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自分の道を歩むための超私的なメソッド~眠れぬ夜にそっと捧ぐ~

眠れぬ夜が苦手だ。もらっている眠剤を飲めばまあなんとか眠りにはつけるが、ただでさえ多い服用薬をこれ以上増やす気にもならなくて、寝室に向かう夫を見送り、ひとり、リビングでPCに向かってみる。眠気が訪れるまで、気がつくと考えている問いについて綴ろうと試みている。

どんな問いを常に考えているのかと言えば、わたしの頭は色々ひとより仰々しくて「どう生きていけばいいかわからない」と気がつくと考えてしまうのである。何を大仰なと自分でも思うんだけど、朝なにを着るか思案するとき、昼ご飯のメニューに迷うとき…そういったときでさえわたしは思う。「どう生きてけばいいんだろう」って。そして、自分の仕事や病気や生活のこの先を思うときも、もちろんその言葉が頭に浮かぶ。

ところがその答えらしきものが昨日、天啓のようにぽっと心に浮かんだのだ。
昨日は渋谷まで、知り合い数人が出展されている人形展を見に行った。創作人形の世界というのはいろいろ奥深くて、ハンドメイドというにもまた違うものがあり、わたしはそこにはひたすら無知なんだけど、様々な表現の人形群にかこまれて、改めてひとの持つ表現力の素晴らしさに気持ちよく酔っぱらって、会場をあとにした。

そしてだ。気持ちの良い秋空の下、それらの表現を思い起こしているうちに、こんな言葉が急に頭に浮かんだ。

「ああ、自分の道というのは、他のひとがやっていることと、やっていないこと、双方を知った上で、その狭間にある幾筋の糸を撚って、見つけていくものなんだな」と。

つまり、最初から「これがわたしの進む自分の道!」なんてものは、実在しないのだ。目標としてあれこれ想像することはできるだろうけど、それはあくまで想像にしか過ぎないのだと。

…自分の例で語らせて頂ければ、わたしはたしかに「ハンドメイドライターになる!」って6年前、心に決めて、ブログを始めた。そして今のあらゆる活動はそれが基盤になっているのだけど、6年前思い描いていた自分像とはちょっと違って、ライターやったり、企画業やったり、ギャラリー主になったりというのが現状だ。そしてなぜそうなったのかといえば、この6年間、いろいろな「他のひと」そして「他のひとがやっていること」に触れ続け、影響を受け、そして「では他のひとがやっていなくて、自分ができることはなにか」ということを導き出そうと日々考え続けてきたからと思うのだ。

そんなループから生まれた今だが、わたしには「自分の道」を見つけた、というか、確かに「自分の道」を歩いている感がある。

つまりは、何かに向かって歩いて行く上で、他のひとに触れる経験を積むこと、そしてそのひとたちが何をやって、何を考えているか知ることで、逆説的に「自分の道」が浮かび上がってくる、そういうことなんだな。と。それをしないうちは、どんなに自分が己の道を進んでいる気でいても、机上の空論にすぎないのだと。

だから、他者に、触れること・見ること・知ること・感じること・会うこと…etc.そういった「経験」は自分を見つけるのに不可欠だ。そしてそれは、数字や紙の上のリサーチではなく、実際に自分の足を使って、できるだけ直で体験することが大事。知識ではなく、経験として頭にたたき込む。それがいつか自分の思考の血となり肉となってくれる。

天啓のように降ってきた言葉を解析してみると、つまりは、以上のようなことであった。

「どう生きていけばわからない」日々のわたしの、そんな大仰な問いにとって、はたしてそれは答えになるのだろうか。わからない。でも、ひとつ言えることは、「他者に対する好奇心と、動き続けられるモチベーションと体力を維持しろ、それがあるうちは、なんとか、躓くことがあっても、また新しい視点や経験を得られるだろう」ということだろう。

とりあえずそれが分かり、なんだかわたしは少し安心した。生きていけるような気がする。その安堵からか、眠気も少し襲ってきた。なので、眠れぬ夜に捧ぐメソッドは、このあたりで終わりにしておこう。おやすみなさい。




いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。