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【短編小説】タルク


 これまでもずっと、日記には秀平さんのことを書き続けてきました。ありふれた言葉ではありますが、彼と出会って私の世界は変わってしまったのです。

ああ、神様。あなたの存在も、彼と出会うまでは信じていました。しかし、あなたへの信仰は、私の中に宿った生々しい恋心の前で脆く崩れ去ったのです。


私は品行方正な両親の下で育てられ、自分と同じように人を愛することを学び生きてきました。

美しい言葉達や、心をそっと温める陽だまりのような思いやり、清潔で真っ白な愛情などにどっぷりと浸かりながら育てられたのです。そのおかげもあって、心に一点のシミも付けずここまで成長することができました。

もちろん、自分の人生についてや、周囲との関係性に悩むこともありましたが、それはあくまで「清潔な大人」になるための悩みでした。私という存在を、「どう繕って生きていこうか」というちっぽけな悩みです。

それは「どのような服を着て出かけようか」という他愛ない悩みと、なんら違いはありません。(そこに命を懸けている人も多いのですが。)


しかし、今回は違います。これは、「私がどういう人間になってしまうのか」という悩みです。

この悩みが体の中に宿って初めて、私は自分という人間でさえコントロールできない、非力な存在であることを学びました。安っぽいドラマや神話、ヒーロー物語のようにはいきません。恋は私という人間を変質させてしまったのです。

いや私は元来、神の存在など信じない極めて利己的な人間として、この世に生を受けていたのかもしれません。そう仮定すると、恋は私を変質させたのではなく、真の意味でこの世に「私」という人間を産み落としたともいえます。しかし、そのように自分の不徳を容認してしまえるほど、私は正直な人間になりきれません。



あの日、寂れた商店街の薬局の前で秀平さんと出会いました。ぼうぼうとした黒髪と、だぶだぶの白衣のコントラストに、私の視線は釘を打たれたようにぴたりと留まりました。彼の背中は夕日に染まっており、その赤さが私の心をじわりと炙ったのです。

妙な息苦しさにその場で固まっていると、秀平さんは振り返り「なにかご用ですか?」と私に尋ねました。彼は金具に鉄の棒の端を引っかけ、ガラガラと店のシャッターを降ろし終わった所でした。彼の肌は浅黒く、日に焼けていたので、顔のパーツの中でも白目がやけに目立ちます。

しばらく言葉を忘れて彼に見とれていたものの、体の内側がむずむずと痒くなってしまったので、「体が痒いのです。」とだけ答えるのが精一杯でした。秀平さんは少し困ったような表情になった後、にっこりと笑いながら「かゆみ止めと良いものがあるから」と、再びシャッターを開け、店内に私を招き入れてくれました。


古びたガラス戸をくぐると、店内には薬品の棚が3つと、木造のカウンターが1つ並べられていました。秀平さんは店の奥に入っていったかと思うと、虫に刺されたのか、肌が被れている箇所はあるのか、あせもはできやすいか、など肌に関することを私に尋ねました。

私は辺りを見回しつつ、ほてった頭で返事をしたために、どの質問になんと答えたのかはほとんど覚えていません。しばらくしてから、店内に戻ってきた彼は、かゆみ止めのビンを1つと小さな水色の缶を1つ、木造のカウンターの上にそっと置きました。


かゆみ止めは家に常備してあるものと同じだったため、すぐに何の薬であるか理解することができました。しかし、もう一方の缶に何が入っているのかは分かりません。水色の缶の丸いフォルムは、ゆりかごのようにも見えます。


きょとんとしている私に気が付いたのか、秀平さんはゆっくりと缶の蓋を取り、中にあった白い粉を自分の指先に付け、私の手の甲に一筋の線を描きました。

秀平さんに触れられた緊張から「校庭の上に引かれた白線みたいですね。」とぎこちなく私が笑うと、「これはタルクが入っているから、白線と同じだね。」と彼も微笑んでくれました。

