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桜桃忌に慌ただしくヴィヨンを知ることについて慌ただしく書く

今日は6月19日。太宰治の誕生日であり「命日」(ご遺体が発見された日)である。そんな日に僕は積読読書会を催すということで、せっかくならと太宰治全集で彼の手記を読んだり、大好きな『ヴィヨンの妻』を読み返したり、習作と晩年の文章を読みくらべている。

僕は太宰治の文章のなかで『ヴィヨンの妻』が好きだ。とても好きだ。そしてその好きな気持ちと裏腹に、僕は太宰治がどのようにして「ヴィヨン」というフランスの中世詩人を知ったのかを知らない。

こうなってくると、なんだか軽々しく「積読読書会(桜桃忌編)」などと言ってられないような気がしてくる。太宰がいかにしてヴィヨンを受容したかも知らない男が、桜桃忌に読書会なんぞ開いてはいけないのだ。

*桜桃忌にいそぎヴィヨンを知る

だから僕は調べることにした。何といっても、僕が働いているのは図書館である。僕はその椎葉村図書館「ぶん文Bun」のクリエィティブ司書である。だから僕は、個人の小宮山剛として「クリエイティブ司書」の小宮山剛にこう問うてみる。

太宰治は何年に、どのようにして詩人ヴィヨンを知ったのか教えろください!

僕はこの文章を積読読書会が始まるまでに書き終えなければならない。従ってあと1.5時間で書き終えなければならない(読書会の開始が21時、文章を書き始めたのが19時15分頃)ので色々とこまごまとした引用のルールなどを省かせていただくけれど、とにかく僕は太宰治の全集とヴィヨンの全集とを駆使して、小宮山剛君の質問に応えるべく調査を開始した。これは、図書館のレファレンスサービスなのである。

作家のことを知るならば、ウィキペディアを調べる・・・のもいいけれど、やはりオーセンティックな全集を読むべきである。なぜならウィキペディアの情報にはないような「裏側」を知ることができるからであって、その裏側とはつまり作家の「手記」である。更には全集で取り上げられている作家をよく知る作家や文化人からの「寄せ書き」みたいなものが集められていることが多く、太宰治全集の場合はやはり井伏鱒二さんなどの桜桃忌の作家をよく知る文人から貴重な文章が寄せられている。手記やこうした知人の寄せ書きといった一次文献を丁寧に読み解くことで、ウェブ上で誰かがまとめて整理した情報をさらさらと辿ることでは決してたどり着けない「思いがけない発見」をすることができる。もちろん今回私がこの文章を書いているのも、そういう類の発見があったからだ。

さて太宰治に関する権威といえば「太宰治賞」を主催しているくらい太宰治に関しては右に出る者がない出版社がある。筑摩書房だ。

さっそく私は太宰治の手記を読むべく、筑摩書房版の『太宰治全集』第11巻を取り出す。11巻には彼の書簡だけが収められているのだ。

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*太宰の手記に見る「ヴィヨン」

全集のいいところは、思いがけない発見をもたらしてくれる豊富な情報量があると同時に、それらが実によく整頓されているということだ。

僕はまず『ヴィヨンの妻』が出版された年を調べる。これはもう動かしようのない事実なので、ウィキペディアでも何でもいい。調べると、同作は1947年の『展望』3月号に初出となっている。単行本化したのは1947年8月5日、出版はもちろん筑摩書房だ。

「オーケー」と僕は頷く。太宰のことだから『ヴィヨンの妻』の執筆にかけたのは1年以内だろうと検討をつけ(こういう「読み」も大事だ)、僕は1947年3月の1年ほど前・・・つまり昭和21年のはじめから太宰治の手記をぺらぺらと調べてみる。かくして、下記のような文章が見つかる。

きのふから「ヴィヨンの妻」といふ百枚見當の小説にとりかかつてゐます。

ビンゴである。この太宰が三鷹から足柄の大雄山荘にいる愛人・太田静子に宛てた、昭和21年の12月に書かれたという手紙の内容を信用するならば、太宰は『ヴィヨンの妻』を3ヵ月もかからずに書いたことになる。思ったよりも早い。すごい。

とにかく、太宰治が『ヴィヨンの妻』を書き始めたのは「昭和21年の12月」ということが推定できる。

いやはや、この太宰⇔静子の手記を色々と読んでいると・・・

(前略)そちらで二、三日あそんで、それから伊豆長岡温泉へ行き、二、三週間滞在して、あなたの日記からヒントを得た長篇を書きはじめるつもりでをります。
 最も美(かな)しい記念の小説を書くつもりです。

・・・なんて書いてあってですね。震えますよね。こうして『斜陽』が完成されたのかと思うと、もはや蜷川実花さんの映画を観るよりもこの手記の一文を読むほうがぶるっと来るものがあるね。

ほか、太宰は伊馬春部に宛てた手記のなかで『ヴィヨンの妻』のことを「本氣に『小説』を書かうとして書いたものです」と述べていたりするのが発見されて、「そりゃ名作ですもの」となぜか太宰と会話しているような気になりながら全集を撫でている私・・・。

うーむ、たのちい。

*日本におけるヴィヨン

さて、ヴィヨンというと誰なのかというとこから始めよう。

「フランソア・ヴィヨン」はフランスの中世時代の詩人で、1431年に生まれたと推定されている。つまり、ジャンヌ・ダルクが処刑された年に生まれたということになる。

貧困の最中に生まれた詩人の生涯はどうやら罪と罰に事欠かないようで、傷害致死事件や窃盗団への加入、狼藉と流浪、死刑宣告・・・とやりたい放題やった揚げ句、最後は死刑宣告に不服を申し立てて結局のところパリからの追放処分を受け「その後ヴィヨンの行く先を知る者はない」ということになったようだ。

