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雑記(四九)

 作家の古井由吉は「駆出しの喘ぎ」という文章のなかで、ある座談会について回想している(『半自叙伝』)。一九七〇年のこと、「たしかその七月に、「文藝」の座談会に出席した」とあるのがそれで、阿部昭、黒井千次、後藤明生、坂上弘、そして編集の寺田博が同席した。「場所は湯島天神の下あたりではなかったかと思う。じつはこの顔ぶれは二回目で、先回は同じ年の一月か二月に、御茶の水の山の上ホテルでやっている」。

 その一回目のときは、「私はなにしろ座談会というものは初体験であり、それに退職は内定していたがまだ教職の身分にあって、紛争によって滞っていた授業がちょうど再開したところで、連日会議やら説明会やらで忙しい。その日も暮れ方までびっしり働いて池袋から御茶の水の会場へ急いだわけだが、風の寒い晩で、雑務の疲れがひどくて文学を論ずる気分にはとてもない」。そういう状況であった。池袋から御茶ノ水の移動は、丸ノ内線だろう。古井は、御茶ノ水橋を渡って明治大学のほうへ向かい、山の上ホテルへ坂をのぼったのだと思う。

 古井が会場に着くと、他の四名は先に来ていて、「それが四人が四人とも私と同じような、疲れた顔をしている」。それは「文学や思想やらに疲れた顔ではない。実務に疲れた、つまり勤め帰りの顔である。私は誰とも初対面であった。阿部はTBS、黒井は富士重工、坂上はリコーで、それぞれ在職十何年の身であった。後藤はその前々年に平凡出版を九年目でやめたそうだが、まだ勤めの名残りを引いていたのか、周囲の色に染まったのか、同じような顔をしていた」。仕事を持ちながら執筆したり座談会に出たりという立場の、重くのしかかるような疲労感の表現が忘れがたい。

 それから文章は八月、九月の執筆のことにすすみ、さらに「十一月の二十三日の休日に昔の独文の仲間に誘われて秩父の長瀞まで遠足に行った」となる。「その留守中に母親が家に電話を掛けてきて、子供たちを連れて遊びに来てくれない、と言うので、今日は朝早くから遠足に出かけていると妻が答えると、そう、それじゃあ、しかたないわね、と電話を切った。帰ってから話を聞いて、その口調が何となく気にかかり、それでは次の日曜あたりにでも行くかと思っていると、翌日の晩に姉から電話が来て、母親の咳がどうも長びくので今日近所の医者へ行かせたら、風邪と診断されてレントゲンを撮られて帰ってきたのだが、夜に入って医者が飛んできた」。

 この時点で、一九七〇年の十一月二十三日の翌日、つまり二十四日の夜。三島由紀夫の死ぬ十一月二十五日は、目前に迫っている。長瀞の遠足をわざわざ「十一月の二十三日の休日」とことわっているのは、事件の日が差し迫っていることをすでに伏線として示しているのであった。右に見た座談会の日程を、「一月か二月」、「たしかその七月」、としか書いていないのとでは、大きな違いである。

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