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『Renaissance: A Film by Beyoncé』 女神も人間

 2023年アメリカの社会現象となったルネッサンスツアーは「現代の礼拝」とも例えられてきた。宗教離れが進むなか、女性やセクシャルマイノリティの人々がスーパースターのもとつどい共同体意識でむすばれる祭典としても機能していたためだ。
 実際、コンサート映画『Renaissance: A Film by Beyoncé』開幕早々、ビヨンセは女神さまのように姿をあらわす。彼女の説法に耳を傾ける観客たちが恍惚としながら涙する様子は教皇と信徒かのようだ。アルバム自体が有色人種クィアの功績としてのハウスミュージックを讃えていること、かつてハウスクラブが「マイノリティたちの礼拝」とも言われていたことを考えれば、この大型ツアーが「現実に立つファンタジー」としてのセーフスペースを掲げるのはもっともに思える。
 ただし「現代神としてのポップスター」の肖像はすぐに断絶されてしまう。本作が映すのは、最上のユーフォリアとしてお目見えしたツアーを創るのがどれだけ大変だったかということである。会場によっては天井まるごと造ったというクルーたちが舞台を建設していく光景は、良くないたとえながらバベルの塔かのようだ。常人なら「正気を失う」ショーマンと大舞台の統率の兼任、それこそ、ビヨンセが立つ場所である。幼い子どもたちを持つ母親でもある彼女は、40日以上やすみなく働きつづけながら、技術専門家に反論されてもヴィジョンにこだわりつづけ、本番の前々日になってもプログラムを完成させられていない。

ビヨンセ最大の才能とは、ダンスでもカリスマ性でも、高音域の歌声ですらなく、みずからの提唱を諦めない持久力なのかもしれない

Renaissance: A Film by Beyoncé is a reminder that the superstar never gives up - Vox

 『Renaissance: A Film by Beyoncé』で衝撃的なものは、労働者としてのビヨンセの姿だろう。1990年代からトップを走りつづけ、露出や取材量を絞ることで「神のように完璧」なイメージを築きあげた彼女は、現在、40代として肉体と時間の限界に直面している。実際、ワールドツアーの負担はかなりのものらしい。かつてリアーナは「起きたときどの国にいるのかもわからない」錯乱状態に陥っていたというし「ちゃんとしている」印象のアデルすら根をあげたほどで、子役時代から世界を回ってきたマイリー・サイラスに至っては大ヒットを出そうとツアーに出ようとしない。ビヨンセの場合、21世紀に減少していったハードなダンスと生歌を両立させるパフォーマーだから、ハードルはより高い(比較対象がいるとしたらジャネット・ジャクソンやマドンナといった先輩だろう)。個人的に、限界と向き合う姿を見て思い出したのは、セリーナ・ウィリアムズやロジャー・フェデラーといった、40代になっても身体に鞭打って10〜20代の選手と試合をつづけていたベテランアスリートだった。

 同時に「40代になって自由になれた」と語られるだけあって、前作『HOMECOMING』よりも奔放なつくりの映画で、やや悪い言葉を使えば雑多なマキシマリズム構成になっている。「音楽史に忘れ去られたクィアクリエイターたち」を照らしたと思えば、これまたスターの「完璧」像を破壊する(娘へのSNSバッシングを生んでしまった)親としての困難がフィーチャーされる。そしてヒューストンへの帰郷、ステージと観衆両方で映される後輩ブラックミュージシャンたち、そして大先輩ダイアナ・ロスが降臨していったりする。これだけ多種多様な映画をまとめる線はなんなのかというと、結局、アルバム創造の源となったジョニーおじさんに帰結する。今やLOEWEやVERSACEなど数々のラグジュアリーブランドから特注カスタムを提供されるビヨンセも、最初は相手にされず、母親とおじさんにステージ衣装をつくってもらっていた。そして、この映画は、あたたかき思い出のなかの親族と、世界有数のオートクチュールにたずさわる「作り手たち」をオーバーラップさせる。

 『Renaissance: A Film by Beyoncé』は、ある種のお仕事映画だ。ルネッサンスツアーをつくりあげたのは、ビヨンセ一人ではなく、ビヨンセを含めたあまりにたくさんの人々である。クルーのみならずファンも「コンサートを完成させるための盛りあげ役」として「担い手」の役を負わされる。時代すら関係ない。ビヨンセに音楽やファッションの魅力、抵抗の魂を教えてくれたのは母親そして今は亡きおじさんであり、ビヨンセが歴史的ツアーを行えるほどの立場になれた理由も、ダイアナ・ロスやプロディジーといった無数の作り手が文化環境を切り拓いてくれてきたからである。そして今度は若きダンサーや後輩ミュージシャン、観客、そして子どもたちがビヨンセから創造性を受け継いでいく。
 言い換えれば、これまで「神きどり」と皮肉られてもきたビヨンセは『Renaissance: A Film by Beyoncé』において無数にいる作り手の一人にすぎない。一応皮肉について触れると『Lemonade』期に「神とは神であり私は神じゃない」と打ち出していたし、抜本的に「大いなる神と小さな人々」観を持つ敬虔なキリスト教徒でもあるから「神きどり」とは逆のアーティストだと思うのだが……たぶん、自身の肉体の限界と向き合っているビヨンセは、誰よりも「ビヨンセがひとりの人間であること」をわかっている。どちからかというと、ヒトがどこまでも有限であることを識っているからこそ、大勢つどうことで生まれる創造性、そのグレイトネスを追求するアーティストなのではないか。

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