白線に鼻を近づけその匂いを嗅ぐと、煙たいような甘いような、とても不思議な香りがして、私の頭は少しだけぐらつきました。


「ベビーパウダーは、湿気からくる肌のかぶれに効くからね。」


秀平さんはそういうと、今度は歯を見せて笑います。肌が日に焼けているせいか彼の歯はとても白く見え、コーヒーや紅茶に入れる真っ白な角砂糖がてんてんと、口の中に並べられているようでした。私はそれを見て、「彼の口の中に舌をさし入れたらどんな感じだろうか。」などとついつい想像してしまったのです。



口の中で律儀に並ぶ、角砂糖の列を私の舌でなぞれば、どんな味がするのだろう。

それは本物の角砂糖を舐める時のように、ざりざりと舌にこすれた後、柔らかく溶けていくのだろうか。

彼の口の中で角砂糖の、むせかえるような甘さを感じることができたら、それはどれだけ素敵なことだろうか。



そんな想像をするだけで、私の胸は狭くなりました。空気の入るすき間など、残して置けないくらいに。その後、私はすぐにそのふしだらな想像を恥じ、唇をぎゅっと噛み締めました。



それからというもの、私は夜眠る前に必ず、彼からもらったベビーパウダーを体に馴染ませました。煙のような苦い香りを放つパウダーは、肌に乗せてからしばらく経つと、体温で徐々に温められていきます。すると、じわりとバターが溶けるように、花が開いていくように、体から甘い匂いが立ち上ってくるのです。それは肺にまで達し、私はいよいよ溺れてしまいます。

子供の頃、母はよくベビーパウダーを私の体に塗ってくれましたが、あの頃嗅いでいた清潔な香りと、私の肌から放たれる香りはまるで別物です。同じ白い粉でも、女が男を想いながら自分の肌に伸ばすそれと、母親が子に付けるそれとでは、ここまで香りが変わるものかと驚きました。


その時、女は女として生まれるわけではないことを私は知ったのです。もし、私が生まれた頃から「女」なのであれば、赤ん坊の頃の肌と、今の私の肌は全く同じ香りがするはずです。女という生き物は、自分の肌から立ち上る、恋の香りにいぶされて生まれてくるものなのだと、その時思いました。


パウダーを肌に伸ばすとき、必ず角砂糖のような白い歯の存在を思い出します。彼と初めて出会ったときに生み出した、あのふしだらな想像。私はそれを捨てきれないばかりか、毎夜反芻していたのです。

そして想像は彼の体のもっと奥にある、甘い種の存在にも手を伸ばします。道徳を重んじる、心優しい男性の中に隠された秘密の種。それを盗み、自分の中で育んでみたいという願望が、私だけの物語をさらに膨張させていきました。

私が欲しいのは、彼の素肌の下に眠る、彼以上のもの。私達の存在を超えたやり取りがそこでは行われるのですから、ちっぽけな理性や道徳的な観念など、濁流の中の葉に等しいのです。



秀平さんとお付き合いをし始めたのは、出会った日からちょうど1年が経った頃のことです。秀平さんが店番をする薬局に、私は度々薬を買いに行き、彼と数十分程度話をしました。

その数十分が恋しいあまり、必要のない薬を買いに行ったことさえあります。薬箱の中に、4箱も頭痛薬が溜まってしまった時などは、母親に用途を尋ねられ、ひやりとしたものです。

話の内容は秀平さんの趣味であるテニスのことや(彼の肌が黒いのはこれが原因でした)、秀平さんのお父様のこと(毎日多量の酒を飲み、二日酔いになるため店に立てない)、店の経営は苦しく、自分の人生もどうなるかわからないことなど、実に様々です。


秀平さんが話をしている間、私はそれを聞くよりも彼の存在をじっと観察することに夢中でした。声や会話の切れ目、そこにある小さな息継ぎ、視線の動かし方など、彼の細かなしぐさや癖などを脳裏に焼き付けます。虫取り網でそっと、小さな蝶々を救い上げるように、彼との時間を心のかごに閉じ込めるのです。


