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【S52】再会・神木町シリーズ

 アパートのドアを開けると、駅前の駐在さんが立っていた。
「ああ、ヨッちゃん。朝早うからすまんの」
「なんですか」
 昨日も出歩かず、家で飯を作って食った。酒は飲まない。だから、喧嘩も随分ご無沙汰だ。
「実はの、ちょっと確かめたいことがあっての。この人、知っちょるか」
と、住所と人名の書かれた紙を渡される。
「・・・」
「いや、県警から問い合わせがあっての」
「親父ですが」
紙を突き返そうとしたが、駐在は受け取らなかった。
「そうか。お亡くなりじゃ」
「・・・」
「ご愁傷様じゃの」
改めてメモを見る。
「ようここが分かりましたの」
「まあ、戸籍やら住民票やらがあるからの」
「ああ」
「食堂で晩飯食うて外に出た時、倒れたそうじゃ。そのまま病院に連れてかれて亡くなったそうじゃ」
「そうですか」
メモを畳んで、尻ポケットに入れた。
「身内はヨッちゃんだけじゃからの、すぐ来てくれちうことじゃ」
「あ。はい。ご迷惑かけました」
「じゃ、行くいうて連絡するが、ヨッちゃんからもアパートの大家さんに電話入れといて。電話番号は、その紙の下に書いてあるけえ」
「連絡入れて、今から行きます」
「それがええ。大家さんも困っておいでじゃろうからの」
身支度を整えて、アパートを出る。秋山さんには、事情を話して休みをいただく。

ボクッ、ボクッ、ボクッとくぐもった鈍い音がする。音の度、振動が伝わってくる。覆い被さった母ちゃんは、音の度、キツく俺を抱きしめた。何も言わず、歯を食いしばって母ちゃんは痛みに耐えていた。酒に酔った親父は、ただ蹴り続けていた。
 地獄のような時間が過ぎて、音はしなくなる。力を緩めた母ちゃんの下から這いずり出ると、荒れ果てた部屋の中で、大の字になって親父がイビキをかいていた。
 体をさすりさすり母ちゃんが部屋を片付け始める。畳に転がった煮しめを拾い、飛び散った味噌汁の具を鍋に戻し、食器を重ね、雑巾で拭く。
「あんたの分のおかずは台所に取っちょるからの。安心せえよ」
「お母ちゃんは?」
「お母ちゃんは、大丈夫じゃ。拾うた煮しめをいただくわ」
「そんなん、拾うたもん食うな」
「洗うたら同んなじじゃ」
「食うな。食うんなら、わしが食う。母ちゃんは、台所に取っちゃる、きれいなん食え。拾うて食うな」
俺は畳に転がった人参やら大根やらレンコンやらを口に詰め込む。
「やめれ、ヨシオ。やめれ」
母ちゃんは、人参を拾う俺の手を掴む。手が自由にならんので、顔を人参に持っていって食う。畳に顔をなすりつけて食う。
「やめれ、ヨシオ。やめれって」
「お母ちゃんは、きれいなん食え。わしは、わしは転がっちゃるの食うけえ」
母ちゃんは体ごとワシを抱きしめる。
「やめれ。のう、ヨシオ。ご飯はあるけえ、台所の煮しめ、分けて食うちゃろ。な。二人で、食うちゃろう」
口いっぱい頬張った煮しめを噛み締めながら、絶対に泣くまいと思った。母ちゃんが泣くまでは、自分からは絶対泣くまいと思った。
いつの頃だったか。小学何年生の時だったか。

「ヨッちゃん。親父にやられたか」
「なんのなんの。こんなもん、平気の平左じゃ。お前も、この前、アザつくっちょったろ」
 この頃は親父が息子をぶん殴ることなんか、普通にあった。言うこと聞かんで、電柱に縛られとるもんもおった。子供もみんな、当たり前のようにそれを受け入れていた。親父は怖いが、そういうものだった。
だから俺も、それに倣って陽気に振る舞った。違うのは、うちの親父は、なんの理由もなしに、突然暴れ出すことだった。
 近所でイタズラをした。友達を泣かした。畑のものを盗んで食った。怒られるには怒られるだけのことがあった。殴るにしても、加減して殴った。うちのように、突然、何の前触れもなく、手加減もせず、狂ったように手を上げる者はいなかった。ただ、はじめ俺はそれを知らなかった。殴られるのはみんな同じなんで、同んなじように殴られていると思っていた。
 違うぞ、と思い始めたのは、他の家の父ちゃんたちが、息子を釣りに連れていったり、ボール投げをしたり、自分の仕事を見せたり教えたりしていることを知りはじめてからだった。
 親父は自動車修理工だったが、ついぞ、どこぞへ連れて行ってくれたり、一緒に遊んでくれたり、仕事を見せてくれたりなぞはしなかった。
 普段はおとなしい、口数の少ない男であったのに、なにかのきっかけで、鬼の形相になり、母ちゃんを殴るのだった。
 知ってからは、俺はそれを隠そうとした。隠すために、必要以上に、学校で陽気に振る舞い、みんなを笑わせた。
 だから皆んなは、俺が青タン作って学校へ行っても、たんこぶだらけで過ごしていても、やられたのう、と言うばかりであった。

 親父のアパートには、昼過ぎに着いた。大家さんを訪ね、挨拶をする。菓子折りを差し出して頭を下げる。
受け取りながら、大家さんは、「気の毒なことじゃが、いろいろ早う進めた方がええでしょう」と言う。

