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『ハンガー・ゲーム0』政治哲学で恋に落ちよう

 BLMやアジア民主化運動にまで影響を与えた『ハンガー・ゲーム』が非常に政治的なシリーズであることはReal Sound記事に書いたが、そうした面でも重要なのは、やはり看板化しているラブストーリーだろう。硬派な政治譚にもかかわらずメガヒットできた理由自体、なじみぶかいティーンロマンス定型をとおして政治哲学を問う仕掛けにあるためだ。イラク戦争をベースとしたオリジナル三部作における「ヒロインがイケメン二人に片思いされる三角関係」は、正しい戦争とそうでない戦争をわかられるのか問う「正戦論」のメタファーでもある。やさしきピータはハト派外交、頼りになるゲイルはタカ派武力家の象徴というわけだ。「生き残るための戦争には武力が必要だが人道も重要」、そんな中間点に立つカットニスがどちらの男子を選ぶかは、そのまま政治思想の選択となる。彼らの恋愛がこじれるほど「抑圧される側」であった革命軍の正義、つまり「正戦論」にも暗雲がたちこめていく。

性悪説と性善説の格差恋愛

 南北戦争後の復興期をベースに権威主義国家のなりたちを追う前日譚『ハンガー・ゲーム0』は「正戦論」前段階の問いかけとなっている:なぜ人は争いに向かいやすいのか?。命題となる政治哲学は学校の授業で習うような「社会契約論」、ひいては無政府における人間の本性を問う「自然状態」である。

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 こうした難解な政治要素は、またしてもティーンロマンス定型を媒体としている。例えるなら「闇系イケメンと太陽の如きおもしれぇ女の格差恋愛」。没落貴族の子息として政治家を志すコリオレーナス・スノーは性悪説寄りの特権主義者だというのに、よりにもよって性善説の塊かのような貧困地区の歌うたいルーシー・グレイ・ベアードに恋してしまう。つまり『ハンガー・ゲーム0』で繰り広げられる恋愛模様は、性悪説と性善説、二つの政治哲学の衝突を意味する。

ハンガーとは「渇望」。スノーは力、ルーシーは自由、セジャヌスは名誉、ゴールは支配を求める

 もう少し掘り下げよう。コリンズいわく『ハンガー・ゲーム0』原作においてホッブスを代表するのは「人は争い合う存在だから強権統治が正当化される」性悪説をスノーに教授するゴール博士である。アメリカ合衆国独立のルーツになったジョン・ロックの場合、人々による労働対価の「私的所有権」を認める性善説であり、作中だと軍事ビジネスで成りあがった地区出身者として人権を訴える同級生セジャナスにあたる。この「所有権」を否定して全体主義に寄ったルソーには、自由を希求するルーシー・グレイらロマン主義芸術一座コヴェイ族がつく*1。
 スノー青年はどこなのかというと、物語の序盤では立場を決めかねている。彼のトラウマとは、厳格な父親が反乱軍に殺されたことで没落し、飢えのなかで権力者がカニバリズムに堕ちた瞬間を目撃したことだった。ゆえに人間嫌いとして博士の性悪説に同調しているのだが、ゲームを拒絶していた当時のキャピトル民と同様に、差別主義に染まりきっていないからこそルーシー・グレイに惹かれていく。オリジナル版の命題がカットニスの「正戦論」の選択だったように、今作の主人公も、殺戮ゲームとロマンスを経ていかなる「自然状態」の政治哲学に落ちつくかを迫られるのだ。

疑念だらけのラブストーリー

 こうして、運命を変える高校最後の夏が、ハンガー・ゲームとともに幕をあける。このラブストーリーを秀逸にしているのは、制作陣から「惹かれ合った二人が本当に相手を愛していたのかわからない」と明言されていることだろう。振り返ってみれば、思想も立場も正反対なスノーとルーシー・グレイの関係は、イレギュラーな環境要因によって加速した面が大きい。たとえば、疑心暗鬼な二人の距離を縮めたアリーナ爆破事件は、本当に反乱勢力によるものだったのか疑問が残る*2。

