「コミュニケーション能力」の正体

就職活動のときに、耳にタコができるほど言われました。求める人材の最重要要素としての「コミュニケーション能力」。これが劣っていると、まるで人として劣っているかのように扱われることがあります。このコミュニケーション能力とは一体なにものなのか。
珈琲とは何も関係のないつまらない記事です。あまり誰にでも読んで頂きたいものでもないので意図的に読み辛く書きます。
同じような人にだけ、届くといいと思っています。

変われず

たぶん自分はコミュニケーション能力が低く、人見知りなんだと思います。二度ほど有料のコミュニケーション能力養成講座のようなものにも行ったことがあるほどです。まだ会社に勤めていた頃のことです。そうです、まだ会社勤めの頃は改善しようと努力していたのです。 改善されませんでしたが。そもそも大学の頃に海外を旅したのも、これが根本にある劣等感を克服するためでもありました。克服できませんでしたが。コミュニケーション能力について、少し分解して考えてみました。自分の胸の内では何が起きているのか。おそらく「 自分が(相手も)楽しめていない × 自己嫌悪 = 人付き合い苦手 」という図式です。この積み重ねだと思います。自分も相手も楽しめていない実感と恐怖と、そうなってしまう自分への嫌悪とつまらない嫌な気分にさせてしまう相手への申し訳なさと。このネガティブな積み重ねを中学の頃から会社を辞めるまで続けながら、ずっと悶々と悩み苦しんでいました。これだけが要因ではないでしょうが、とにかく自分が嫌いでした。昔、世界一周することを決めた時から会社を辞めるタイミングまで非公開のブログを日記として残していて、久しぶりに少し読み返したらとにかく「変わりたい」とか「自分が嫌い」みたいなことを書いていて、そういう感じだったなあ、と懐かしくなりました。上にも書いたようにいろいろ試みましたが、私は変われませんでした。

変わったこと

コミュニケーション能力を向上させる大きな目的は、「認めてもらうこと」「評価してもらうこと」「楽しむこと(楽しませること)」だと思っています。つまり「存在の肯定」です。ではこの目的はコミュニケーション能力がなければ達成されないものでしょうか。おそらくそんなことはありません。少々乱暴な言い方になりますが、「(存在意義があると)認めさせること」はできるはずです。「認めざるを得ない」「評価せざるを得ない」でもあるかもしれません。「認めさせる」ためには、成果や結果を見せつけること。例えば仕事は妥協なく自分にできることに全力投球をする。早さ、正確さ、丁寧さ、自分の努力や意識次第で追求できるところはとことん追求する。そして「こいつは役に立っている」と感じさせる。面倒で大変疲れるかもしれませんが、コミュニケーション下手の代わりになるのであれば、できることをやるしかありません。例えば「美味しい」と感じてもらうこと。社会現象にもなったTVドラマの「逃げ恥」の中に「可愛いの前では全面降伏」というセリフがありましたが、同じく「美味しいの前では全面降伏」だと思うのです。美味しいはコントロールできない「感覚」ですから。美味しければそれだけで自身を評価してもらったも同然です。愛想も明るさも何もない私が珈琲を美味しく作れなければ社会的な価値はほぼありません。だから「美味しい」を妥協することは自分を殺すことになるのです。味覚は人それぞれですから、それでも不味いと思われることはいくらでもあるでしょうが、少なくとも自分では美味しいと感じていなければならないのです。話が少し逸れましたが、つまり「存在意義があると認めさせられる、と自分で思える何か」を身につけることで、自分の価値の部分でコミュニケーション能力のマイナスを補うのです。普通の人が自身の社会的価値の、仮に5割をコミュニケーション能力が占めているとすれば、自分はそれをゼロだと思ってその5割分を埋められる何かを努力で身につけなければなりません。それでようやく社会的価値として対等に並び立てるのです。また、「自分で思える」というのが大事だと思います。それが「コミュニケーション能力がなくても大丈夫」という「自信」に繋がるからです。この自信が生まれると、ずっと手の届かない遠くにあった「コミュニケーション能力」というものが、いつの間にかすぐ傍らに、あるいは自分の内側にひょっこりと現れたりします。きっと灯台下暗しというやつで、そもそも自分らしいものを誰しもが持っているのかもしれません。

正体

自分らしいコミュニケーション、人付き合いの仕方というのは、人付き合い自体に積極的にならないとか、場の雰囲気とか楽しませるとかいうことに無頓着とか。だから私と接することで気分を害する人もたくさんいるでしょうし、友人知人というのも数えるほどしかいません。それでいい、という図太さを、今は持っています。でも誤解なきよう書いておくと、人と接すること自体を蔑ろにするのでもなければ、「自分が全て」などという考えも毛頭ありません。言葉にするのが難しく歯痒いのですが、程度に関わらず大切にしたい、ちゃんと向き合っていたいと能動的に思える人をしっかり大切にできる人間でありたいとは思っています。とにかく繋がろう、みんな友達、みたいなスタンスやノリは嫌い、というか苦手です。クルミドコーヒーの店主の影山さんの著書「ゆっくりいそげ」の中に「人を手段化してしまう人脈という言葉が嫌い」とありました。私もそう思います。そして、コミュニケーション能力の正体に話は戻りますが、ありがたいことに、珈琲の道に進んでからこんな自分とちゃんと向き合ってくれる、認めてくれる人がいます。数でいえばほんの少しかもしれませんが、私は満たされています。これが「自分らしいコミュニケーション能力」なのかもしれない、と思いました。人それぞれに、答えは違うはずです。私は諦めましたが、いろんな人と楽しくコミュニケーションを取りたい、ととことんそこを矯正する人もいて、きっと可能なのだと思います。でも私はこういう生き方で、今は良しとしています。大変ですけどね。ひとつの形です。

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