鍵を開けてもらって部屋に入る。親父は、布団に寝かされ、顔に白い布がかけられていた。枕元に香炉がある。
「病院に置いとく訳にもいかんからの、あんたが帰るちゅうけえ、とりあえず部屋に運んでもろうた」
 横に置いてある線香をとる。
「とりあえず、何もなかろうけえ、うちの線香じゃ、使うて」
大家さんは、部屋には上がらない。俺は香炉の横の線香を手にして、、戻した。手だけは合わせた。
「葬儀屋の連絡先、あとで教えるけえの。まずは役所じゃ。死亡証明やら、この封筒ん中入っちょる」
封筒を、下駄箱の上に置く。
「役所から戻ったら、また声かけて」
そう言って出ていく。
その背中に、ありがとうございます、と言った。

大家がいなくなって、親父の白布をめくる。
痩せて歳をとった、白い無精髭を生やした親父が、そこにいた。
こんな小男を、こんな小男を、あの頃は、どうしてあんなに怖かったんだろう。
白布を戻して立ち上がる。封筒を手にして、役所に向かう。手続きを終えたら、役所の公衆電話で葬儀屋に電話をしよう。調べればわかるだろう。早々に火葬するとして、でもお骨はどうするか、思案した。

「お母ちゃんは、どこへいったんか」
中一の春だった。俺を残して、母ちゃんは家を出た。
親父がまた殴り倒して家を追い出したに違いないと思うた。
「お母ちゃんは、どこへいったんか」
親父は答える代わりに俺を殴った。二発、三発と、容赦なく、手加減なく殴りつけてきた。
殴られながら俺は、ここに守る母ちゃんがおったら、どんなに嬉しいことかと思った。母ちゃんが殴られる代わりに俺が殴られて、母ちゃんを殴る拳を俺が受け止めて、それができたらどんなに嬉しかろう。そう思っていた。

晩飯を作るのは、そう苦ではない。母ちゃんと、いつも作っていたからだ。母ちゃんと立つ台所は楽しかった。親父の夕飯を作るのは嫌だった。向かいで飯を食うのは何より嫌なので、俺は料理しながら台所で食べた。だから、親父は一人で飯を食った。
光熱費と家賃は親父が払い、食費はギリギリに金を渡された。それ以外に入りようなものは、都度都度値段と品目を言わねばならなかった。特に学校で入り用のものを言うのが嫌だった。
鉛筆一本、○○円です。
ノート一冊、○○円です。
美術の工作代、〇〇円です。
音楽の笛が、〇〇円です。
遠足のバス代が、〇〇円です。
給食代が、〇〇円です。

言えば、出してくれる。出してくれないということはなかった。なかったが、品名値段を言ってお金をもらう時が、一番嫌だった。
中学3年になって、修学旅行があった。集金のことを親父には言えなかった。言わなかった。ギリギリまで待たれたところで、担任から電話が来た。行かんにしても、保護者の同意が必要だからだ。勿論、親父は知らなかった。
 電話を置いて、親父は俺に殴りかかってきた。恥をかかしおって、とかそんなことを言っていた。
 初めて、その時、殴り返した。苦もなく親父は倒れ、また立ち上がった親父を、また殴った。親父はもう、向かっては来なかった。次の日、俺は家を出た。土方の溜まりを知っていたので、そこを訪ねた。工事、工事で人手が足りない時だった。親方は、嘘の歳を言った俺を、知っていながら住み込みで雇った。それから、流れ流れた。ひと所に居続けることができなかった。動いていれば、どこかで母ちゃんに会えそうな気がしたからだ。でも、会えはしなかった。
 神木町にいつくようになって、住民票を移した。ここに住むと決めたからだ。転出届を貰いに元の町に行ったが、親父はもうその町にはいなかった。

親父を骨にして、アパートの僅かばかりの荷物を整理して、空っぽの部屋に座っていた。すっかり疲れて、今日帰ろうと思えば帰れたのに、もう一晩泊まることにした。一枚だけ毛布を残して、もう布団さえない部屋に一升瓶を持ち込んで飲む。今夜は徹夜するつもりでいた。大家さんには、明日の朝早く立つと言っておいた。鍵はポストに入れておいてくれりゃあええから、と大家さんは言った。

 9時を回った頃、ドアがノックされた。てっきり大家さんだと思ってドアを開けたら、母ちゃんが立っていた。
声が・・・出なかった。
「ヨッちゃん。ごめんね」
母ちゃんは言った。
とりあえず中に入れて、ドアを閉める。
遺骨を前にして、並んで座った。
「お巡りさんが来たのよ」
独り言のように言う。
「家を出て、落ち着いた時、いっぺん手紙を出した。返事は来なかったけど。その手紙があったみたいでね。そこにはもう住んでなかったけど、辿ってわかったみたいでな」
「そうか」
「ごめんね。全部やってもろうて」
「いや、ええけど」
二人になってみると、あんなに会いたいと思うていたのに、話すことがなかった。母ちゃんも同じだった。どこで何をして暮らしておるのかさえ、互いに言わなかった。もう、それぞれの人生なんだと、それだけが分かり合えた。
 朝起きると、体に毛布がかかっていた。いつのまにか寝たらしい。酒と湯呑みとお骨がなくなっていた。母ちゃんも、どこにもいなかった。
 俺は部屋を閉め、ポストに鍵を落として、神木町に向かった。

          了

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