帰宅後、私の部屋で蝶々はそっと放たれます。やがてそれは、私だけの物語に住み着くのです。蝶々が増えるごとに、物語はより現実味を帯びた夢へと成長していきます。そうして私は、彼への恋心からくる物悲しさや、どうしようもない寂しさを埋め合わせながら、「乙女」として過ごしていくのです。自分のエゴに満ち溢れた行為や、物語の存在を恥じながらも、私はそれをやめることができませんでした。


私の体と精神は、物語がなければ正常な状態を保てないほどに「恋心」に毒され、腐り始めていたのです。
大人の女になるということは、真っ白な精神を腐らせていくということなのかも知れません。
だから、秀平さんが「正式に付き合おうと」と告げてくれた時はとても嬉しかったのです。現実世界で彼を手に入れることができる。これ以上自身の毒が、私を腐らせることはないでしょう。


しかし、問題は彼とお付き合いを始めて半年後に露呈しました。彼は私の体に少しも触れようとしないのです。私と食事をしても、酒などは一切呑まず、ただ向かい合って話をするだけです。

それも、恋人らしい会話をするのではなく、付き合う前に店で話していた内容と、全く同じような話を繰り返しました。不安になった私は、秀平さんに幾度となく私のことが好きかを尋ねましたが、彼は「もちろん。」と短い言葉で返答するだけです。

そんな毎日が繰り返される内、私は秀平さんを手に入れたどころか、彼を遠くへ追いやってしまったのだと感じるようになりました。



一方で、ベビーパウダーを使用する時に反芻される世界は、お付き合いを始めてからみるみる現実味を増していきます。横並びで歩く機会が増えたせいか、私は彼の匂いや肌の質感などをより具体的に思い返すことができました。

お付き合いを始める前は、視覚に頼った情報のみで形成されていた夢物語も、匂いと温度を持ち始め、以前よりも強い力で私を閉じ込めようとします。


物語を作り出した当初は、罪悪感がありながらも自分の欲を満たすことに成功し、うっとりとしていました。

しかし、この頃になると夢物語を反芻することが辛くなってきたのです。付き合っているにも関わらず、どうして現実世界の彼に触れることが叶わないのでしょう。距離を縮めていく手立てが見つからないことも私を不安にさせました。

それに比べ、私の体の中で作り出される世界は成長を続けます。夢物語の中の秀平さんは体を持ち、肌を持ち、唇を持ち、ぬくもりや匂いを持ち、そして欲求を持っていました。

そこから生まれるエネルギーの渦は愛のような形をして、私たちを一体にさせます。ベビーパウダーを肌に塗りながら、彼の事を思っていると、例のふしだらな夢物語が心の傷口にしずくを落とし、私を腐らせていくのです。

現実の2人の関係を受け入れ、そのままの秀平さんだけを愛せたらどんなに良いだろう。そう考えると私の良心は激しく痛みました。その痛みに耐えきれず、私は幾度となく涙を流したものです。ベビーパウダーを塗った肌の上に涙は落ち、透明な玉のようになって滑りました。



神様。その頃、私は何度かあなたの名前を呼び、祈ったものです。


「どうか私の心を腐らせないでください。わが身の毒から、私の良心をお守りください。」と。


しかし、あなたが私を助けることはありませんでした。私は、自分自身の首を絞める、愚かな人間です。そんな頭の弱い女を、あなたが助ける必要性なんてどこにあるのでしょうか。全く、自分勝手な話です。あきれてしまいます。だから、私はあなたへの信仰心を捨てました。


そんな時でした。父の会社の周年パーティーで弘樹さんと知り会ったのは。

弘樹さんの父である大手物流会社の社長様とは、父の会社との関係が深いこともあり、何度かお会いしたことがありました。しかし、息子さんがいることは、弘樹さんを紹介された時に初めて知ったのです。