原題「The Ballad of Songbirds and Snakes」が複数形をとっているように、主人公二人は「演者」の二面性をあわせもつ。スノーは冷血な蛇だが周囲を魅了するソングバードでもある。ソングバードそのものなルーシー・グレイにしても「自分の魅力を使って生き抜いてきた」と歌いあげる狡猾なパフォーマーとしての顔を持つ

 スノーとルーシー・グレイの行動にしても、深読みするなら疑念の余地だらけとなっている。「檻」ごしのファーストキスが示すのは、二人をわかつグロテスクな格差だろう。ルーシー・グレイの場合、命がかかっていたのだから色仕掛けだったとしてもおかしくない。スノーにしても奨学金を得なければ「庶民堕ち」する窮地にあったので、リスクを負って不正を働いた主要因が恋心なのか策略なのかわからない。ひた隠しにしてきた飢えの経験を明かして本音をわかちあえた一因にも、相手がキャピトル民に口外するリスクが低い身分だったことがあるだろう。
 ひろびろとした草原で交わされる二回目のキスは「檻」から解放されている。だからこそ、お互いを知る機会がもたらされ、考えのちがいもあらわになっていく。たとえばルーシー・グレイの視点だと、リスクを負ってまで彼女を助けようとしたスノーは英雄的な「反逆者」に見えた可能性がある。しかし、再会してみると「正当防衛による殺人」観で相違が生じたためか、キスに躊躇を見せた。その後のピクニックでハンガー・ゲームの是非からはじまった会話は、そのまま前述の「社会契約」議論となっている。原作をかいつまんで引用してみよう。

「地区の人間にはキャピトルが強硬すぎるように見えるだろうけど、僕らはただ状況を制御しようとしているだけだ。さもないと混沌状態に陥って、闘技場でのように人々はやっきになって殺し合うと思う」
ルーシー・グレイは、わずかに身を引いた。「あなたはそんなふうに思っているの?  人々が殺し合うようになると?」「そうだよ。法律があって、それを守らせる人がいない限り、僕らは獣も同然だ」コリオレーナスは、さらに確信をもって断言した。「好むと好まざるとにかかわらず、キャピトルはすべての人を守る唯一の存在なんだ」
「僕はこう思う。もしキャピトルの支配がなかったら、僕らはそもそもこんな話をしていないよ。とっくに自滅しているはずだからね」「人間はキャピトルなしでずっとやってきたわ。キャピトルがなくなっても、ずっとやっていける」

—『ハンガー・ゲーム0 下 少女は鳥のように歌い、ヘビとともに戦う 『ハンガー・ゲーム』 (角川文庫)』スーザン・コリンズ,  中村 佐千江著

 強権統治を肯定するホッブスと、無政府状態の人間性にロマンを抱くルソー。極端な2人は、思想面で明らかに対立している。それなのになんで駆け落ちまでいったのかというと、処刑危機に追いつめられたからである。
 しかし、駆け落ち早々、前提そのものが崩れてしまう。殺人の凶器が見つかったため、スノーだけ処刑をまぬがれることとなったのだ──ルーシー・グレイすら証言しなければ。依然処刑リスクを抱える恋人を捨てるか? 恋人のためにキャリアを投げ捨てるか? 若きエリートが人生の選択に迫られているあいだ、なんと彼女は忽然と姿を消してしまった。

