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小説書いてて考えてしまうこと

 弁証法て、ご存知でしょうか。ヘーゲルさんが考えたそうなんですが、勿論、私は読んでません。用語を使わせて頂くだけです。

お話には対立が必要です。主人公がいれば、ライバルがいる。二人は大概、対立しますね。で、このままだと、永遠に対立したまんまなんで、もう1次元上の、二つをまとめる存在や考え方を設定します。大体、私の小説はそうなってます。
これを弁証法て言うらしいです。

Wikipediaで載ってた例ですと、
花は美しい
花は枯れる
それを合わせて、一つ高次元になって、
美しい花は枯れて実をつける

ヘーゲルは、この方法を「アウフヘーベン」言うたらしいですが、んなもんどうでもよろし。
ここで大事なのは「実」。二つの対立する要素を無化、昇華してまうような観点。これあってこそ、筋は収まる。
ヘーゲルさんの言葉で言えば、

・テーゼ(正)
・アンチテーゼ(反)
・ジンテーゼ(合)

大事なのは、「合」にするためには「実」に相当する新たな観点が必要だということ。

「神木町」でやってみると、

テーゼ アンチ ジンテーゼ
花   枯   実
(強者)    (弱者)    (無効昇華)

富者  貧者  暴力
大卒  中卒  技能
知的  肉体的 達成感
大人  子供  責任感
扶養  庇護  独立
男性  女性  出奔
美味い 不味い 名物
伝統  革新  幸福感
理想  生活  充実感

こんな感じですかね。

強者から弱者へベクトルが向けば、圧力、命令、強要、イジメ、ハラスメントとなり、弱者から強者にベクトルが向けば、反抗、軽蔑、サボタージュ、不服従、告発となります。

強者は弱者と同格であるとは思ってなくて、常に差別意識がある。自分が優位にいて、相手が下位にいる。同じでないのに、同じであろうとする相手に我慢がならない。違うから差があるのは当たり前だ。ハラスメントは当たり前だ。てね。

逆に、弱者は強者と同格でないのはおかしいと思っている。常に差別感を感じてて、この状況は理不尽だと思っている。不平等を認める相手に我慢ならない。同格だから差があること自体が不満なのだ。ルサンチマンは当たり前なのだ。

これを乗り越えるにはどうすればいいのか。

全く違う価値観を持ち込んだらいい。
「花」に価値があると考えるなら、「咲」と「枯」しかない。だが、ここに「実」という価値観を持ってくれば、「花」が「咲」くのも「実」のため、「花」が「枯」れるのも「実」のためとなり、
「咲>枯」が「実>花」となり、「咲」「枯」の、価値は無化される。
同様に、「富者>貧者」の経済的価値観を「暴力」という新しい価値観で計り直せば、「富者」「貧者」の優位下位は「無化」される。
逆も言える。暴力、腕力の上位下位は、経済的価値観で計り直せば、「無化」される。
これだと堂々巡りなので、
「経済的価値観」「暴力的価値観」を「無化」する更に高次元の価値観が必要となる。それを突き詰めていけば、「共産主義的価値観」が最高位のものとなる。この考えでいけば、文学は「共産主義的価値観」を下支えする、その価値観に奉仕する「為にする文学」と成り果てる。小林多喜二がプロ文なんか書かなきゃ、大作家になれたのに、て言う人は多い。

そして、20世紀後半に、構造主義という考え方が出てきて、この考え方を破壊する。「物事に、こうした上位下位の価値なんてない」と言い出したのだ。
マルクスの唱えた共産主義は、ギリシャから始まる西欧哲学、形而上学・西欧中心主義的価値観の極北の到達点だった。それを根こそぎ否定した。

例えば、下位と見られていたアマゾンの未開人の暮らしは実は豊かなのではないか。確かに、ジャングルにいけば食べ物もあり、寒さに凍えることもない。
例えば、上位と見られていた西欧人の暮らしは、実は貧しいのではないか。パンを得るためにストレスを抱えて働き、凍えないためにストーブも燃料もいる。
価値観の捉え方によって、物事の優位性は容易に逆転する。それをあたかも所与のものとして「ある」と考えるのは、我々がドグマ(西欧的価値観の思い込み)に囚われているからなのではないのか。

構造主義は西欧的価値観を信じない。全てのものは本質的にフラットであり、等価であると考える。漫画も文学もフラットであり、等価である。流行歌もクラッシックもフラットであり等価である。大衆文化も芸術も、フラットであり、等価である。勿論、純文学もエンタメも、フラットであり、等価である。

あるのは、それを支える構造だけである。従って、全ての小説は、構造のパターンで分析できる。小説を読むように、ファションさえも分析できる。小説を「批評する」ことは、その「構造を知る」ことになる。

が、そうなるとミソもクソも一緒で、全ての小説は等価である、となる。少なくとも社会学的にはそうなる。

芥川賞の選考委員全員一致の受賞作も「なろう小説」の不人気作も等価となる。等価であるから、等価にせよ、納得がいかない、と言い出す者も出てくる。
京都アニメーションのあの不幸な出来事は、犯人が自分の書いた小説が評価されなかったことが、その発端であるという。

そうなれば、暗黒の価値相対主義社会がやってくる。
この世に絶対的価値などない。絶対的価値観をもって評価されたものは、悪となる。
○○賞は悪である。
かけっこで1等賞2等賞をつけることは、かつて順位をつけることにおいて反対された。
みんな頑張ったのだから、頑張ったことに価値がある。結果の価値より、経過の価値に重きを置くのが学校の価値観だ、という理屈である。みんな一等賞だ、というわけである。
だが、価値相対主義の社会では違う。そもそも一等賞に特別の価値がない、と言っているのである。頑張ったことも特別の価値ではない。必死に走ることと、テレンコテレンコ不真面目に走るのと、価値は同じなのだ。

構造主義は、行き詰まるべくして行き詰まった。

西欧の形而上学も駄目。マルクス主義も駄目。構造主義もやっぱり駄目。ポスト構造主義はもっと駄目。何言ってるんだか、まるきりわからないんだもの。

じゃ、どうすればいいのか。どうなるのか。私は、西欧の知識人が考えて考えて最終的に捨てたものに立ち返るしかないと思っている。マルクスが毛嫌いして捨てたもの、それは宗教なのである。

誤解しないでほしいが、キリスト教、イスラム教、仏教、国家神道、その他宗教に立ち還れ、と言っているのではない。三大宗教より、もっと古い「信仰」へ立ち返ることを言うのである。ただ純粋に「祈ること」「信じること」「感謝すること」から始めること。そこからやり直すしかないのではないか、最近はそう思うようになっている。
           
追記

じゃ、「神木町」でのジンテーゼは何か言うと、共通して「生きる」ということ。「生きる」ことは素晴らしい。「生きられてる」それだけでもう充分。「生き甲斐」て言葉がありますな。「ああ、生きる甲斐があったわ。生きてて良かったわ」
ありていに言えば、それ。それを「神木町シリーズ」で書けてたらなあ、伝えられたらなぁ、と思ってました。

伝わりましたかね。え? 何言うとるんか、まるでわからない? 読んでもまるきり伝わらん?・・・。そうですか。そうですよね。忘れて下さい。失礼しました。消します。もうちょっとしたら。

未練がましい、クロでした。

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