「君たちはどう生きるか」: 覚えていないことを思い出すこと

映画「君たちはどう生きるか」の内容に少しだけ言及するのでネタバレ注意。

どうも都合がつかず公開から2ヶ月も経ってしまったが、ようやく「君たちはどう生きるか」を観てきた。ネタバレや余計な考察を目にしないようにビクビクしながらツイッターXを開く日々もついに終わったのだ。


読解を拒否すること

いわゆる「難解」な映画だからだろうか、ネットには多種多様な考察が飛び交っている。細かい描写へのほとんど病的とも言える分析からストーカー的偏執性を彷彿とさせる構造分析まで、数えきれないほどの読解作業がなされている。中には「内部の人間が書いたのでは?」と思うほど練られた考察もあるが、それと同時に「わからなかった」という旨の感想も多く見られる。ぼくたちはなにを読み解こうとしているのだろうか。あるいは、一体なにがわからなかったのだろうか。

多くの考察は「実はこれは◯◯の表象で」とか「このキャラクターは実は宮崎駿自身の投影で」といった類の謎解きを通して、この映画が暗に示している「真の意味」のようなものを追求しているように見える。僕は推理小説が好きな子供だったのでそういった謎解きの魅力についてはよく知っているつもりだが、謎解きができるかできないかという二極化した言説には驚きを隠せない。この映画の複雑さは表象の連鎖とか再現/再生産可能なプロセスのようなもので測るべきではないのではないだろうか。もちろんそういうやり方も可能なのかもしれないが、実はそれは貧しい発想なのではないだろうか。その貧しさとはつまり近代的な病であり、理性が真理を暴くという傲慢な態度によって世界の複雑さに対して鈍感になる貧しさのことだ。

ゆえにここでは少しだけ違う方法で考察–––それは依然として考察なのだが–––をしてみたい。それはむしろ今となってはクラシカルとでも言うべき前提を必要とする。この映画には「読解によって到達されるべき真の意味」のようなものはない、という前提だ。この映画は「たまたま」あのように成立しただけで、監督である宮崎駿でさえもあの映画の全てを、あるいは僕たちの映画体験全てを、説明することはできないだろう、というだけの話だ。あの映画の複雑さは宮崎駿というどうしようもない身体に帰属している。あるいは、あの物語の同一性はあの物語「である」ことにのみ帰属するため、上位概念あるいは下部構造のようなものに戻って作り直すことができない、と言ってもいい。

このような前提を立てることは相対主義的な情報量ゼロ批評を容易に量産してしまうかもしれない。それを避けるために(別に避けなくてもいいのだが)僕は改めて読解的な態度に立ち戻り、それでいて謎解きゲームに陥らないように、この映画体験を考察してみたい。つまり、以下に続くのは読解的な所作による自問自答であり、僕の意識の流れの文字起こしのようなものだ。そしてそれは見慣れた「読解」とは異なる身勝手さを必然的に伴うのだが、批評まがいの謎解きごっこに辟易として書き始めただけなので許してほしい。

「君たち」とは誰なのか

まず最初に、タイトルが指す「君たち」は誰なのか、という問いを立ててみたい(ちなみにあのタイトルが同名の小説から借用されていることは知っているがその小説を読んだことがないしこの考察においては必須ではない–––所詮これは僕の感想に過ぎないからだ–––と思われるので今後もその小説については言及しない)。多くの人が信じて疑わないようにそれは「僕たち」のことだろう。あの映画を観る全ての人と言ってもいい。いや、あのタイトルを宮崎駿が僕たちに投げかけた問いとするなら、宮崎駿以外の全てが「君たち」になるのかもしれない。しかし既に確認したように僕たちはあの映画には読解されるべき隠された真の意味のようなものはないという前提に立っている。それは宮崎駿を創造主的な神にしないことであり、「君たちはどう生きるか」という疑問の主体を自然と宮崎駿にしてしまわないことである。ゆえに僕は「君たちはどう生きるか」という与えられた問いを「一体ぼくはどのように生きるのか」に変換するのではなく、あたかも自分が主体であるかのように問い直してみたいのだ。それが他でもない自分によって問われたとき、「君たち」が指すのは少なくとも自分自身ではないはずだ。ではぼくたちは一体誰の生き方を問うているのか。

わざわざこのような儀礼的な所作に頼らずとも、映画の中で僕たち鑑賞者は問い続けていたはずだ。一体マヒトはこのあとどうするのだろうか、キリコはどのように生きてきたのだろうか、ひみはどうなってしまうのか、と。なんといっても主人公であるマヒトが、あの壮大な冒険を経た後、つまり映画で描かれていない未来に、新しい家族と共に、どんな人生を送るのだろうか、という疑問があったはずだ。彼はどう生きるか。僕はこの問いがこの映画を鑑識的でも探偵的でもなく、流動的だが相対主義的ではない方法で読み解く方法のひとつだと考える。

マヒトだけが覚えている世界

読解を進めるために映画の最後のシーンについて考えてみたい。アオサギが言うには、「下の世界」での経験は全て忘れてしまうはずだが、マヒトは下の世界で手に入れたものを持ち帰ったために記憶を保持している。それもいずれ消えてしまうだろうとアオサギは示唆するが、真偽のほどは定かではない。確かなのは、マヒト以外にも下の世界に行った人間はいるが皆その記憶を失っており、少なくとも映画の終わりの段階ではマヒトはその記憶を保持している、ということだった。つまり、彼はどう生きるのだろうかと問うことは「あの記憶を保持するであろうあの少年はこの後どんな人生を送るのだろうか」という問いとして考えることができるはずだ。

