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ロラン・バルトと「あひる」


 結局、誰を論じても、ロラン・バルトなのだ。みんな、意識してるんだ。このイケメンの思想界のヒーローを。バルトが「作者の死」を言った時、何かが変わった。ニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、何かが変わったみたいに。

小説は書き尽くされた。構造的に見れば、あなたの書いた物語は、過去の誰かが書いた物語と似ている。もっと言えば、あなたの人生はオリジナルではない。あなたは過去に生きた誰かの物語をなぞって生きているに過ぎない。
オリジナリティなどない。

それはそうなのだ。
例えば、黒澤明の映画はシェイクスピアや能の焼き直しだ。これは誰が見てもそうなので、パクリなんて誰も言わない。古典のパクリはOKなのだ。いや、パクリは言葉が悪いな。「物語元型」を使っている、としますか。「元型(アーキタイプ)」はユングの用語です。

ユングといえば、村上春樹。村上春樹に、私たちは本当に感動しているのか。ノーベル賞をあげたいのか。河合隼雄(ユング学者)なしに、村上ワールドは成立するのか。何かというと、胎内回帰になるのを、その度、私たちはなぜ指摘しないのか。

または、難病物というジャンルがある。
「風立ちぬ」からはじまって、「愛と死を見つめて」
「世界の中心で愛を叫ぶ」
数年おきに難病物は映画になる。「風立ちぬ」以前にも勿論あった。みな違ってるようで構造はみな同じだ。
勧善懲悪物など、子供向けに毎週何本も作られている。TV時代劇も同じ。みな同じ構造だ。そこに、固有名詞の作家はいるのか。

昨今AIが大流行りだ。AIに物語元型を覚えさせて、それなりの情報を入力したら、実に面白い物語を作ってくれるという。
笑い話だ。笑えない笑い話。

お分かりでしょう。純文学でオープンエンディングが採用される訳。作家は、小説家は抗っているのだ。物語元型に。
「下人の行方は誰も知らない」そう書きたいのだ。
物語の構造に抗うために。

そして、ある者は、ストーリー性を捨て、ある者は、笙野頼子みたいな書き方に活路を求める。

すると、どうなるか。そう、読者は離れていく。
純文学は現代詩と同じ轍を踏む。

では、活路はあるか。

ありますよ。今、現に、物語元型から逃れようと書いて、逃れた作家はいます。

さっき悪口言いましたが、春樹の「風の歌を聴け」は、優れた小説でしょう。物語元型から逃れている。そして、尚且つ、読ませる。

今、現在のシーンにはいないか。

います。
今村夏子。「あひる」

これ、素晴らしい。なぜ、この小説が芥川賞を取れなかったか、未だにわからない。
読んでみるといいですよ。
「あひる」が読めるか読めないか。これは、あなたの文学的センスの試金石になる。
物語から逃れ、尚且つ読ませる。
この作品、本当に素晴らしい。

以上、戯言でした。批評理論のお話はこれで終いといたします。
ご清聴、有難うございました。

※この論考は20年4月から断続的に書かれた。

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