弘樹さんは長身で肩幅と胸が厚く、その上には仕立ての良いブラックスーツの上着が羽織られていました。その立ち姿は黒いリボンをあしらった、品の良いプレゼントのようにも見えます。

軽く挨拶を交わした後、数杯のシャンパンを飲み交わしその場は別れましたが、後日2人で食事に行かないかと改めて誘いがあったのです。食事に行くか迷ったものの、父の会社の取引先と関係していることもあり、無理に断れない状況でした。

それに、私は内心、弘樹さんに助けを求めていたのだと思います。悪夢のような恋の幻想に憑りつかれながらも、私はその物語を捨てきれずにいました。信仰心を捨てた今、あなたが私を助けることなどないでしょう。秀平さんは相変わらずの調子でしたし、私も彼の本心を図れずに少し疲れていました。


1度食事に行った後も、弘樹さんは積極的に私を誘ってくれ、4度目の食事の後彼からベッドに誘われました。秀平さんへの罪悪感がなかったわけではありません。しかし、これはチャンスだとも思いました。これでやっと、秀平さんに迷惑をかけなくて済むと考えました。


この頃の私は心身共に自ら生み出した毒に負け、腐りきっていたのです。秀平さんに自分の願望を伝えるべきか考えると、怖くてたまらない気持ちになりました。

一度、思い切って彼の唇にキスをしたこともありますが、彼は驚き、私の体を突き飛ばしました。床に倒れた後何とも悲しい気持ちになって、私は秀平さんの顔を見ました。しかし、彼は目も合わせてくれません。

それからの私は「愛されていないのかもしれない」と思いながら交際を続け、彼の一挙一動に異常なまでに喜んだり、悲しんだりを繰り返しました。


あるデートの後は、「彼がそばにいてくれるならなにもいらない。希望を全て叶えるために、自分の胸の内の願望も押し殺そう。」、「私は彼を愛しているのだから自分が犠牲になることは本望だ」などと、力強く決意をします。

しかし、あるデートでは決して触れることができない恋人の存在を思い知り、ボロボロと涙をこぼすのです。その度に秀平さんはおろおろし、大丈夫かと尋ねるばかりで、それ以上のことは何もしませんでした。


このままでは狂ってしまう、と確信した私は秀平さんに別れを告げたのです。しかし、そんな時にも秀平さんは何も言わず、「あなたの好きにすればいいですよ」と呟くように言うだけでした。もし、私が秀平さんに別れを切り出されたならば、激情し、泣きじゃくり、罵声を浴びせるに違いありません。


私は、彼を愛するどころか、傷つけることさえできないのです。恋人とは、なんと遠いものなのでしょうか。しかし別れを切り出して数日経つと、地獄を見るのは私の方なのです。彼が私と付き合っていないという事実を直視したとき、私の背筋は凍ります。秀平さんを失った損失感は、私の日常を冷たい川の中へ放り込むのです。唯一温かいのは、私の目から流れる涙だけです。

その時に、私は恋することによって生かされていることを自覚しました。それが自分の肉と心を腐らせる恐ろしい毒であったとしても、食らわねば生きていけないのです。その真実に気が付いた私は、秀平さんが店番をする薬屋へと足を運びました。

私は紛れもなく狂人でした。秀平さんと会うのが辛く、会っていない時も辛く、別れるのも辛く、復縁しても辛いのです。


恋をうまく進めるためには、「自分の趣味や仕事に打ち込むのが良い」と言いますが、こんな馬鹿げた考えをする人間がいるという事実に驚いてしまいます。恋によって空いた心の穴を、恋以外のもので塗り固めることなどがどうしてできるのでしょうか。そもそも、恋をうまく進めるとはどういうことなのでしょうか。


恋は首輪を付けられた従順な犬のようではありません。もっと邪悪で、人の手には負えない強靭な力を持っている生き物なのです。それは人を食い殺します。手綱を引いたり、餌をあげたりしてうまくしつけることが可能なのであれば、それは恋と呼びません。「自分は性的に魅力的だ」という自己顕示欲を、他人の短絡的な欲求を利用し満たす、自慰行為でしかないでしょう。



