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自己紹介②

ここからは、高校時代


高校時代 1979年~1983年

高1(1979年)

親父の母校でもある県内屈指の私立の進学校に合格するが、共学でのハイスクール生活にあこがれ公立高校へ進学。

中学ではそこそこの優等生だったつもりだったが、県下の中学の学年トップが集まる中、下から数えた方が早いくらいに落ちこぼれる。

入学して友達に誘われてハンドボール部に入部するも部活の上下関係が我慢できずに数日で退部。ほどなく帰宅部となる。

自分の嫌なことはやらないのはこの頃からもうやってるようだ。

ひょんなことから、父の勧めで父が勤めていた会社がスポンサーとなっていた交換留学プログラムYFUの奨学金制度へ応募することになった。

どれくらいの応募があったのかは定かではないが、運良く合格して留学することが決まった。

進学校でもあって担任の先生はあまり賛成していなかったようだが、自分としては楽しみしかなくこの頃はワクワクしていた。

高2(1980年)

2年に進級するときには、夏から留学することが決まっており、心そこにあらずな感じで学校生活の記憶があまりない。

時間があると通学路途中にあったゲームセンターでTVゲームをやって暇を潰していたのだけはなぜか鮮明に覚えている。

留学(8月~翌7月)

いよいよ、1年間のホームステイへ旅立つのだ。

ホームステイ先は、父の勤めていた会社の親会社の本社があるMichigan州、Kalamazooという地方都市。エレキギターGibsonの工場やコンフレークのKellogg本社があった。

ホストファミリーはモルモン教で7人の子供がいる大家族だった。

7人兄弟の大家族 誕生日はテディベアがプレゼント


人見知りで積極的な交遊も出来ず英語も上達することなく、楽しみといえば日本から航空便で送られてくる時期外れの雑誌や新聞のニュースだった。

現地でリアルタイムで聞いた日本の大きなニュースは、具志堅用高が14度目の防衛戦で敗れるというもので今でもよく覚えている。実は具志堅用高とは同じ誕生日。

あれだけワクワクしていた僕の留学生活は、あまり周囲になじめず、現地の高校生徒とも親密な交友関係も築くこともなく、僕にとっての留学期間は栄光の一年ではなく、挫折の一年であった。

日本人留学生(大学生)とつるんで、ここでは書けない様な体験をしたのが唯一の武勇伝だ。(→会った時に聞いてください)

そんなことはさておき、最大の思い出は入国時と帰国時にともに飛行機にまつわる大事件。

入国後即病院へ

飛行機がサンフランシスコ空港への着陸態勢に入り降下を始めると、急に背中が痛くなり咳き込むようになった。

入国審査場へ向かう時も息があがり何が起きたのか?さっぱりわからない。

みんなは、導入オリエンテーション合宿が行われるスタンフォード大学キャンパスへ向かうのだがひとり病院へ。

初めて異国の地に降りて最初に訪れたのが病院という。。。いきなりなんとも言い難い体験。

痛みの原因は肺が破れて空気が抜けて肺がつぶれる『気胸』という病気でした。

交換留学プログラムのスタッフに連れられて行ったのだが、どんな気持ちだったのか?もう覚えていません。

病院での処置は体内に残った空気を管をいれて抜く事、肺は正常な大きさになりまともに呼吸が出来るようなって無事にオリエンテーションに合流する事が出来た。

オリエンテーションでは、アメリカでの生活ことを聞いたり、日本文化の紹介をシェアしたり。

なぜか?盆踊りを紹介するのに女の子が持ってきていた浴衣を着させられ化粧をして舞台に上がることになった。

気持ち悪い女装


なんで?と思いながらもなんか楽しかった。

3日間のオリエンテーションの後、治療の為に一時的なホストファミリーのところで1週間すごして、みなとは遅れて東海岸のMichiganへと一人心細く飛行機に乗ったのです。

これが、入国時の私の身に降りかかった大事件です。

逃亡事件 ~実は飛行機に乗り遅れただけ~

全米へ散らばっていた交換留学生はサンフランシスコ空港に集まり、お互いの想いで話に花を咲かせながらチャーター機で帰国の途につくはずであった。

ところが、チャーター機が成田へ降り立った時、そこに僕の姿はなく、

迎えに来ていた家族は「やつは、帰国したくなく逃亡した」とスタッフから聞かされたそうだ。

実は帰国の数日前に入国時に(例の事件で)お世話になったホストファミリーの所へ立ち寄るために、ひとり一足先に西海岸へ移動していた。

帰国の日が来て、近隣にホームステイしていた友人のホームステイ宅へ電話をしたら、

「もう昨日の夜中の便で帰国したよ」と。

僕の頭は「??????」 乗るはずのチャーター便に乗り遅れたのです。

正規料金で買ったチケットが手元にあれば、手数料を払い後発便への変更が出来るのですがチャーター便で手元にはチケットすらなくみごとに帰国手段を失ったのです。

家族が迎えに来ていた成田空港ではちょっとした騒ぎに。

その当時は、携帯電話などというものが無く事情が分かるのは翌日になったのです。

結局帰国できたのは、それから2週間後。

2度目の送迎は流石に家族揃ってではなく父親だけが成田に来てくれたのです。

無事に帰国できたのですがほっとしたのはつかの間、地元名古屋に戻ると衝撃的な事実を知らされるのです。

二度目の高2(1983年)

帰国するとまたもや両親が離婚をしていてビックリ。

それから、父親と男二人の生活が始まるのです。姉は就職していた家から出ていたんです。

2学期からは、再び高2からスタート。当然ひとつ年下が居る教室へ行くことになる。

まったく知らない中に入るのも不安だが、なまじ知っている人がいるのも不安。
2学期から入るクラスの名簿に中学校の頃からよく知る後輩の名があった。

ずっと、後輩として接していた彼とどう関係を作っていけば良いか?
でも、そんな心配はあっという間になくなりすっかりひとつ下の仲間に溶け込むことが出来た。

もしかすると、クラス編成の時に学校が配慮してくれたのかも?と思ったりします。

体育祭、文化祭、修学旅行をともにし高校生活の一番楽しい時間を過ごした仲間たちです。

一方、おやじとのふたり生活はおやじが夕食を作ったり洗濯をしたりして、自分は家のことは何もしていなかったような気がする。

おやじはせいっぱいできる事をしてくれていたんだとと思いう。そんな親父に思いっきり甘えていたんだなぁと今なら思える。

その頃は、おやじは勝手だなと思っていたし、僕のやることに何も反対はしなかったのは、おやじ自身が好き勝手やっているから言えないだけだと思っていた。

高3

高3は、進路別クラス編成で理系進学希望だったので男子クラスだった。受験生という悲壮感はあまりなくそれなりに楽しい学校生活を送っていた。


いよいよ最後の追い込みで、塾からの帰り道の地下鉄の駅の階段で背中に激痛が、受験の直前に再び気胸になる。

今度は肺に穴をあけることなく2週間程度の安静で自然治癒し、東京の私立大学の受験へは何とか行くことが出来た。が、万全の体調でなく何となく消化不良な現役での大学受験だった。

東京の私立は全滅、

第一志望の地元国立大学も不合格、

唯一地元私立大学に合格する。

その時は、地元私立大学に進学するつもりだった。

つづく


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