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トロピカルな夫

お酒を飲むと性格が変わる人、ハンドルを握ると人格が変化する人がいるけれど、私の夫はハワイに来ると人格が変わるタイプの人間であることが判明した。
日本にいるときには私にだけ懐いている幻の野生動物みたいだった夫が、ハワイでの滞在時間が長くなるにつれてトロピカルな生物へと変化していったのだ。
ハワイ効果、恐るべし。

ハワイに着きたてホヤホヤの私たちは、チェックインしようとホテルに向かった。
「予約していた〇〇です」
夫が英語で名乗ると、フロントの人は「宿泊は二人ですよね、もうお一人は……」的なことを言いながら私の方にチラリと視線を投げかけた。
そうです、私です!と手を挙げようとしたら、夫は「イエス、マイ ワイフ……ッフッ」と「ワイフ」と言ったあとに謎の吐息を漏らした。

……ッフッ!!!

バッと夫を見上げると、彼は頬を染めて小さく笑っていた。照れているのかもしれない。
大丈夫だよ、誰も「妻のことワイフって呼びやがった、こいつ」なんて思っていないよ。
英語なんだから、仕方がないじゃないか。
部屋に向かうエレベーターを待っていると、突然夫はくるりと私に向き直り「ワイフ」とはっきり発音して手を握った。「う、うん」と答えると、彼は満足げに頷いた。

夫の姓で呼ばれる機会があったり、デザートを二人分買って家に帰ったり。
これまで何度か「ほんとに結婚したんだわ、私」としみじみ噛み締める機会があったのだけれど、「ワイフ」の破壊力はそれをはるかに上回るものだった。

……ワイフだってよ。
ワイフだってよ!!!

我こそは、ワイフ!!!

(うるさい)

一人でグッときている私を置いて、夫は興奮に目を輝かせて部屋の写真を撮りまくっていた。キッチンが広い。ベッドもデカい。外国だぁ。

ひとしきり部屋にはしゃいだあとは、とりあえず買い物に出ることにした。
ういういしさを醸し出す夫と外に出ると、通りはカップルで埋め尽くされていた。
特に目立ったのはペアルックでしっかりと手をつないだ、中~高齢の仲睦まじい外国の夫婦。
ふくふくと幸せそうな微笑みを浮かべてゆったりと歩く彼らの姿に、私たちは気圧された。

「私たちも、ペアルック買っちゃう?」
ABCストアの店先に吊るされたいかにもトロピカルなシャツを指すと、夫は「それはいささか抵抗があるな」と妙にかしこまって答えた。
そして彼は、大好きなブランドのトリ・リチャードで独特な柄のシャツを何枚も試着した。
「どれがいいと思う?」と聞く夫に、さりげなく自分が持っているワンピースの柄に似たシャツを勧める。
もともと彼の持っているシャツは水色や紺など青系ばかりだったけれど、そこにワインレッドやグレーなど新たな色が加わった。

ハワイ到着から二日後。
曇天のなか、ウエディングフォトを撮りに行った。
不本意ながら銀座では悪役めいてしまったけれど、ドレスもタキシードも適切なサイズに変えてもらったおかげで、当日の私たちはかなりきちんと人類に見えた。
夫の胸囲もそこそこにゆとりがあり、私の胸の骨も、そこそこに隠された。
私たちは北斗の拳の敵でも、ウルトラマンの敵でもなくなった。

着替えて身繕いを整えた私たちはカメラマンさんとアテンドさんの先導のもと、海へと向かった。
海に着くと、にごった曇天をものともせずカメラマンさんは陽気にはしゃぎはじめた。
屈強な体格の、金髪の明るいお兄さんだった。

「さあお二人とも、見つめ合っておしゃべりしててくださーい!!!」

私たちは見つめ合って、「また見つめ合わされたね」と笑った。
結婚式のときも、私たちは何度も何度も見つめ合わされて、恥ずかしくてにやにやしていた。

ところが。
さすがハワイというか、さすが洋装というか。
「見つめ合う」はその日の撮影の、ほんの入り口だった。

「じゃー旦那さん、新婦さんのほっぺにチューしちゃいましょっか!

