『亀は意外と速く泳ぐ』の無為と処世

愛情を注ぐことの対極には無関心があり、愛情と憎悪は紙一重の位置にある、とはよく言われることだが、それほど意味のある箴言とも思われない。すべての人間関係においてそうとは限らないだろうし、感情を向けられた当人にとっての苦痛の程度は憎悪、無関心、愛情の順に小さくなってゆくように思われるからである。助言や励ましのための方便にはなっても、それまでのことだろう。ただ愛情が憎悪に反転する瞬間があり、その甘美さと残酷さは語り尽くせぬ魅力を持っている。青春期の未熟な人間関係においてそれが露呈するとき、映画もまた輝くのである。

才能の多寡や容姿の美醜、運気の程度には個人間の差があることを、誰もが察知しながら青春期を生きる。言わば持てる者はそれを持てあまし、持たざる者は持てる者に憧れ、それを慕い、補佐的な立場を全うしようともする。そうして安定的な人間関係が成立し、維持されているうちは平穏である。しかしやがて、持たざる者のうちに疑問が芽生える。なぜ自分は、持てる者ではないのか、どこで差がついたのか、満身に若さを享受する者たちはその若さが永続しないことをすでに知っているから、自分の行動に時限的な意識を持たざるをえなくなってゆく。現状と現状に甘んじている自身への怒りを込めて、持たざる者は絶望の淵へと自らを追い込み、その持てる者への親愛の情は、やがて嫉妬と憎悪へと変貌してゆく。

青春映画が一対一の個的な人間関係を主題的に扱うとき、その構図はひとつの典型として確立しているかに思われる。『キッズ・リターン』(96)のシンジ(安藤政信)とマサル(金子賢)、『青い春』(02)の九條(松田龍平)と青木(新井浩文)、『AKIRA』(88)の金田と鉄雄、『就職戦線異状なし』(91)の大原(織田裕二)と立川(的場浩司)、後者は前者に憧れ、これを慕いつつ、しかしやがて自身の無力を発見し、自らを破滅させてゆくことになる。青春のただなかで、自意識にとらわれたひとりの人間がひとりの人間と間近に向き合うことは、これほどに美しく残酷なものであるということを、これらの作品は示してくれている。『ウォーターボーイズ』(01)や『スウィングガールズ』(04)、『リンダリンダリンダ』(05)、もしくは『クローズZERO』シリーズ(07、09)『ROOKIESー卒業ー』(09)、『ちはやふる』シリーズ(16、18)などの群像劇はこの限りではない。さらに『帝一の國』(17)や『HIGH & LOW』シリーズ(16ほか)もここに含めてもよいだろう。恋愛劇も性質は異なる。峻別は難しいが、あくまで個的な友情関係、恋愛とは差のある連帯が問題となるときに出現する構図である。『桐島、部活やめるってよ』(12)や『何者』(16)は、恋愛劇と群像劇と個的な友情の葛藤すべてを盛り込んだ点に傑作たる所以があったのだが、ここでは立ち入らない。

映画『亀は意外と速く泳ぐ』の主人公のスズメ(上野樹里)は単身赴任中の夫を持つ主婦である。夫からは毎日電話がかかってくるが、亀の餌をやっているかどうかの確認ばかりで、配管を詰まらせて業者を呼ばねばならなかったりの騒動はありつつも、平穏に暮らしている。スズメには幼なじみのクジャク(蒼井優)がいて、幼い頃から才気と行動力に溢れ、学生時代には派手なステッカーを鞄に貼り、女子プロレス部を創設して活躍し、卒業後も奇抜なファッションに身を包み奔放に暮らしている。かつて町内が停電に見舞われた際に、公園に避難してきた加東先輩(要潤)のパジャマ姿と髪をかきあげる仕草に夢中になったスズメは、もう一度その姿を目にしたいと望む。クジャクはその願いを叶えるために町の送電設備を植木バサミで切断し、めでたくスズメは望みを果たせたものの、感電したクジャクは強いパーマがあたったような髪型になってしまう。それからスズメはクジャクに頭が上がらない。

青春の友情の破綻の典型のために、役者も道具も揃っている。スズメは奇妙な扇風機を発明して大金を得て、それをクジャクに自慢しようとするが、クジャクはさらに多額の金を手にしていたことが明らかになる。私はここでスズメによる反撃を予期してしまうが、映画の流れはそうならない。スズメはやっぱりクジャクにはかなわない、という現実を受けとめるばかりなのだ。

