幻想散文詩集

空中金魚

 わたしの弟は部屋で金魚を放し飼いにしている。 
 水もないのにその子たちは実に気持ちよさそうに泳いで見せる。鳥のように羽ばたくでもなく、ホコリのようにただようでもなく、ぽっかりと空気中に浮かび、長い尾ひれを女の髪のようになびかせながら、優雅に移動をくりかえす。

「エサはどうやってやるの」

 と、わたしは畳の上にあぐらをかいて弟に質問した。部屋にはほとんど金魚以外にはなにもなくて、それは弟の部屋というよりも、むしろ金魚の砦といった様子だった。

「見ていて」

 彼はエサの入った袋を棚から取り上げると、茶色い顆粒をてのひらにのせた。

 すると、さっきまでわたしたちには無関心だった金魚たちが、我さきにとものすごい勢いで集まってきた。見る間に弟の手が見えなくなっていく。まるで赤い肉塊の中に吸収されていくようだった。
 わたしはおそろしくなって、そろそろと立ち上がり部屋から逃げ出した。

 台所へ下りていくと、母が我が家で一番大きな鍋でおでんを煮込んでいるところだった。

「ちょうどよかった。もうすぐできるから、ご飯をよそってちょうだい」

 はっとして、食器棚から父と母と自分の分の食器を取り出した。保温状態になっている炊飯器のフタをあけて、しゃもじで順番に茶碗を満たしていく。
 なにか大切なことを忘れているような気がしたけれど、それを思い出すのはとてもこわいことのように思えたので、途中で考えるのをやめてしまった。

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