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穏やかな殺人(後編)

 泣き止んではまた嗚咽し始める、ということを幾度も繰り返しているうちに、頭がぼんやりしてわけがわからなくなってきた。
 三回目に涙を拭った時、彼がどこからともなく持って来た白い包み紙を私に手渡した。
「知り合いの漢方医に処方してもらった精神安定剤なんだ。気持ちが落ち着くから、よかったら飲んで」
 手の上にのせられた薬と彼の顔を交互に見つめる。
「そんなにキツイものではないから大丈夫。数種類の植物をすりつぶして粉末状にしただけだから。楽になれるよ」

 楽になれる、という言葉に縋りつく気持ちで包みを解いた。開いた紙の上に、白い粉がひと匙分ほど乗っている。頭を後ろに傾けて、粉末を舌の上に落とす。口の中に青臭い苦みが広がる。さっき彼が注ぎ直してくれたグラスの水で、喉の奥に流し込んだ。
 気休めかもしれないけれど、これで数分後、あるいは数十分後にはとりあえず今の胸の痛みから開放されるのだと思ったら、少し心が楽になった。
「しばらく横になって休んでいるといいよ」
 と、彼は元の位置に座り直した。

 私は手の甲で目を淵を拭って、壁の時計に視線を向けた。いつのまにか午後十時を回っていた。
「午後から友だちと会う約束があるのでそろそろ帰ります。わたしのバッグはどこかしら」
「やめた方がいい」
 その声は、コンクリートの壁に反響して、やけに冷たく響いた。
「どういう意味ですか?」
 さっきまで平気だったのに、急に寒気を覚えて、わたしは両手で腕を抱きしめた。

「ソクラテスの処刑の話を知ってる?」
「たしか、哲学者の」
 なぜいまその話を切り出したのだろう、と怪訝に思いながら問い返す。
「そう。彼は若者たちに哲学を説いて回ったことで罪に問われ、最後は死刑に処されてしまうんだ」
 そこから彼は、ソクラテスが罪人として審議にかけられることになった背景や、死刑判決が下ってからのあれやこれやについて滔々と語り始めた。わたしは、この話が終わったら今度こそ本当にバッグを返してもらって帰ろう、と心に誓って、適当に相槌を打ちながら彼の話を聞き流した。
「彼の処刑に使われたのは、毒ニンジンと言って、痙攣や麻痺を引き起こす毒草だったんだ。

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