マヒトだけが覚えている世界があったとして、それが現実だったのか夢だったのかは判断できない。アオサギは例外として(なんという例外だ!)、「マヒトだけが覚えている世界」は定義上外部から観察できない。あの物語はマヒトという身体に依存しており、その限りにおいて再現も再生産もできない。理性によって捉える世界というよりは走馬灯的で幻想的な、あるいはもしかしたら分裂的な偶然によって支えられる世界。偶然のネットワークを遡行的にあるいは超越論的に一直線だったことにすることでしか観察され得なかった世界。下の世界での経験に「解かれるべき謎」などない。なぜならそれは不可思議/理不尽/理解不能「である」からだ。ゆえに下の世界でのマヒトの経験を直線的で合理的に、再生産可能なプロセスとして理解しようとすることは実は貧しい発想なのだ。

しかし僕たちは彼の大冒険を目撃した。この事実を評価しなければ僕たちは相対主義から上手に距離をとることに失敗してしまうだろう。ここで、僕たち鑑賞者がマヒトの未来にどんな期待をするのか、という仕組まれた想像力について考えてみたい。

マヒトはどう生きるか、という仕組まれた想像力

多くの人がマヒトは「良い大人」になると考えるのではないだろうか。良い大人とは何か、という定義はまた難しい話だが、少なくともマヒトが20年後にアル中になり嫁子供を殴り弟に借金をして働かずにヘイトスピーチを垂れ流し路上でカツアゲしてはパチンコに全て溶かすような人間になっているとは想像しづらい。依然として抽象的だが、下の世界での経験はマヒトを豊かな人物像へと成長させる様々な契機に満ちていたように思う(そう見えてしまうことがおそらくジブリ映画の最も優れたところであると同時に、ぼくたち鑑賞者が訓練されてきた部分でもあるだろう)。抽象的だが明らかにマヒトの成長を描いた場面としては、自分の中の「悪意」と対峙しそれを受け入れるというシーンが挙げられるだろう。「悪意」が具体的にどのような意味なのかは、それこそ探偵的な態度で一通り合理的な説明ができるのかもしれない。しかしここで重要なのはマヒトが具体的になにを学んだのかという謎解きではなく、このような描写を通してどうやら鑑賞者の多くが彼の将来に対してポジティブな想像をしそうであるということだ。ここでは映像の効果を取り上げて事細かに分析しないが、「マヒトはどう生きるか」という問いに対して多くの鑑賞者がなんとなくいい想像をするのではないか、と僕は考えている。

さて、考えながら書いているのでやや散発的になってしまった。noteとはそもそも僕にとってそういう場所だ。許してほしい。お詫びと言ってはなんだがここまで僕が考えていたことを簡潔に繰り返しておこう。

僕は謎解き的真実の読解を拒否するところから始めて、タイトルを与えられたものではなく、僕たち自身が繰り返すべきものとして考えてみた。そして、あの不可思議で壮大な冒険を経験したマヒトはこの後どう生きるかという問いへシフトした。下の世界での経験はマヒトという個人に依存するものであり、表象的プロセスによって理解できない。理解できないにも関わらず、マヒトの超個人的な経験を目撃した僕たちは、映画的あるいはジブリ的マジックによって彼の未来をポジティブに想像してしまうのではないか、と僕は考えた。この読解が一体なにになるというのか、一体お前はなにを読解したつもりになっているのか、といった当然の疑問に答えるために、僕は最後に、映画とは異なる問いについて考えてみたい。

経験していないことを忘れないために

悲劇を忘れてはいけない、というフレーズを僕たちは幾度となく目にしてきたわけだが、それはそもそも可能なのだろうか。もちろんその重要性を否定したいのではない。僕たちは例えば原爆の悲劇を忘れてはならない。しかし実際には僕たちのほとんどが原爆を経験していない。個人的な経験と脳の記憶について一般的なレベルで考えた場合に、経験していないことを忘れないという命題はそもそも覚えてすらいないのに忘れつつあるという、少なくとも一般的な日本語に限っては語義矛盾に近い不可能性を孕んでいる。しかし、重要なことなので繰り返すが、僕たち人類は悲劇を忘れてはいけない。つまり、個人レベルでは不可能に思われる経験と結びつかない記憶の保持を、僕たちは共同体レベルで可能にしなければならないのだ。この議論を先に進めるには僕の知識は余りにも浅いので、具体的にどのようにすれば経験されていない記憶の共同体レベルの保持が可能になるかという問題については理論的考察とケーススタディを併せて今後の課題にさせてほしい(実際、喫緊の課題はSaidiya Hartmanと福田村事件という映画について書くことだ)。

僕たちが目撃したのはマヒトの超個人的な経験であり、本来僕たちが経験できるものではなかったはずだ。それがたまたま宮崎駿とジブリを通してああいう形で僕たちの前に現れた。いやしかし、アオサギが言うようにマヒト以外の全ての人間が下の世界での記憶を保持できなかったのであれば、僕たちは実は覚えていないだけで経験していたのかもしれない。僕は実は下の世界で、マヒトとは異なる僕の大冒険を繰り広げたことがあるのかもしれない。フィクションを通して僕たちは、もしかしたら自分もそうだったかもしれないという、経験し得なかった記憶を倒錯的に獲得するのかもしれない。

フィクション的な方法でしか思い出せないことがある。それは最初から忘れられていることだ。貴族の家族史はあっても奴隷の家族史はない。サバルタンは語れない。であれば、記録されなかった悲劇を思い出すことは創造的な側面を持たざるを得ない。

マヒトの未来に思いを馳せるとき、僕たちは既に経験し得なかった記憶を遡行的に思い出している。そういう作業によって自分と世界との境界を変形させることで初めて、僕たちは生物的限界を超えて持続する共同体を作っていくことができるのではないだろうか。

映画館を出るとき、周囲の雑談に耳を傾けながらぼくはそんなことを考えていた。

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