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憂しと見し世ぞ16

 私は携帯の110番を押す。
 カンカンと階段を降りる音がして。誰かがアパートから出てきた。吉田君のお母さんだ。派手な格好をしてる。肩はむき出しで、スカートは短くって。
私は警察に電話しながら、ずっとお母さんを目で追った。
「そうです。そうです。住所そこです。違うかも知れませんけど、来てください。今、アパートから女の人が出てきて、あの男が路地の奥に隠れました。女の人が歩いてって、あっ、出てきた。間違いありません。そうです。つけてます。後をつける気です。私、こないだ襲われた榊です。榊有紀です。早く、早く来てください。間違いありませんから」
 携帯を口元から離した。沢木を見る。
「どうしよう」
 沢木はかばんを降ろした。やる気だ。って、やる気になっても、沢木じゃ勝てるわけない。防犯ブザー、やっぱり持ってくればよかった。どうする。声あげるか。そのとき、男の手に光るものが見えた。ナイフだ。声あげて、そのまま逃げてくれればいいけど。逆上しちゃったら。そうだ。
 私はかばんのチャックをあけて、中身を道路にぶちまけた。おにぎりの袋と一緒に教科書やらグローブやらがドサドサ落ちる。急いでタオルをほどいた。それから道に飛び出し、大声をあげた。
「とーおりーまだあーー!」
 男が振り返る。よく見えた。やっぱりナイフだ。吉田君のお母さんも振り返る。男を見て、慌てて走っていった。
「とーおりーまだあーー!」
 沢木も声を上げる。どこの窓も開かない。なんだ、ここの住人!
 男がこっちに走ってくる。
「に、逃げよう!」
 沢木の声がする。腹が座った。
「嫌だ。逃げない」
 男がどんどん近づいてくる。まだだ。
「馬鹿。逃げるぞ!」
まだ、まだまだ。
 男が数メートル先まで迫ってきたとき、振りかぶった。そんで、思いっきし、ボールを投げた。
 当たれ! 
 渾身の力で投げたソフトボールは、顔面に命中し、男が鼻を押さえる。でもーー。
 やばい。倒れない! ナイフも持ったままだ。
 そのとき、横から黒い影が男にぶつかった。沢木。男はもんどり打って倒れる。その拍子にナイフが飛んだ。
「早く早く」
 沢木が私の手を握る。二人で駆けた。全力で駆けた。十メートルも行かないうちに、私が沢木を引っ張ってて、引っ張られてるくせに沢木は「早く!」とか叫んでる。五〇メートルくらい駆けたところで、黒田さんたちとすれ違った。
「通り魔はどっちだ!」
「あっち」と指差した先では、男はナイフを拾って立ち上がろうとしていた。黒田さんはまっしぐらに走っていき、男の右手をひねってナイフを落とし、見事な背負い投げを決めた。じゃないな。なんだ、あの技は。
「ブレンバスター」と沢木がつぶやいた。
プロレス技か。でも、街灯の明かりの中で、なんだかスポットライトを当てられてるみたいにカッコよかった。それから自警団の人たちが追いついて、みんなで寄ってたかって男を押さえつける。
 私は力がぬけて、その場にしゃがみこんだ。遠くでパトカーのサイレンの音がする。
「遅いんだよ。ケーサツ」
 フーと息を吐きだして、そのまま後ろに倒れた。

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