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【障害当事者の本音】 #私は優生思想を許しません と言える側に立ちたかった 


今年7月下旬、Twitterにて

#私は優生思想を許しません

のハッシュタグをつけたメッセージが多数投稿され、トレンド入りしていた。


2016年7月、神奈川県相模原市の知的障害者施設「やまゆり園」にて、元施設職員の植松被告が入所者19名を刺殺する事件が発生。
植松被告は犯行動機について「社会のために劣った存在を排除するべき」という優生思想的な発言を繰り返していた。


有志のメンバーにより、毎年7月にこの事件の犠牲者を追悼するアクションが行われている。


#私は優生思想を許しません というメッセージが多数発信されているのを私は複雑な気持ちで眺めていた。
障害者が無残に殺傷された事件はとても痛ましく、決して許されることではないが、私は優生思想を否定することができなかったからだ。

もしも私がまだ何も考えていない10代だったら、このハッシュタグに乗った発信をして「私は正しい側に立っているのだ」と自己満足していたかもしれない。
けれど社会の闇を経験してしまった今の自分は、優生思想を軽々しく否定することはもうできない。



 * * * * *



優生思想とは、身体的・精神的に優れた能力を有する者を保護し、逆にこれらの能力に劣っている者を排除して、優秀な人類を後世に残そうという思想である。人種差別や障害者差別を正当化するときによく使われる。


優生思想は
・積極的優生思想
・消極的優生思想
の2つに分けられる。

積極的優生思想とは

人間による動物や植物の品種改良により優秀な遺伝子を残すことを目指すものである。

例を挙げると…
・より速い競走馬を生み出す
・より肉質の良い牛を生み出す
・より美味しい農産物を生み出す

これを人間に当てはめると、知的水準が高い者同士、身体能力が高い者同士の婚姻と出産が奨励されることになる。

消極的優生思想とは

劣っていると見なした個体の排除を目指すものである。

過去の代表的な例を挙げると…

アメリカでは19世紀に精神障害者の結婚の制限がされるようになり、20世紀には精神障害者の強制不妊手術が行われるようになった。

ドイツでは、1939〜1945年、ナチス政権が障害者を虐殺する政策(T4作戦)が実施され、ナチスドイツの敗戦までにおよそ10万人が犠牲となった。
またユダヤ人を劣った民族と見なし、強制連行、収容所での過酷な労働、人体実験等により大量虐殺した。

日本では1948年、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止することを目的して優生保護法が施行され、これを根拠に障害者の強制不妊手術、人工妊娠中絶手術を行うことが可能となった。
この法律は1996年まで続き、その期間に1万6500人の障害者が不妊手術を受けさせられたとされている。

そして近年起こったのが、前述した相模原の障害者殺傷事件である。



私は、強者が弱者を淘汰するという視点ではなく、弱者が救済を求めるという視点において、消極的優生思想に一部重なる考えを持っている。



私は発達障害の父親と、精神的に不安定な母親から生まれた。
父の気質も母の気質も遺伝してまった。

両親の遺伝によって私は、障害を背負った人生を強制スタートさせられた。
さらに、発達障害や精神不安といった子育てに向かない気質を持った二人に育てられたことによって「育ちの傷」も抱えている。

私は両親に旧優生保護法が適用されてほしかったと思う。
そうすれば私は産まれずに済んだのに。

人は誰しも健康を望む。
障害者に産まれたかった人なんていない。



社会では表向きには「すべての人間に平等に価値がある」と言われている。
しかし現実は、すべての人間が平等な価値を持った存在として扱われているとは言えない。

人は誰しも内なる優生思想を持っている。
自分は健康でありたいと願うし、パートナーは健康な人を選びたい。

「障害児が産まれやすいから」と近親相姦がタブー視されているのも、「LGBTは生産性がないから」と同性婚に反対する声があるのも、内なる優生思想があるからだろう。

私だってそうだ。
自分自身も障害者でありながら、頭では「誰もが共生する社会」を目指すべきだと分かっていながら、心では「障害者を忌み嫌う感情」を無くすことができない。

知的障害の男性にいきなり抱きつかれ、胸を触られ不快な思いをしたことがある。
発達障害の男性に好意を寄せられ、距離感のおかしなアプローチをされて怖い思いをしたことがある。

こうした経験から、一部の障害者を怖い、近寄りたくないと感じる気持ちがある。

しかし私が忌み嫌う障害者だって、当人らは悪くない。
そういう障害特性なのだから仕方ない。
むしろ障害を持って産まれさせられた彼らは被害者と言える。



私は、自身が障害を遺伝させられた側として、また障害を遺伝させられた人を忌み嫌う側として、避けられる不幸は避けようという消極的優生思想に賛同する。

既に生きている人を殺傷するのは論外であり、植松被告のしたことは決して許されることではないが、障害者が障害者を生まないようにする、不幸な遺伝を防ぐことは倫理的に正しいと考える。


私は、私のように苦しむ人を増やしたくない。


#私は優生思想を許しません のハッシュタグ運動自体は否定しない。
こういう意見を発信する人々がいてもいいと思うし、アクションを起こすことは大切だと思う。
綺麗事であったとしても、清く正しい社会を諦めない、まっすぐさを持った人々の存在は社会に必要だと頭では分かっている。

けれど私は、このハッシュタグ運動に賛同している人々を「キレイな環境でお育ちになったのだろうな」と冷めた気持ち半分、羨ましい気持ち半分で眺めてしまう。

できるなら私も #私は優生思想を許しません と言える側に立ちたかった。
「私は正しい側にいるのだ」と自己満足したかった。

私は好き好んで優生思想を肯定するようになったんじゃない。
自分の内なる優生思想と向き合うことは苦しい。
正義感を振りかざせる側に立てていたら、どんなに楽だっただろう。


優生思想は誰もが奥底に持っていて、環境や立場によって表出する可能性を持っている。
大事なのは優生思想に蓋をするのではなく、一人一人が自覚したときにどう向き合っていくかだと思う。
自分の優生思想に向き合うのは苦しい作業になるが、それが第二の植松被告を生まない社会の土壌に繋がっていくと私は考える。