以上の「ヴィヨン像」は、河出書房新社版『フランソア・ヴィヨン全詩集』に訳者の佐藤輝夫氏が記したあとがきを私が粗くサマリーしたものだ。ヴィヨンの人生からにじみ出てくるのは太宰治の『ヴィヨンの妻』の主人公である大谷の素行であり、彼が盗みを働いたり、懐からジャック・ナイフを取り出したりする様子が思い出される。まさに大谷はヴィヨンなのだ。

さて、こうした「全詩集」もやはり作家を知るには最高のシロモノで、そこには「思いがけない発見」が転がっている。

まず僕は、ヴィヨンがこれまで日本でどのようにして読まれてきたかを調べる。もちろんそれはちゃんと書いてあって、ヴィヨンの詩集として出されたのは・・・

①弘文堂書房版『ヴィヨン大遺言集』(昭和14年11月28日付)
②新興出版青朗社版『ヴィヨン詩』(昭和22年春)

・・・ということである。そしてこの後者の新興出版青朗社版はヴィヨン全集の体を為しており、終戦直後の気風を受けてかなり読まれたらしい。その点について、ご丁寧なことに佐藤輝夫氏は解説してこう書いてくれている・・・

終戦直後の世相を受けて、この本は可なり読まれたらしく、織田作之助や、太宰治らの文章の中に出てくるヴィヨンは、大凡この新詩集の中に見られるヴィヨンである

ビンゴである。大当たりである。もう「太宰治がヴィヨンを読んだのは昭和22年春に出版された新興出版青朗社版『ヴィヨン詩』ですよ」と書いてあるのだから正解である。

レファレンス終了である。

*複数の一次文献にあたることの大切さ、おもしろさ

レファレンスを終えたクリエイティブ司書の小宮山剛は、質問者の小宮山剛にこう答える。

質問はこうであった。

太宰治は何年に、どのようにして詩人ヴィヨンを知ったのか教えろください!

そして回答はこうである。

太宰治がヴィヨンを読んだのは昭和22年春に出版された新興出版青朗社版『ヴィヨン詩』ですよ。

・・・見事・・・クリエイティブ司書最強・・・エライ!!!・・・イケメン・・・・!!!!!

そう思ったのもつかの間、質問者の小宮山剛は疑問を飛ばす。

えっ、でも太宰治が太田静子に宛てた昭和21年12月の手記で「きのふから「ヴィヨンの妻」といふ百枚見當の小説にとりかかつてゐます」と書いているので、新興出版青朗社版『ヴィヨン詩』が昭和22年春に出版されたということの事実がかみ合わないんじゃないですか。つまり、この筋書きだと太宰治は『ヴィヨン詩』が出版される前にヴィヨンを読み、『ヴィヨンの妻』の執筆を開始していることになりますよね?

嫌な男である。スパゲッティーを茹でてお湯を捨てたあとなお鍋の底にこびりついて剥がれることのない1本の麺くらいには嫌な男である。

しかしこの見解はとても妥当で、もし僕が佐藤輝夫氏の解説だけを読んだのでは生まれない「正しさ」がここに生まれようとしている。僕は『フランソア・ヴィヨン全詩集』と『太宰治全集』という二種類の一次文献を横断することではじめて、自分の頭を使って、違和を感じることができたのだ。

「事実」として、太宰治は新興出版青朗社版『ヴィヨン詩』を読んで『ヴィヨンの妻』を書きはじめたのかもしれない。しかしそれは、佐藤輝夫氏の解説にある「昭和22年春に出版」というのが「正しい」のだとすれば、正規に出版されたものを読んだのではないという事になろう。

もしかすると編集者の人が「そろそろ新しい原稿くださいよ。あっ、こんど新興出版青朗社っていうところが出す詩集があるんですけれど、なかなか面白いですよ。ヴィヨンという悪漢詩人でしてね・・・ゲラをちょいと伝手で手に入れているんですが、お読みになりますか・・・?」みたいなやりとりがあったのかもしれない。

誠に申し訳ないのだけど、上記の編集者云々については勝手な推測にすぎない。もしかすると『ヴィヨン詩』が出版されたのが昭和22年春ということ自体が間違っているのかもしれない。あるいは、太宰治が太田静子に宛てた手紙の日付が間違っているとか、「とりかかつてゐます」と言いながら実はとりかかっていなかったとか、いろんな「事実」と「虚飾」の入交があるのかもしれない。

いずれにせよ、僕は「太宰が生きて、ヴィヨンを読んだ」という過去が存在したことに慄くのだ。おそらくは三鷹の地で、太宰がヴィヨンという詩人を知った。その悪漢ぶりに熱烈な興味をおぼえ、彼をとりあげながら「本氣に『小説』を書かうと」するのである。浮かびあがるイマジュアリとしての盗難、一軒の飲み屋、知恵遅れの子ども、ジャック・ナイフ、人非人・・・。そのどれもが一人の作家の脳裏にいきいきとして飛び出す瞬間が、かつてこの世の中に存在していたのだ。

・・・こうした曖昧模糊というか、更なる調査を必要とする余地を残しながら、クリエイティブ司書・小宮山剛から質問者・小宮山剛へのレファレンスは終了される。何といってもこの文章を書くのに1時間を費やしてしまっていて、僕はもうすぐ「積読読書会」を仕切りはじめなければならない。

ちなみに、この文章の中に出てくる「ヴィヨン」の数はちょうど50個だそうです。

50のヴィヨンとともにさようなら。他日、また会おう。

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