スズメはたまたま目にしたスパイ募集の貼り紙を見て、シズオ(岩松了)とエツコ(ふせえり)の暮らすアパートを訪問することになる。この募集の貼り紙が指先に載るほどの極小サイズであることがすでに可笑しいのだが、ともかくもスズメは奇妙な言動をくり返す二人の指示によって資金として札束を受領し、とにかくさりげなく暮らすことになる。町中で地味なラーメン店を営む男(松重豊)、豆腐屋(村松利史)も同じ国のスパイとして潜伏する身であることが知らされ、スズメはこれらの人々とともにとにかく目立たないように日々を送ることが使命となる。スパイの潜伏を察知した公安の中西(伊武雅刀)や福島(嶋田久作)は、水道の清掃業者(緋田康人)らと協力してその実態を暴こうとするが、なかなか果たせない。スズメはひとりで暮らす父のもとを訪ねたり、憧れていた加東先輩が今は冴えない妻子を持っている様子を目撃したり、この男に不倫を持ちかけられたりしなあら、ただ平凡に日を送るだけのスパイ活動を遂行する。やがて緊急召集の暗号を秘めたアナウンスがエツコの声で町中に流れると、スパイの仲間たちのいる公園へスズメも急行するが、備えつけられたベンチの足元の地面が大きく口を開けて出現した地下への階段を下りてゆくスパイたちに、スズメは取り残されてしまう。この町にとどまるように、間際で諭されてしまったのだ。

青春と友情にまつわる葛藤の物語が、その構図まで丹念に準備されていながら鮮やかに回避されるように、ここでは期待されるスパイの活劇までもが、回避されるのである。いや、平然と無視された、と言ったほうがよいだろう。気の抜けたような笑いを誘う場面の連打、訥々とした穏やかな上野樹里の語り口は、そんなドラマなど意識してもいないかのように、映画の時間を推進しつづけるのである。

地味なラーメンを作ってきたからこそ、本当に美味しいラーメンも作れるのだという店主の料理の哲学、上手に笑えるひとが好きだと言っていた母のことを思い出しながら静かに「ニコニコ…」と笑い合うスズメとその父(岡本信人)の場面、町内のアナウンスで声を張りあげるエツコをガラス越しにいとおしそうに見つめるシズオの表情、公安の見回りに同行しながら、生きるということは何かを忘れてゆくことなのかもしれない、と言い出す水道業者の発言など、登場人物たちの言動は微笑と感傷を誘うような、すぐれて映画的な情景を形成する。物語は典型に寄り添うことを拒否しているにもかかわらず、である。その意味で、これらの場面は強烈な皮肉でもある。それぞれの場面で典型をなぞり、映画的な時間を実現することなどたやすいのだ、しかしそれをそのまま物語の典型に乗せはしない、という意志も感じさせる。それは嘲笑にも遠くない。

世界を股にかけた活躍を望むクジャクと、平穏な暮らしに安住するスズメは、志向を異にしながらも、その経験は折々に奇妙に同調する。かつて感電したクジャクの髪型がパーマになってしまったように、スズメは待ち合わせのための時間つぶしに入った理髪店で似たようなパーマをあてられてしまう。学生時代に女子プロレス部を創設したクジャクに対して、スズメは幼少のころから父と庭で相撲をとるのが習慣だったらしい。川で流されていた加東先輩の息子(柿嶋孝雄)を助けたことから一躍、その正体が注目されることになるスズメだが、むしろ昔から有名になりたいとと望んでいたのはクジャクの方だった。状況がよく呑み込めないままスパイ活動を終えることになり、そのまま町で過ごすことになったスズメは公安にも捕らえられることなく日常に帰ってくるが、一方でパリに飛んだクジャクはスパイ容疑をかけられてエッフェル塔の見える牢で看守と過ごすことになる。そこでは、クジャクがかつて夢見ていたフランスでの生活の像もまた皮肉なかたちで実現していることになる。

限られた青春の時間のなかで、負けたままでは終われない、しかしながらどこかで優劣はつけなければならない、という切迫した意識がかつてはたしかに存在していたのだろうと思われる。しかしそうした混乱と葛藤と苦しみを、無為なる時間と不透明な現実認識で代替し、しかも持てる者と持たざる者の結果の幸福の差異までを曖昧にした地点で、この映画は意義を持った。スズメとクジャクは、明らかに行動力も才気も、魅力も異なった存在であるにもかかわらず、果たしてどちらが刺激的で満ち足りた生涯を手にしているのか、皆目わからない。それに優劣をつけるということそのものが、愚かしいことのようにも思われるのである。そしてそれは、青春とその後の時間をどのように生きるべきか、ということについて、規範や打算に縛られて考えてしまうことへの警告にもなっていると言えるだろう。まったく、思いがけないことだ。

三木聡の映画なくしては福田雄一の映画もありえなかった、と今となっては思える。福田の「勇者ヨシヒコ」シリーズがロール・プレイに擬して人生の悲哀を語り、「アオイホノオ」が青春の不条理と葛藤を見事に描き切ったように、『亀は意外と速く泳ぐ』もまた、物語の典型を相対化した位置から真実を狙い撃とうとしている。青春はもう、典型から解放されなければならない。

三木聡監督、2005年。

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