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沈黙は語る。

昔の話。大学3回生の頃、よくひとりで飲みに出かけていた。

行きつけのバーでラフロイグのロックを頼み、ゆったり飲んでいたカウンターで、隣に座ってきたおばちゃんがすっごい勢いで話しかけてきた。

はじめは「あぁどうも」って感じで応対していたけど、おばちゃん、まぁ喋るわ、喋るわ。

「全神経を働かせて相手の発言のどんな些細な特徴も聞き逃さず、全力で会話の糸口を見つけ、コミュニケーションが途切れないように」頑張っている。そんな話し方。

今になって思えばそのおばちゃんは、僕との出会いを「これも何かの縁だから」的スタンスで、おばちゃんなりの最大限で楽しんでいたのかもしれない。おばちゃんに罪はない。


でも、そういう会話が苦手な自分がいた。

もちろん、会話が弾むのは楽しい。話すほどに親密さが増すのを感じることはある。

けれどもなんというか、「話を途切れさせないよう頑張ろう!」と気を張っている人との会話は、つまらない。 


僕が「この人とはサシで飲める」と思える人とは、総じて、会話での沈黙がある。長い沈黙がある。これはかならず。

自分にとって心地よい会話をしようとすれば、僕の場合はかならず、そこに沈黙が生じる。

周囲がどれほど騒がしくても、自分と相手、たったふたりだけの沈黙を共有することで、同じ時間/空間を共有していることを感じられる。

「いまあなたと、たいせつなものを共有していますよ。あなたとなら共有してもいいですよ。いやむしろ、あなたとだからこそ共有したいんです」

そうした切なる願いが、暗に込められているのだと思う。沈黙には。

 

「話せば話すほどに相手を知ることができる。阿吽の呼吸なんて古臭い。人間、話し合わなきゃ分からない。とにかく話し続けることは、必要だ」

そうした反論も、一理ある。

人には人の喋り方、心地よいと感じる会話のリズムがあるから、それを否定することはしない。

また、人間が言語を介して思考する生き物である以上、バーバルな(言葉による)コミュニケーションも当然、必要になってくる。

 

そう、語り合うコミュニケーションは重要だ。

だからこそ、沈黙を大事にしなければならない。


言葉は、薄っぺらいものだ。

どんな想いも、精緻に表現すべく言葉にしようとすれば、居場所を失くしたようにあてもなく漂う。言葉につきまとう「想いを表現するための一時的な借り物」のニュアンスは消えない。

明示された言葉のみを介する想いの交じらいは、どこかで断絶の危機を迎える。そういうことになっている。と、僕は思う。

 

言葉を支えるのは、他でもない。沈黙だ。

沈黙を許しあうふたりの間に流れる穏やかな空気は、近すぎもせず遠すぎもしない絶妙な距離感を生み出す。その中で紡ぎだされる言葉は、そのひとつひとつが研ぎ澄まされて、たがいの心の琴線に響く。

 

息つく暇もなく喋りつづける。相手を探ることだけを目的として会話をする。「コミュ障」と揶揄されるのを怖れるあまり、トーク術の教科書で学んだテクニックを一から実行する。

それもいいだろう。

でもいつか、それに疲れたら、一息ついてみればいい。

煩さを生み出す口よりも、沈黙を掬い上げる耳に生きよう。

きっと、今まで聴こえていなかった声が聴こえてくる。

 

その声を聴いて、感じたことを、ゆっくりと語り始めればいい。伝えたい想いが生まれたときに、語り合えばいい。

 


沈黙を語る。

「声なきところに、はじめてある声」を聴くためにね。



頂戴したサポートは、私からのサポートを通じてまた別のだれかへと巡っていきます。