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旅するお金に座布団を

友だちの家でお菓子代を清算しようと広げたティッシュの上にお金を出したら、「座布団敷いてあげてるみたい」と笑われたことがある。

誰がどんな手で触っているのかわからない。
私の手元にくるまでに、何人経ているのかもわからない。
成金じいさんが唾のついた指で数えたかもしれない。
ひょっとしたら、犬の糞の上をかすったことだってあるかもしれない。

私たちは幼いころから、母からお金の見た目以上の汚さと経歴の不明さを説かれて育った。
母はお金を卓上に置くときには必ず清潔な紙を敷き、お金を触ったあとは石鹸で手を洗うように強く命じた。

うっかりお小遣いやお釣りをそのまま置こうものなら、親の仇でも討つかのように母はウエットティッシュでごしごしとちゃぶ台をこすり、少し足のおぼつかないちゃぶ台がカタカタと私たちを責め立てた。

「どこを旅してきたのかわからないんだから、何か敷いて」

そうつっけんどんにお金を手渡され、私たちは慌ててティッシュを敷いてその上にそろそろとお金をおろしたものだった。

私は内心、そんな母がうとましかった。
大切なお金に唾をつけたり、うっかり糞に落としたりする人が、そんなにたくさんいるとは思えなかったからだ。

ファミレスで友だちと割り勘するとき、私だけ紙ナプキンの上に小銭を並べているのも恥ずかしかった。
無造作に現金をテーブルに置く友だちがひどく大人に見えて、それでも染みついた習慣には逆らえず、私はいつもこそこそと紙ナプキンを広げていた。

ところがある休日の朝、私は見てしまった。
でっかい馬糞に、百円玉が突き刺さっているのを。
その日は祭りの次の日だったから、はしゃいだ誰かが落としたのかもしれない。
そして馬糞におそれをなして、拾うのを諦めて帰っていったのかもしれない。

母の言ったとおりだった。
お金は、汚い。

問題は、その百円をどうするかだった。
月の小遣いが数百円だった当時、百円は喉から手が出るほどほしい金額だった。
百円あれば、うまい棒を10本、あるいはよっちゃんイカを2袋、はたまたガブリチュウを3本買えるのだ。
馬糞ごときで見逃すには惜しい。
犬の糞だったらさすがに手を出す気にはならないが、馬糞ならギリ、いける。

木の棒で弾いて取ろうとしたが思った以上に馬糞は柔らかく、百円はますます糞深くに埋まってしまった。
覚悟を決めて大きな葉をむしり、百円にかぶせてつまみ上げる。
馬糞にまみれた百円を慎重に葉でくるんで、私は早足で歩きだした。

家で洗えば石鹸が使えるが、馬糞の臭いを母に嗅ぎつけられたら厄介だ。
公園の水道で、百円を洗った。
うっかり排水溝に落としてしまわないよう素手でつまんで、意を決してしっかりと洗う。
百円の細かな溝にも馬糞がこびりついているような気がしたので、爪を立ててがしがし洗って念入りに水で流した。

そうして馬糞まみれだった百円は、何の変哲もない百円に生まれ変わった。
そっと鼻を近づけると馬糞が香っているような気もするが、それは私の指から発せられているのかもしれない。
ともあれ私以外の人間から見れば、ただの百円にしかみえないはずだった。

一刻も早く、手放したい。
けれども、馴染みの駄菓子屋には行けなかった。
何も知らないお店のおばあちゃんの手のひらに、この百円を乗せたくなかったからだ。
しかもこのおばあちゃんは、ときどきお金を扱った手でそのままみかんを剥いていた。
そして機嫌がいいときは、みかんを何房かもぎって私たちにくれた。

でも、自分の財布に入れるのはどうしても嫌だった。
悩んだ末に近くの自販機にその百円を入れて、チェリオの炭酸ジュースを買った。

こうして私は、母が忌み嫌う汚金の流通者の一員になった。

この百円はいつか飲みものを買った誰かにお釣りとして迎えられ、会計時に支払われ、また誰かへのお釣りとして手渡され、そしてまた誰かのもとへと移っていくのだろう。
人から人へと旅するなかで、いつか、私のもとに戻ってくる日が来ないとも限らない。
せめて発行年だけでも覚えておけばよかったと後悔したが、もう遅い。
ほんのりと馬糞臭い私の手には、もうメロンソーダのペットボトルしか残っていなかった。
家に帰って、ハンドソープを何度もプッシュして手を洗った。

以来私は、現金を卓上に出すときにはきっちりとティッシュを敷くようになった。

馬糞の香りのする百円が、知らぬ間に自分の手元に帰っているかもしれないと恐怖したからである。
馬糞から生還した百円のような汚金は、案外身近にあるのだろうと気づいたからでもある。
けれどその一方で、なんらかの憂き目を経て自分のもとにやってきたお金に対する、旅人へのもてなしのような感情も、実はある。

山あり谷ありの人生(金生)をくぐり抜けてきたお金に、座布団を。
見るからに苦労してきたお金も、一見すると身ぎれいなお金も、見るからに生まれたてのピカピカのお金も。
どこを旅してきたのか、どんな人と、何人と会ったのか、どんなハプニングに見舞われてきたのか、わからない。
例のウイルスが流行り出してから、お金の清潔さはより一層見えにくくなった。

そんなお金には広々としたティッシュの上で十分にくつろいで、次の旅に備えてもらおう。
送り出したら、手を洗おう。

あの馬糞に刺さっていた百円は、今どのあたりにいるのだろうか。

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