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映画『PERFECT DAYS』から感じとった「完璧な日常」へのいきかた

ルーチンの語感と実感

「ルーチンワーク」という言葉を使う時、どちらかと言えば、難易度の低い、誰にでも、あるいは人間でなく機械にでもできる付加価値の低いワークを指して使っていないだろうか。「クリエイティブワーク」とか、高収入の仕事と対置して使っていないだろうか。

 しかし、同じ動作を繰り返し続けること、本来、それは人間にとって楽ではなく、辛い苦行のはずだ。持続しきれずに飽きて放棄してしまう性向は、誰もが持っている人間の性だと思う。そこから体よく逃れるために、次々に新しい課題を設け、予定を書き込んで、常に違う動作や思考に切り替える口実を毎日のようにこしらえ続けて満足している自分を感じてしまう。

ヴィム・ヴェンダース監督が映すルーチン

Time Out Webサイトから引用

 そんな自分であるが、ヴィム・ヴェンダースが監督を担う映画『PERFECT DAYS』は、なんとしても観に行きたい一本だった。初期のロードムービーの不思議に心地よい没入感、『ベルリン・天使の詩』のようなファンタジー、また、ファッションデザイナー山本耀司氏のドキュメンタリーとして未来予兆的な『都市とモードのビデオノート』、20世紀後半の自分に大きな影響を与えてきたことは間違いない。
 彼は、ドイツ人でありながら、なぜか日本的感性というか霊性に近しい作品も多い。小津安二郎監督を敬愛していた彼は、その味わいを最も受け継いだメトロポリタン映画監督ではなかろうか。『東京物語』から70年を経た東京物語こそ『PERFECT DAYS』かもしれない。
 おっと、これから観に行こうとしている方には、ネタバレになってしまうので、ここらで止めて、映画を観てから再び戻ってきて読んでいただければありがたい。

『PERFECT DAYS』というエンドレスな絵巻

 この映画は、ハリウッド映画のようなドラマチックな展開とは無縁だ。ただただ、早朝、道路を掃き掃除する箒の音で目を覚まし、歯を磨き、髭を剃り、室内の苗木たちに水やりし、今日一日分のコインをポケットに入れ、自販機から落ちてくる缶コーヒーを取り出し、カーステレオにカセットテープを挿入し、首都高を運転して仕事場のトイレに出かける。都内の数カ所を巡って昨日の掃除後のとおりに清掃し、その合間にコンビニのサンドイッチを頬張り、帰宅して銭湯で一番風呂に浸かり、浅草駅改札脇の一杯飲み屋で大将に労われ、家に戻っては、布団に入ってスタンドの下で本を読み、消灯して眠る。ひらすら、これらのシーンが、下町のスカイツリーと山の手のスタイリッシュなトイレの間の往還として繰り返される。まさに、ルーチンの業が延々と続く。セリフもほとんど無い。一般論で言えば、極めて退屈な映画かもしれない。それなのに、退屈どころか役所広司演じる主人公の平山が神々しく見えてくる。

東京トイレプロジェクト https://mag.tecture.jp/culture/20220515-60877/

繰り返しとしての修行

 セリフがほとんど無いためか、時々発せられる言葉が、妙に心に刺さる。プチ家出をした姪の子と二人で自転車で橋を渡りながら「今度は今度、今は今」というフレーズを愉しげに繰り返していた。そうだ、今度は今度なのだ。今が大事なのだ。このシーンで私は確信した。「これって、修行を重ねる行者ではないか!」と。
 毎日のお勤めを重ねているのは、同じ時空に留まってクルクル回っているに留まらず、とても緩い傾斜の螺旋階段を登っているのだと。毎日の景色は変わらないように見えても、その時間が積み重なった先で見える景色は、ずっと拡がりある景色になっているんだと。その景色とは、自分の心の中なのではないか。

今を問うこと

 私は、とあるお坊さんとお話しをさせていただいていた時に言われたことを思い出す。「中間さんなあ、太古の昔に遡ることも、遠い未来を見据えること、どちらもそりゃそりゃ尊い素晴らしいことですわぁ。忙しない目の前だけにかき乱されず、遠い山に目付けできるというのは。そやけどなぁ、「いま」を忘れちゃあきまへんでぇ。今を大事にしてこその未来やし、今を大事にしてこその歴史ですわ。いまここを、もっと問うて、味わってもいいのんちゃう?」と。これこそ、映画の中で私に差し込んできた歌のようなお経のようなセリフ「今度は今度、今は今」の繰り返しだったのではないだろうか。

大都市にも繰り返しへの隙間がある

主人公が使っていたカメラは、たぶん私も愛用していたこれ?

私は、この映画を少なくとももう一度観に行くだろう。それでも足りないだろう。繰り返しの映画を、繰り返して観たい。それが行者の姿ではないかというのは身勝手な言い訳だが、繰り返したい。
 大都市に生きるということは、繰り返しのない刺激にあふれた、刺激にまみれた生き方だと決めつけていた。繰り返さなくてもよい日常、それは、もしや煩悩まみれの日常なのかもしれない。けれど、大都市でも繰り返しは為し得る隙間がある。木漏れ日の中にも、木の根元にも。トイレの壁にも。そこここに隙間がある。それを見つけられるかで、いきかたが変わる。完成を目指せる。

こころの時代に向かうために

 これからの未来社会は、これまでよりも「こころ」の時代になることは、たぶん確かだと思う。そのための行(ぎょう)として、ルーチンの積み重ねの価値は大きくなるに違いない。価値が上がるから飛びつくというのではなく、自ずと然りで、繰り返したくなる、そんな世界に向かっているのではないだろうか。そうだ、それがSINIC理論の人類2周期目の始まり「自然社会」なのかもしれない。それがPERFECT へと行を重ねるDAYSなのだな。
 まだまだ書き足りないのだが、このあたりで結び、もう一度、繰り返して観に行ってから考えることにしよう。今度は今度、今は今。

ヒューマンルネッサンス研究所
エグゼクティブ・フェロー 中間真一


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