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『プラダを着た悪魔』 虚栄のヴォーグ市

 変な映画だ。2000年代最大のファッション映画であることは間違いない。世界中のファッションアディクトたちのバイブルでもあるだろう。それなのに、この映画はファッションの虚栄をグロテスクにうつしだし、しまいには靴やジャケットやベルト"なんか"への執着は下らないかのように突き放す。
 『プラダを着た悪魔』は王道の仕事映画だ。ジャーナリスト志望の主人公アンディが、一流ファッション誌の編集部で働くことになり、きらびやかな職場で「ダサい」だの「デブ」だの叩かれながら成長していく。最初はファッションに関心が無かった彼女は、だんだんとおしゃれになって仕事に愛着を抱いていき、恋人や友人とは距離ができはじめる……アン・ハサウェイも先輩役のエミリー・ブラントもスタンリー・トゥッチもみな素晴らしいが、なんといってもこの映画といえばメリル・ストリープ演じるミランダ・プリーストリーだ。あきらかにVogue誌のアナ・ウィンターをモデルとする悪魔編集長は、この映画を支配している。彼女こそ、本作で描かれる華々しきファッション界そのものなのだ。
 この偉大なる悪魔は映画のハイライトを担いつづける。まず、ファッションを微笑う主人公を論破する「ブルー」の説法。ここで、他人をデブだの時代遅れだのまくしたてる問題行為は、高潔なプライド、プロフェッショナルなカリスマ性へと変化させてしまう。「皮肉ね あなたが“ファッションと無関係”と思ったセーターは そもそもここにいる私たちが選んだのよ」!。そのあとも未リリース版『ハリーポッター』を要求するパワハラぶりを見せるものの、視聴者はすでに彼女の虜だ。主人公だって魅了されてしまう。パリ編では、つねに完璧のはずのミランダがメイクアップもしていない姿が唐突に映しだされる。離婚を言いわたされた"悪魔"は涙を流し、メディアに「男が逃げだす氷の女王」と書き立てられ子供たちが傷つくことを憂慮している。要するに、この鬼の目にも涙なシーンでは、フェミニズム的問題が提示されている。ミランダほどの権力者になろうと性別の壁は厚い。男性だったら離婚程度で騒がれないし、それどころか厳しい仕事の態度を尊敬されるのだと(横暴には変わりないが……)。さて、弱さを見せたあとは強さだ。二転三転あるが、危機を迎えた鬼編集長ミランダは味方をも巻き込む圧倒的なパワーですべてを動かしてしまう。この頃には、アンディはすっかりミランダの信奉者だった。
 信念、プロフェッショナリズム、カリスマ性、不平等な環境に立たされる弱者の側面、家庭人としての弱さ、ときに仲間を犠牲にするパワープレイ……この時点で、プラダを着た悪魔はアンチヒーローとしての魅力を存分に出し切っていた。しかし、映画が変な動きを見せるのは、ここからラスト10分にかけてである。業界のボスとして力を披露したミランダは、アンディとの車中で「あなたは私の若いころに似ている」と語る。目的のためには仲間を出し抜く残酷さすら私たちは同じなのだと。悪魔に悪魔と認められたアンディは、否定に出ようとする。

「でもあれは……違います 仕方なかった」 「あなたの決断よ 先へ進もうと決めた この世界では必要不可欠な決断よ」「でも“この世界”を望んでいなかったら? あなたのような生き方が嫌だったら?」 「バカを言わないで 誰もが望んでる みんな私たちになりたいの」

 ひどく軽薄だ。最後の言葉は "Everybody wants to be us"。そのカリスマ性で映画を支配してきたスーパースターは「みんな私たちのようになりたい」と本気で思っている。観客の心に刻まれた「青の説法」とは真逆に思えるが、じつはあのブルーにこそつながっている。ミランダは、有能で複雑なでありながらも、ファッション界の長として誇大した特権意識を抱えているのだ。人々が身につけるものを「決定」する彼女は、大衆はみな自分のような存在に憧れていると思って疑わないのである。呆然とするアンディに向かってスタイリッシュに微笑む編集長は、そのまま顔面を車窓へ転回しカメラ用のまんべんの笑みをつくりあげる。そして車を降り、カメラマンの群れに偽物の笑顔をふりまく。個人的に、メリル・ストリープのもっとも素晴らしいパフォーマンスはここだ。ものの30秒で、ミランダ・プリーストリー、そしておそらくはラグジュアリーファッション界のグロテスクな虚栄を表現してしまっている。

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 誰しもが彼女のような存在になりたいだろうか?  主人公はそうではなかった。“Everybody wants to be us”と言われたアンディは、浮かない表情をしたまま、目が醒めたように上司を置いてどこかへ行ってしまう。2人をわかつものはフラッシュライト。悪魔の弟子は「私はあなたのようにはなりたくない」と辞意を叩きつけたのである。彼女は、ミランダを尊敬せども、悪魔のように隣人を犠牲にしながらファッション界の虚栄に浸かる価値観と素養を持っていなかった。

 物語も終わりだ。ラグジュアリーブランドを脱ぎ捨てた主人公は、元恋人に「自分を見失っていた」と謝罪する。それを受けた元ボーイフレンドは「君は隣人を差し置いて靴やジャケットやベルト"なんか"に夢中になっていた」と指摘する。ファッションアディクトを軽蔑するかのようなこの言葉が映画中で否定されることはない。最後の最後でそんな言葉が流される構成は「オシャレ万歳映画」として見るとかなり奇妙なのだが、まぁ、本作はそうでないということだろう。ファッションの素晴らしさを示し観客を陶酔させた『プラダを着た悪魔』とは、虚栄の市としてのラグジュアリーファッション業界も描いた作品である。言い換えれば、ミランダ・プリーストリーは、ファッションの誇りと虚栄の両方を体現するキャラクターなのだ。この両義性は「編集長を魅力的に描くことでVogue誌を糾弾した原作小説の怒りを緩和させた」とするNew York Times苦言レビューを読めばある程度納得できるだろう。原作が持つ毒は、あのグロテスクなフェイクスマイルとフラッシュライトに染みわたっている。

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 どうあれ、最後も悪魔が持っていく。喧騒の街中で自らを裏切ったアンディと目があったミランダは、いつものポーカーフェイスのまま車に乗り込む。そして主人公には決して見えぬ後部座席で笑うのだ。気味の悪いフェイクスマイルに変容してしまうスタイリッシュな笑みとはまったく違う。劇中はじめて見せる、なんとも人間らしいゆるんだ笑顔だ。さすがはハイライトをかっさう舞台荒らし、大女優メリル・ストリープといったところだろう。

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