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アイスネルワイゼン三木三奈12(最終回)

第12場面 マクドナルド

琴音は路面電車の駅に行く。そこでベンチを譲られる妊婦を見る。妊婦の晴れやかな笑顔を見て、琴音は駅を離れる。皆んなから大切に扱われる妊婦と元彼にも母にも邪険にされる妊婦。いたたまれなくなった琴音は、駅を離れマクドナルドを見つける。

 今、喫茶店でモーニングを食べたのに、琴音はビックマックを頼む。それは、高校時代のあの思い出故だろう。小林と加藤と三人でマックに行った。加藤は親の会社の倒産で大学に行けない。泣き崩れる加藤が小林に奢ってもらうのがビッグマックだった。だから琴音は別にビッグマックが食べたいわけではない。その思い出の象徴としてのビックマックに出会いたかったのだ。
泣き崩れた加藤。彼女は才能があるのに大学へ行けない。
ビッグマックを奢る加藤。"金の亡者"なのに友達のリクエストに応える小林。
加藤に同情もせず、奢ることもせず、隣のテーブルのイケメン外国人と英会話する自分。思い出しても、特に感想のない自分。

「いま友達の家に来てるんだよ。そんな話、してるヒマないんだけど」

小林から言われるまで忘れていた話。思い出しても、そんな話、してるヒマはない話。それを今、思い出している。
加藤は死んでしまった。
小林はいってしまった。
自分に優しくしてくれる人は誰もいない。自業自得のところはあるけれど。

しかしビッグマックはまだ販売してなかった。琴音はジュースを買って、席に着く。後ろには女子三人の仲良しグループがおしゃべりをしている。あのころの自分たちのように。

斉藤からLINEがくる。斉藤? 誰? 誰もでもいいのだ。琴音にとって、LINEをくれるなら、斉藤でも、山田でも、木村でも、固有名詞を持つ者なら誰でもよいのだ。

琴音は斉藤に電話する。斉藤から遊びに誘われる。中学生三人組に対抗するように、より楽しげに大声で琴音は誘いに乗る。私にもいるよ。LINEをくれる人。遊びに誘ってくれる人。斉藤さん。森口さん。谷さん。たくさんの固有名詞。

電話を終えたとき、三人の女子中学生は店を出るところだった。琴音は、中学生が忘れたショルダーバッグを見つけ、追いかける。無事届けることができて礼を言われる。彼女たちのバッグに下がるのは、マイメロディ、ポムポムプリン、ハンギョドン。
キティはいない。

「拾ってくれたのが、いい人でよかったよ」

中学生たちの言葉。琴音は多分思う。そうか、自分はいい人か。なぜ自分はいいことをしたのかな。なぜ自分はキティの人(加藤)に、いいことをしなかったのかな。

マックを出た琴音は忙しく電話する。
美容院を予約する。なにしろ斉藤さんたちに会うのだから。お金が足りないと気づくと、個人レッスンの家の母親に、月謝の振込を早めてもらえるよう電話する。昼までに月謝を振り込んでもらって、1時に美容院へ行って、3時半に店を出て、6時に横浜で斉藤さんたちと会う。
移動もやることも目白押しだ。
琴音は笑みを浮かべて、よしっと気合いを入れて、キャリーケースを掴み歩き出す。アイスネルワイゼンを鼻歌にしながら。
友達とも言えない友達からの誘い。強いて嬉しがって、美容院に電話を入れる自分。しまった、お金が足りないぞ。今度は生徒の親に金の無心。忙しい忙しい。やることが目白押しだ。気合いのひとつでも入れないと、予定をこなせないぞ。忙しい忙しい。

だが、その実、それは必要のない忙しさ。空っぽの忙しさだ。

「アイスネルワイゼン」を鼻歌で歌う。アイスネルワイゼンはツゴイネルワイゼンをもじった命名である。
私(クロ)は、音楽に疎い。ツゴイネルワイゼンと聞いても、パッとイメージできない。スマホでググって聞いてみると、ああ、あの曲かとわかる。結構劇的な、それでいて哀愁に満ちた曲だ。バイオリン曲。勿論ピアノでも。
アイスネルワイゼンは、変イ長調の夜想曲。夜想曲? これもよくわからない。調べてみると、ピアノのための短い楽曲とある。ああ、それでショパン。それからツゴイネルワイゼンそのものの意味は、ジプシーの歌、だそうだ。
確かに、ジプシーのように、琴音は彷徨い歩いている。