ちょっと待て、恥ずかしいわ。
私はカメラマンさんの指示にギョッと顔を引きつらせ、危うくのけぞりそうになった。
そんな私とは対照的に、いつのまにかトロピカル・モードに入っていた夫はノリノリで私の腰を抱き寄せ、頬にキスした。
その反応を見てイケると判断したらしいカメラマンさんは、どんどんラブラブなリクエストを増やしていった。

「旦那さん、後ろから新婦さんをハグして耳に口を寄せてください」
「お二人で頭をこつんと寄り添わせて、にこっとしてくださーい」
「お互いの鼻をくっつけて、すりすりしましょうか」
「そろそろお口同士のチュー、いただいちゃっていいっすか?!」

やばいやばいやばい。
書いているだけでも顔から火が出そうなリクエストの数々。
しかしトロピカルな微笑みを浮かべた夫は、平然と私の肩に両腕を回し、マイルドに頭突きし、鼻をすり寄せ、唇を合わせた。

きゃ、キャラじゃないやんけ……!!!

浜を歩き、流木に座り、ヤシの木に座り、ヤシの木の下に立ち、また浜を歩く。
撮影自体は、一時間ほどで終了した。

ドレスを着たばかりのころは「白無垢より断然軽い!こりゃ撮影は楽勝だわい!」と余裕をぶっこいていたのだけれど。
撮影が終わったときには、結婚式とは別の疲労感でへとへとだった。
予想に反して軽々とカメラマンさんの要求に応える夫にドギマギするあまり脇汗が止まらず、満面の笑みを浮かべる夫が眩しすぎて直視できない。
それでも、どんなときでも、笑顔。
作らねば、笑顔を。にっこり。

そりゃ、ここで盛り上がらずにいつ盛り上がるんだよというタイミングではある。
だって、ハネムーンですよ、ウエディングフォトですよ。
それは重々承知しているものの、ハグですよ、キスですよ。
……我々、平たい顔族なんですよ。

「そういえば、今回写真撮ろうって言い出したのはどちらだったんです?」
ブライダルサロンに帰る車のなかで、カメラマンさんが聞いた。

「私です。大好きなハワイで、絶対に妻と写真を撮りたかったんです」
夫が即答した。
あまり社交的ではない彼が、めちゃくちゃに朗らかに。
普段だったら「まあ……」なんて適当にお茶を濁しそうなのに。

ずいぶんと、トロピカルにおなりですこと。

帰り道、歩き出した夫が当然のように指を絡めてきた。トロピカル・モード全開である。
とても「ワイフ……ッフッ」と同一人物とは思えない。
このノリでABCストアに入ったら、絶対に日本では着なさそうなド派手なペアルックを買ってしまいそうだ。
つないだ手をぷらぷら揺らしながら機嫌よく鼻歌を歌う夫は、もはやどこからどう見てもトロピカルな生き物だった。

それから数日後、ウエディングフォトの写真が届いた。
最初の何枚かは、いかにも「超絶ハッピーな私たち♡」という感じの、ゼクシィに載っていてもおかしくない雰囲気の写真だった。

流木に座っています

「撮ってよかったね。これは現像しよう」
「カメラマンさん、さすがだね」
私たちは口々に喜びながら、一枚ずつ写真を眺めた。
雲行きが怪しくなってきたのは、夫が私をハグしている写真あたりからだった。

「なんか、俺があなたに後ろからハグしてる写真、あなたちょっと嫌そうだね」

まあまあ、嫌そうだった。
大輪の笑顔で抱きしめる夫の腕のなかで、私はちょっとけむたそうに曖昧な笑顔を浮かべていた。

「俺があなたのほっぺにキスしてる写真も、あなたちょっと嫌そうだね」

たしかに、嫌そうだった。
カメラ目線の私の頬に夫が口づけている写真なのだけれど、私が若干困り眉なせいで「超どうでもいいことをわざわざ耳元に吹きこまれて逃げ場を探している人」みたいな写真に仕上がっていた。

「普段は目を閉じてて気づかなかったけど、嫌だったんやね……。ごめんな」
「いや、嫌じゃないよ!人前でキスするのが恥ずかしかっただけだって!」
「そりゃそうだけど、この顔……」

カメラマンさんがあれだけノリノリで撮ってくれたせっかくのラブラブ写真が、どうしてこんなことに。
到着からぐんぐんトロピカルに染まっていく夫と、「ワイフ」に浮かれながらも人前でノリきれない私。

「私たち、ちゃんと人類みたい!少しも悪役じゃないわ」

ドレスを着せてもらって骨の隠れ具合に安堵していたころの私に、「真の敵は己の羞恥心よ」とそっと囁いてあげたい。

いつの間にか謎の葉を首から下げる夫

(続くかもしれない)

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