芥川も、この雑誌「女性」で「旅順入城式」を読んだんだよな……と、しみじみ感じ入ったり、改めて「内田百間氏」を読み返したりしていたのですが、ふと青空文庫に書かれている、「内田百間氏」の初出が目に入ったんですよね。

 芥川龍之介が先輩であり友人である百閒の生活苦と無評判を少しでもなんとかしようと世に紹介した「内田百間氏」は、芥川の絶筆という説もありましてね。遺書のように「これを絶筆とする……」と考えて書いたわけではない、たぶんタイミングがたまたま最後の執筆原稿になってしまった感じだと思うんですが、とにかく最晩年も最晩年に書かれたもの……。

 これまで気にしたことはなかったんですが、そういえばこの短文の初出ってどんな感じだったんだろ〜、と、「旅順入城式」の初出を確かめたついでに気になったのです。

 青空文庫によると、「内田百間氏」の初出は「文芸時報 第四二号」。検索すると、「文芸時報」は復刻まとめ本が出ていて、ちょうど良く行ける範囲の図書館に所蔵されている。
 館内閲覧のみだけど、複写もできるだろうし、ちょっと確かめてくるか〜と、軽い気持ちで図書館に向かいました。

 この時点までの私の想像としては、芥川は百閒先生のために取り急ぎ「内田百間氏」を書き、それが雑誌(?)の隅っことかに掲載されたあとに自死したのかしら〜、そんで後から思えばあれが絶筆ってことになるかも……と後の世の人が気が付いたのかな、と考えていたんですよ。

 そしたら違ったんですよね。

「文芸時報」第四十二号(昭和二年八月四日発行)/不二出版の復刻版より

 芥川龍之介訃報大特集の一面に、堂々と故人の絶筆です!!て感じで載ってたんですよね。

 こ、こここここんなおおごとな載り方だったん!?!?!??

同「文芸時報」より見出し
同「文芸時報」より原稿写真

 ものすごく絶筆アピールしている。しかも見出しの方は隣に芥川の遺書全文とかが並んでいる。

 こんな……全力の芥川ブーストを……掛けられて……。百閒先生は後に本が売れるようになってから、あの頃芥川が紹介してくれたから、無名時代でも自分のことを覚えていてくれる人がいたみたいなことを書いていますが、その芥川の紹介がこんな感じに表出したものだとは……思ってなくて……。心底びびりましたね……。

 なんというか、青空文庫や芥川の本や百閒先生関連の本でお馴染みもお馴染み、いい加減覚えられそうなくらい読んだ「内田百間氏」も、こうして初出の状況を知ることで、全然違う背景が見えてくる……という面白い体験をしました。

 なお、上記の画像三種は『文芸時報 第2巻 第25号~第94号(昭和2年1月~3年12月)』(不二出版)から複写・引用したものです。ざっと見出しを追うだけでも当時の文壇・画壇・演劇界の(まあまあゴシップ寄りな)状況が伝わってきて面白い。こうして復刻版の形ででも確かめられるのは、大変ありがたいですね……。
(引用としての範囲内で画像を貼っているつもりですが、権利的にアウトでしたら取り下げます)

 こうして芥川による全力の紹介ブーストを背負った百閒先生が、およそ2年後に発表したのが、芥川龍之介の死を思わせる小説「山高帽子」なわけですが、その話はまた別の記事で……。

 「旅順入城式」も「山高帽子」もこちらの岩波文庫にまとめて収録されています。

 百閒先生の語る芥川龍之介についてはこの本で。