アイスネルワイゼンは病気の妹を励ますために加藤が作った。妹の誕生日を祝うために加藤が作曲した。
思えばこの小説には、誕生日がいくつもでてくる。

クリスマスはキリストの誕生日。
クリスマスイブは琴音の母親の誕生日。
優が琴音を家に誘ったのは、琴音の誕生日。優の家に行ったのはクリスマスイブ。
結婚が夫婦の誕生日であるなら、小林夫婦の結婚記念日はクリスマス。
そして、琴音が元彼の原田に取りつく島なく電話を切られたのもクリスマス。

アイスネルワイゼンは誕生日を祝う曲。個人へ向けられた愛の歌。そして、世の中全てが祝いの気持ちに満ちているクリスマスに、ひとり孤独な琴音。少々図式的に過ぎるが、作者が舞台をクリスマスにした要因はやっぱりここだろう。

アイスネルワイゼンを歌った時、琴音は気づく。
自分には本当に行くべき場所はない。
自分のことを心から祝福し励ましてくれる人はいない。
自分が祝福し励まそうとする人もいない。
自分は同情心が薄く思いやりがなくて他人の幸せに攻撃的で嘘つきでサイコパスで人間味がない。

でも、そうか? 
自分ばっかりか?

仕事を押し付けた小林はそうじゃないのか。
自分の目のことでやたら可哀想感を出す優はそうじゃないのか。
勝手に自分の娘の才能に期待して、失望したら3000円の家賃の値上げにギャーギャー言う母は、そうではないのか。
話も聞かず、ひたすら私を拒否する原田は、そうではないのか。
高校生の自分達には、どうしようもできないことを、喋って泣き崩れる加藤は、そうではないのか。

だから、
小林とは雇用主従業員でなく対等の関係でいたかった。
だから、
優とは幸せな家庭を持つ者とフラれた妊娠女ではなく、女性として同等でいたかった。
だから、
扶養被扶養の関係でなく、母とは経済的に独立した関係でいたかった。
同格か上でいたかった。高校時代の加藤と自分の関係のように。高卒で事務員になるしかない加藤と大学でピアノを続ける自分のように。

しかし、アイスネルワイゼンを作曲した加藤は、大学に行けないで泣いた加藤ではない。工場の事務員で音楽を諦めた加藤ではない。高校で秀でた作曲の才能を見せた、あの加藤だった。薮高のモーツァルト、薮高のショパン、薮高のグリーグだった。もう会うことのできない加藤は、高校時代のショパンのままだ。
ショパンと雇われピアノ講師の自分。
妹からの尊敬をうけ続けている加藤とみんなから見放された自分。
本当の人の絆を結んだ加藤と表層的なその場しのぎの関係しか結べない自分。
知らないうちに琴音は取り残されていた。加藤には、もう追いつけなかった。琴音は空っぽのまま32歳を迎えていたのだ。琴音の内側は、キャリーケースのように空っぽだった。
この空っぽな内側を抱えて、忙しいフリだけして、自分は生きていくのか。そう思うと、その空っぽなキャリーケースが、とめどなく重く感じたことだろう。この空っぽな中身を引きずって、自分は一人でどこまで行けばいいんだろうかと。

琴音はキャリーケースを抱えて道端にへたり込む。心配して寄ってきた老夫婦に琴音は言う。

「これ、これが……、重たくて。もう、持てません」

無論、物理的には空っぽのキャリーケースは限りなく軽い。老夫婦の妻はその重さを確かめて、「これが、重たいの?」とたずねる。

琴音は声をあげて泣き崩れた。

私(クロ)には、小説のテーマとか難しいことはわからない。これが純文学なら、尚更わからない。ただ、読んでて、自分が琴音だと思ってしまう瞬間があった。
 琴音はステレオタイプの悪人ではない。悪いことだけ考えて生きている人間ではない。自分が良かれと思うことをして、追い詰められていく人間だ。そこに自分を見てもいいし、ああ、いるなあこんなヤツと見てもいいし、なんて馬鹿なヤツだと思ってもいい。そして、そこに図らずもそうしてしまう人間のサガを見てしまうのもいい。

少なくとも、私(クロ)は、面白く読めた。人間にはまだまだ描ける余地が残っていると思えた。

以上、勝手な解釈で読んでみました。触れられなかったことも多々ありますし、誤読してるところもあるでしょう。でもまあ、たまには小説をじっくり読むのもいいものだと改めて思った次第です。

最後までお付き合い頂いたご奇特な方、本当に有難うございました。

            了

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