弘樹さんと初めて寝た日、私は「悪人」になることを決意しました。秀平さんの嫉妬心をあおりたいから、弘樹さんと寝たわけではありません。私は秀平さんの願望を全て叶えたいがために、弘樹さんと寝たのです。

この頃の私は情緒不安定で、秀平さんとデートをしていても、急に泣き出したり、怒り出したりすることを止められなくなっていました。もちろん、弘樹さんと寝ることで秀平さんを欲する苦しみから完全に解き放たれた訳ではありません。それは解熱剤のようなものなのです。私の体の中を、溶けた鉄のようになって真っ赤に流れる欲望。それを少しの間抑えるために、注ぎ込まれる水です。


弘樹さんと関係を持つようになってから、私は秀平さんに優しく接することができました。「体の関係がなくても私は満足です。」という、かまととぶった言葉さえ口にできるようになったのです。弘樹さんと寝なければ、そんな演技もできなかったでしょう。彼と出会って初めて、彼の理想とする淑女のようにふるまえることが、私の心の負担を軽くしていったのです。


弘樹さんも真面目な青年であったため、私と寝た後は誠意をもって尽くしてくれました。「付き合おう」という言葉はなかったものの、多忙な中デートの時間をつくり、夏の長期休暇には2人でゆっくり旅行しようと提案されました。弘樹さんは度々、周囲に私たちの関係をどう告げようか、などと無邪気に笑って見せ、私は返答に困ったものです。


彼の優しさや誠実さ、それらの感情が結びつくベッドの素晴らしさは、私が抱える恋の痛みをやわらげてくれました。



悪人になった後も、私は「乙女」を演じ続けます。この頃の私は、以前と変わらず白いワンピースなどをまとい、頬と唇は薄桃色に活き活きと輝いていました。表情の一つ一つからは上品な明るさがにじみ出し、その姿は以前よりも洗練された「乙女」であったに違いありません。


しかし、乙女の皮を1枚めくれば、恋の蛆が湧いているのです。赤く爛れた肉にびたりと張り付く蛆たちは、私の腐った肉を食しています。

体の中心にある心臓には、ぼつぼつと歪な腫瘍ができており、そこに指で触れようものなら腫瘍はぴりと破け、中から黄金色の液が溢れ出すことでしょう。しかし、私はもうベビーパウダーを肌に塗りながら泣くことはありません。私は葛藤することをやめた人間です。

葛藤というものは、一つの体に相反する思想を有するから生まれるのです。良心を捨て、悪人になった私には崇高な葛藤をする資格さえないのです。私は自分自身のために、弘樹さんとの関係を保ちながら秀平さんに尽くすことを選びました。そして、そうすることが何よりも彼のためになると信じて疑わなかったのです。



彼に弘樹さんとの関係について問いただされたのは、日の色も鮮やかな秋の頃です。いつものようにデートをし(その日は動物園に行きました)、帰りの電車に乗ろうと2人で駅に向かいます。


その日動物園のふれあいコーナーで、秀平さんはクッキー&クリームの色をしたモルモットを抱いていました。彼のぎこちない動作は、モルモットなんかよりはるかに可愛くて、私は甘い気持ちになりました。「彼を抱きしめたい」とも思いましたが、そんなことが行動に移せるはずもなく、彼の胸に抱かれるモルモットが心底うらやましくなりました。


駅前の広場には誰もおらず、赤色のジェリービーンズのようなモニュメントが、寂しくたたずんでいます。それは、クジラをイメージしたものであると、以前説明書きを読んだことがありますが、どの辺りがクジラなのか私には見当もつきません。


