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雑記(三三)

 言葉を使って文章を書けるようになるためには、まず言葉を読むことが必要になる。言葉を使って話せるようになるためには、言葉を聞くことが必要になる。はじめに、言葉がいかに使われているか、その様子を感じとることによって、「おいしい」とか「うれしい」とか言えるようになるのであって、「おいしい」や「うれしい」の辞書的な意味を正確に説明できるから、言葉が使えるのではない。極端に言えば、言葉は、言ってみて初めてその意味がわかるようになるのである。言う前から、自分の言葉の意味を把握できる場合はきわめてまれであろう。

 だから、自分が文章を書くとき、お手本になるような文章が先行して存在していることはきわめて重要である。小中学生の作文を読めば、その書き手が、規範になる何らかの文章を意識して書いているかどうかは、はっきりとわかる。ああいう文章を意識して書いているのだな、と想像がつく文章は、文体が安定していて読みやすい。

 柴田元幸は、三浦雅士の『私という現象』(講談社学術文庫)の解説「三浦雅士という現象」で、こう書いている。「僕は大学院生のころ、この『私という現象』を何度読んだかわからない。一度読んだときは、とにかくその膨大な知識量に圧倒されるばかりだったが、何ヵ月か本棚に置いておいて、ある日ふとパラパラめくってみると、もうその内容から文章のリズムから、すっかり虜になってしまった。何か自分の文章を書くときには、まず『私という現象』を数ページ読んで自分を鼓舞してから書いた」。

 それから柴田は、三浦の『幻のもうひとり』(冬樹社)、『主体の変容』(中央公論社)をあげて、「新刊が出るたび、文字どおり貪るように読んだ」という。そしてそれがどのように柴田の文章に活きたか、具体的にはこうだ。「いまにして思えば、当時僕が書いた文章は、「むろん」「~といってよい」といった「三浦語」を乱発し、師にならって決して「私」という言葉を使わない、贔屓の引き倒し、右翼のホメ殺し的なパロディだった。いや、実をいえば現在だって、「いまにして思えば」などと涼しい顔をする資格はない。翻訳をする上でも自前の文章を書く上でも、言葉のリズム、論の進め方、着想、その他あらゆる点において、ほかのどの本よりも多くを僕は、『私という現象』『幻のもうひとり』『主体の変容』(僕はこの三冊を勝手に「自意識三部作」と呼んでいる)から教わった」。

 柴田が三浦からの多大な影響を自覚していることは、『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』(新書館)の対談のなかの発言からも知られるが、この文章がさらに興味深いのは、この箇所の文章の展開もまた三浦のそれを思わせるからである。「いや、実をいえば現在だって」の文、前言を承けつつ、強い否定表現を用いて論理を固めてゆく様子が、それらしいのである。

 また、ここで「三浦語」とされている「~といってよい」は、たしかに三浦の頻用する言い回しだが、これは司馬遼太郎の文章に特徴的な表現でもある。どちらかと言えば、司馬のほうが、先ではないか。三浦の『孤独の発明』(講談社)は、司馬の『空海の風景』(中央公論社)にかなりこだわっていたし、三浦が書いた『丸谷才一全集』(文藝春秋)第一巻の解説では丸谷の「司馬遼太郎論ノート」に注目していた。「三浦語」の基礎には、おそらく「司馬語」、「丸谷語」がある。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。