初恋の人が死んだのか、自分が殺したかすらわからないから、オリヴィア・ロドリゴのテーマソングよろしく一生取り憑かれることになる

 こうして、原作スノーいわく「二人だけのハンガー・ゲーム」が幕を開けた。とはいっても、むしろ独り相撲のように展開していったこのゲームは謎に満ちてた。ルーシー・グレイが本当にスノーを置いていったかはわからないのだ。直前の会話でスノーが入学の件を黙っていたことが発覚し、セジャヌス殺し疑惑も芽生えていたから、逃げたとしてもおかしくない状況ではあった。だけど、本当に食糧を摘みにいっただけだったのにスノーがライフルを抱えて走ってきたから隠れた可能性だって残されている。蛇の件にしても、たしかに初登場早々彼女が武器にしていたものではあるが、原作によるとあれは毒蛇ではなかったし、あぁいう雨の日によく出てくるのだという。唯一うつされる事実は、疑念に負けて我を失ったスノーが恋人から殺戮者へと急変したことである。「支配されなければ人は殺しあう」彼の持論を証明したのは、ほかならぬ彼自身だったのだ。

伝染する「不信」のゲーム

 失恋を経験した青年が行き着く先は、当然ホッブスの性悪論だ。自己正当化にちょうどいい理屈はこんなものだろう──性善説を説くソングバードは、自分を殺そうとするヘビであった。ハンガー・ゲームこそがルーシー・グレイの本性を暴いたのだ。スノーが初恋で得たものとは、人類への「不信」である。こうして、未来の大統領の政治哲学が完成した:人は争い合う存在だから、支配によって管理しなければならない

「ハンガー・ゲームは、確かに博士の人間観に合致しています」スノーは言った。「特に、子どもを使うところが」「それはなぜだ?」ハイボトム学生部長がたずねた。「我々は、子どもは無垢なものだと信じているからです。最も無垢な者たちがハンガー・ゲームで殺人者に変わるとすれば、それは何を意味するでしょう?  我々の本質は暴力的だということです」「自滅的だ」

—『ハンガー・ゲーム0 下 少女は鳥のように歌い、ヘビとともに戦う』スーザン・コリンズ,  中村 佐千江著

 そもそも、スノーは選択の機会を与えられながら「信頼」より「不信」を選びつづけていた。彼の善性を信じる従姉妹の「父親になるな」という忠告を聞き入れなかった*3。彼の通報によって殺されてしまったセジャナスは、拷問され処刑されようと同級生が殺人犯であることを決して明かさなかった。彼を試すようだったルーシー・グレイとの最後の会話は決定打にすぎない。主人公が「信頼」を一度でも選んでいたのなら、おぞましき殺戮大統領は生まれなかったかもしれない。逆に言えば、人類への「不信」によって権威主義国家が形成されていったのだ。

優れた思いつきが押しなべてそうであるように、核の部分はばかばかしいほど単純だった。それがハンガー・ゲームだ。最も邪悪な衝動を、まるでスポーツイベントのように巧妙に仕立てた一大エンターテインメント

—『ハンガー・ゲーム0 下 少女は鳥のように歌い、ヘビとともに戦う』スーザン・コリンズ,  中村 佐千江著

 博士とスノーの性悪論にもとづくハンガー・ゲームは、地区側に恐怖をうえつけるのみならず、キャピトル側の同情を消し去る「非人間化」プロパガンダとしても機能する代物だった。その証拠に、当初ゲームを「残酷すぎる」として忌避していたキャピトル民たちは、 64年後のオリジナル版だと熱狂的な「観客」へと様変わりしている。本作で掲げられた問い「なぜ人は争いに向かいやすいのか?」、その答えを探るなら、いとも簡単に「不信」が伝染していってしまう人間社会の特性かもしれない。

答えは信頼

 逆に言えば、きちんと「信頼」さえ築けていれば、スノーが恋人を失うことはなかったかもしれない。答えは、ルーシー・グレイがすでに言っていたのだ。

「信頼は愛より重いと思うわ。だって、愛していても信頼できないものもあるもの。嵐とか、ホワイトリカーとか、ヘビとかね。ときどき、彼らを信頼できない代わりに愛しているんじゃないかと思いうことさえあるわ。ややこしいにもほどがある」

