アートに対する思い ~一人ひとりの自然から不自然が生まれる~
水流苑神社を始めてから職業を聞かれたらアーティストだと答える機会が増えてきたけど、自分がやっていることを既存の言葉で表現する方法がアーティストくらいしかなかったというだけで、正直、アートが何であるかよくわからないまま、「お前がやっているのはアートではない」とか言われたらめんどくさいなあ、と内心ドキドキしながら、この一年間活動を続けてきた。
続けていくうちに、自然とアートについて考える機会が増え、『アートとは何か』に対する自分なりの考えができてきたので、一旦ここにまとめておきたいと思う。
『アート』とひとことで言っても様々な分野がありますが、わたしが担当していきたいのは、日常生活の中で生まれる自分の中の自然、思考でコントロールされない部分で発生したものを、なるべくそのまま表現することです。
子どもの感覚でアートを生み出したい
子どもが、作り方もわからないまま自由に好きなものを作って、そこに独自のストーリーを見出すように、わたしも、わからなさやコントロールのできなさを大切にしながら表現していきたい。
作り方がわからないまま、自分の技術では作れそうにないものに手を出してたり、技術がないからこそのめちゃくちゃさやハプニングなんかを楽しんだりしたい。
アートやモノづくりのハードルをどんどん下げていきたいし、本当はつくることが好きなのに「わたしは不器用だから無理」とか「下手くそだから」と言って表現したい欲を抑えていた人が、どんどん遊び始める世界になればいいと思ってる。
そんな人がもっと世の中にあふれたら、個人個人が面白スポットみたいになって、旅をするのがもっと面白くなると思う。(このあたりは北くんの影響)
技術を磨くという世界があるなら、わたしはあえてそれを身につけないまま自分の世界を深めていきたい。何も知らないからこそ体験できる世界が、何も知らないからこそ表現できるものがあって、わたしはそちらに強い興味を惹かれる。
アートは不自然なもの?
のりなちゃんにこの話をしたら、『アートとは不自然なもの』という言葉が出てきた。
たとえばバナナを手渡して「これでアート作品を作って下さい」と言ったら、某アートティストのようにバナナを壁に貼り付ける人もいれば、お茶碗に盛り付けたり、バッグの中に入れてそれを作品だと言う人も出てくる。
その差は、それぞれ本人にとっては自然なことだけど、他の人から見たら不自然に感じられる。
その不自然さがアートだ、というのが彼女の言う『アートとは不自然なもの』が意味するところ。
不自然さが生まれるためには、それぞれの自然が表現されている必要がある。彼女の話を聞いて、自分の中の自然を表現することは、自分以外の人間にとっての不自然さを表現することでもあるのだなって。
現実世界に対するおふざけ
他に、不自然を作り出すには「あそび」が必要という話も出た。演技の中で不自然さを生み出そうとしたら、自分の思うその役のイメージをそのまま表現しても、その他大勢の思うその人の自然なイメージとの差が生まれにくくて、みんなのイメージからズレた不自然さを作ろうと思ったら、もう、ふざけるしかない。そういう意味であそびが必要なんじゃないかって。
水流苑神社を含めて、わたしがやっていることって、現実世界に対するおふざけなんじゃないかと思う。
現実世界って見ている人が住人いたら十通りの世界だけど、大半の人が共有している設定がいくつもあって、わたしがふざけている対象はそういう『ほとんどの人間が共有している設定』の部分。
たとえば、多くの人が共有している世界から「金を稼ぐためには人から求められる価値を提供しないとダメだよ」って言われてるのに、しれっとした顔で拾ってきた石を売って「見て見て、売れた!」って無邪気に喜んでる感じ。
わたしはアートを通して、そういう「おふざけ」を、わたしの言葉に変換すると「あそび」を、もっともっと暴走気味に表現していきたい。
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