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弟金魚とサヨナラしたら

【あらすじ】
高校三年生で不登校になって以来、二年間に渡ってひきこもり生活を続けている青葉(あおば)には、四つ歳の離れたイツキという名の弟がいる。
ある日彼女は、巨大な水槽の中に入れられたイツキの夢を見る。
水槽の中の弟は小学生の頃のままの姿なのに、話し方や態度は現実のイツキと変わらない。青葉が状況をつかめずにいる中、彼はグラスに入った赤い液体とストローで金魚を生み出して見せた。
「その液体、なんなの」と問いかける青葉に、イツキは「金魚の素でしょ」と答えて、金魚の起源について語り始める。それに耳を傾けるうちに、青葉の中にふとある疑問が浮かんだ。
「イツキはそこから自分の意思で出られるの?」という質問に、「青葉はどっちがいい?」と問い返された青葉。そのことがきっかけで、彼女は自分の中にある歪んだ思いを自覚し始めることになるのだが……。
(原稿用紙約57枚)

 古新聞の端を両手で持ち、大きく扇ぐように広げたら、くしゃみが立て続けに五回も出た。埃が舞ったせいだろう。ベッドの上で待機している弟のイツキも、むずがゆそうに鼻を鳴らしている。

 そういえば、最後に部屋の掃除をしたのはいつだっけ。掃除機をかけている途中でひざ掛けを吸い込んだ記憶があるから、まだ肌寒い季節だったはずだ。だとしたら、最低でも三か月分の埃を溜め込んでいることになる。空気の入れ換えすらろくにしていないことを考えると、いくらズボラなわたしでもすこし鳥肌が立った。

 毎日とまではいかなくても、たまにカーテンと窓を開けて、陽射しや外の空気を入れた方がいいことはわかっている。その方が気分もいくらかすっきりするはずだ。
 だけど、どうしてかカーテンを引くというたったそれだけの作業に、ものすごく抵抗を覚えてしまう自分がいる。

 わたしの家の前は近所の中学生たちの通学路になっていて、毎日朝と夕方の二回、彼らの弾んだ声が二階のこの部屋まで響いてくる。それを聞くと、二度とあの場所へは戻れないという事実を突きつけられるようで、胸が鈍く痛んだ。

 正式に退学手続きを済ませた日、「これでわたしはこの先もう学校へ行くことはないのだ」と安堵したはずなのに、なぜいまごろになってこんな感情になるのか。たぶん、これは単純な憧れと羨望なのだ。わたしが自分を守るために切り捨てた、儚くてキラキラした時間に対する。
 カーテンや窓を開ければ、それらキラキラした時間が、部屋の中まで入りこんでしまう。そうして、それとは対照的な、わたしのこのやつれた人生を浮き彫りにしてしまう。 
 だから、できる限り外の世界を感じたくなかった。

「前みたいに毛先を整える感じで、五センチほど切ってくれればいいから」
 畳の上に新聞紙を敷き詰め終え、わたしは全身鏡の前に足を崩して座り込んだ。
 わかった、とベッドから下りてきたイツキが背後で膝立ちになる。背丈はこちらの方が二センチほど高いけれど、いまは太腿の分だけ弟の方が勝(まさ)っているので、鏡の中ではふたつの頭が重なり合わずに並んでいた。

 イツキは黙々とわたしの身体にケープ代わりの新聞紙を巻きつけ、ヘアクリップを使って髪をいくつかのブロックに分けて固定していく。
「じゃあ、いくよ」
 準備を終えたイツキが散髪バサミを畳から取り上げた。
「待って、先に髪を濡らさなきゃ」
 慌てて後ろを振り返ると、
「いや、めんどくさいし、このままで大丈夫」
 両手で頭をつかまれて、やや強引に正面に向き直らせられた。
「いいから、じっとしてて」
 イツキは、背中まで伸びたわたしの後ろ髪を一筋手に取ると、指に挟んで、何のためらいもなくハサミを入れた。そこからは、すでに切り終えた毛束に長さを合わせながら切り進めていく。

 しばらく鏡越しにその様子を見守っていた。手元がわたしの身体に隠れているので、細かい動きは見えないけれど、ハサミを捌く手の迷いのなさだけは見て取れる。思い切りがいいせいか、不器用な割に手際がいい。
 ただ、髪を強く引っ張りすぎるのが気になった。
「もうちょっとそっとしてくれない? 痛いし、毛が抜けちゃいそう」
「青葉(あおば)は大げさすぎるんだよ」
 機嫌を損ねないようにと遠慮がちになったのがいけなかったのか、イツキは聞く耳を持たず、力を加減してくれるどころか、さっきよりも乱暴な手つきで新しい毛束を指に取った。
「痛いってば」
「うっさいなあ」

 四つも年が離れているのに、イツキは時々わたしをものすごくぞんざいに扱う。名前だって彼が物心ついたころから呼び捨てで、「お姉ちゃん」と呼んでもらったことなんて一度もなかった。
 昔から生意気だとは思っていたけれど、最近は特に軽視されている感じがしていちいちひっかかる。だけどそれはたぶん、わたし自身の環境の変化によるものなのだろう。

 高校三年生で不登校になったわたしは、そのままひきこもり生活に突入した。母親の口癖が「イツキも青葉を見習いなさい」から「イツキまで青葉みたいにならないでよ」に変わって、この夏でもう二年になる。
 最初のころは近所のスーパーくらいには行けたのだが、ここ一年ほどは、家からは愚か自室からもあまり出られない状態が続いていた。家の中をうろつくのは、トイレとお風呂と歯磨きのときくらいのものだ。
 当然、美容室にも行けないので、髪は半年に一度のペースでこうやってイツキに切ってもらっている。弟には他にもいろんな場面で手を借りていて、それがなければこの生活はたぶん成り立っていない。
 それもあって、イツキに対してはあまり強く物を言えないのだ。
「そういや、勉強は進んでんの?」
 ハサミを軽快に鳴らしながらイツキが訊ねた。

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