—『ハンガー・ゲーム0 下 少女は鳥のように歌い、ヘビとともに戦う』スーザン・コリンズ,  中村 佐千江著

 愛より大事なのが信頼である。これは、ロマンスの要点でありながら、政治哲学に対するひとつの答えにもなっている。2010年代に原作を執筆したスザンヌ・コリンズが問題視していたのは、当時叫ばれていた「分断」というより「民主主義vs権威主義」対立構図の加速、そのなかで民主主義維持の方法が忘却されていっている傾向であった。自由民主主義の根本こそ、共同体への「信頼」、つまり性善説にもとづく「社会契約論」である。
 原作と映画がリリースされた2020年代には「民主主義vs権威主義」がさらに加速してしまった。不正選挙説が起こした米議事堂襲撃、パンデミック危機下の「統制」是非、BLM運動加熱による警察批判と治安不安、ロシアによるウクライナ侵攻、アルメニアとアゼルバイジャンの軍事衝突、10.7襲撃およびイスラエルの地上侵攻……これらは、民主主義陣営に対する「不信」の火薬となった。対するロシアやイラン、中国が行う情報戦とは、単純に他国の政局を動かすというより、西側の人々に不安の種を植え付けつづける戦法とも言われている。実際、今日の西側では自由民主主義システムそのものへの「不信」提唱がすっかり「普通」になっている。もしかしたら、自由とは、ルーシー・グレイのようにある日突然姿を消してしまうものなのかもしれない。
 もちろん、不平等でカオスな社会を信じつづけることは大変だ。10.7後、宗教関連の襲撃犯罪とテロ未遂がめだつようになった西欧の一部では「社会契約論」が再注目されるワードになってしまっている。くわえて虚脱感を与えるのは、大政治家でも大富豪でもない我々の多くが(ほとんどの場合)世界を変えられない現実だろう。殺人まで経験したルーシー・グレイが語った性善説維持の方法は、あまりに非力でありきたりかもしれない。でも、我々は、そうつとめていくしかないのだ。

「人間は、それほど悪いものじゃないわ」ルーシー・グレイは言った。「世間での扱われかた次第なの。闘技場での私たちみたいなものよ。頬って置いてもらえるなら考えもしないようなことを、私たちもやったでしょう」「どうかな。僕はメイフェアーを殺したけど、あれは闘技場じゃなかった」「でもあれは、私を助けるためだったわ」ルーシー・グレイは考え込みながら言った。「私は、人間は生まれつき良い心を持っていると思う。悪に踏み込もうとするときは、それが悪いことだと分かるわ。一生の間、その一線を踏み越えないように頑張らなければいけないの」

—『ハンガー・ゲーム0 下 少女は鳥のように歌い、ヘビとともに戦う』スーザン・コリンズ,  中村 佐千江著

*1 オリジナル版でピータによる中長期志向のハト派外交が現在進行系の殺戮を止められないように、ロックやルソーの契約論も「正しいもの」として扱われていない。原作スノーが考えていたように、セジャヌスには社会的地位と財力があるのだから、社会を変えたいならもっと適切なやり方があったはずだ。彼のナイーブな行動は弾圧強化につながった
*2 アリーナ爆破は、ガウル博士の自作自演だったほうがいろんな疑問が片づく。主催者である博士こそ適切な時刻と規模の爆発が容易だっただろうし、反乱テロを偽造してキャピトル民を怒らせればハンガー・ゲームへの注目があがるし、会場拡張の機会を得ることができる。なにより、爆破がなければエリア外だったはずの地下道に中継用カメラを設置していた
*3 『ハンガー・ゲーム0』は、スノーが亡き父親を継承する物語でもある。最後の森では、失恋によって(ある程度やさしかったのであろう)母親のスカーフを捨て、父親のコンパスを元の世界への道標とする

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