「弘樹さんと付き合っていると聞いたんだけど。」


秀平さんは、唐突に話を切り出しました。私は、クジラらしからぬ赤いクジラのことを一生懸命考えていたので、一瞬何を言われたのか分かりませんでした。


「なんの話ですか?」


「一週間程前、弘樹さんが薬を買いに、うちの薬局に寄ったんだよ。会社の人間と一緒に。その時、君と付き合っているって話を彼がしていたんだ。彼は何度か店に来て、領収書を出すために名刺を僕に渡していたから、どこの誰だかはすぐ分かったよ。」


弘樹さんは、私との関係を秘密にすると言っていたのに。私は、弘樹さんの薄い唇を思いだしてみました。それはいつも乾燥していて、干し柿のような色をしています。なるほど、確かに軽そうな唇でした。

「黙っているということは、彼と関係があるんだね?」


私は、何も言わずに自分の履いている靴の先を眺めていました。私は今日、つま先の尖った靴を履いています。秀平さんが「つま先の尖ったヒールが好きだ」と言ったので、わざわざ買いに走ったものです。デートで着用するのは、今日が3回目になります。


今まで私は、秀平さんの好みの女性になりたいと思い、様々な努力をしてきました。洋服も、化粧も、動作も、言葉使いも、全て彼の希望を叶えてあげたいと思っていました。そのためには、自分の存在など要らないとさえ思ったものです。しかし、どうしても「秀平さんへの欲」だけは捨てることができませんでした。恋に身を腐らせる人間に、そんなことがどうしてできるのでしょうか。


確かに私は悪人です。秀平さんへの欲を満たせず耐え切れなくなり、他人の体で「とりあえず」の埋め合わせをしたのです。悪人と指を差されても仕方ないでしょう。

しかし、この恋に恥じることなどは何もしていません。私が好いているのは秀平さんだけです。彼は道徳のかごに捕らわれている善人です。かごの中で真っ白な夢を見る子供です。秀平さんに、この恋がいかに純粋で真摯なものであるかが、分かるはずもありません。

では私はどうすれば良かったのでしょうか。あのまま死ねば良かったのでしょうか。ああ、それだって秀平さんを手に入れたことにはならない。この世に悔いが残るでしょう。こんな仕打ちはあんまりです。



長い沈黙があり、夕日の色も少し濃くなったようでした。ふと、秀平さんの顔を見ると彼は泣いていました。

眉と唇にぐっと力を入れ、絞り出された涙で顔を濡らし、喉からは異物を詰め込むような、低い嗚咽が漏れています。だらりと降ろされた腕とは対照的に、拳はぎゅっと握られていました。


秀平さんが泣いている!


今まで一度も私のことで傷つかなかった、あの男性が泣いているのです。

その事実は、私を深く悲しませ、激しく混乱させました。しかし同時に女としての強い喜びと、大きな波のような興奮が腹の底から湧き上がってくるのです。

夢見ることで、弘樹さんと寝ることで、かろうじて胸に抑えていた様々な感情たちが混ざり合い同じ色になっていきます。それらは心の淵を突き破り、土砂崩れのようになって私の身体の中をごうごうと流れていきました。


あの瞬間、私は彼を一番愛していました。

今まで出会ったどんな秀平さんよりも、目の前の秀平さんを愛していました。私はその瞬間を、ずっと待ち望んでいたのです。


しかし、私は無表情なのでした。涙をこぼすこともせず、笑みを浮かべることもなく、少女のように動揺することもなく、ただただ秀平さんの涙が落ちるのを、夕日の中でぼんやりと眺めているのです。

私はこれまでの秀平さんの行動を思いだし、「彼もまた同様に、何も言えない程私を愛していたのかも知れない。」と思いました。しかし、それではもう遅すぎたのです。


呆然とする私の鼻先を、あの香りがくすぐりました。昨晩首筋に塗った、ベビーパウダーの香りです。しかしその香りに、毎夜嗅いでいたような成熟した女の香りなど、混じっていませんでした。あれは幻だったのかも知れません。そこにあるのは、赤ん坊の肌から香るものと同様、乳の甘さが残る香りです。タルクが私の肌を、からりと乾かしていきました。



ツナ缶に愛の手を🤚❤️