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【S60】かけ蕎麦


 11時少し前に病室につくと、手術着の町田さんは、移動式の担架に乗せられたところだった。旦那さんの横から顔を見せる。
「いってこい」
そう言うと、
「ヨッちゃん。毎日ごめん」  
とゲンコツを出した。軽く俺のゲンコツと合わせてやる。
「約束、忘れんな」町田さんが言う。
「約束?」
「うどん屋さん」
「ああ」と思わず笑みが溢れる。「きっと連れてく」
「うん。楽しみ。じゃ、行ってくるね」
   町田さんは俺に指でこちょこちょするように挨拶して、旦那さんに向き直る。
「じゃ、行ってくるから」
 旦那さんが町田さんの手をしっかり握る。町田さんが何度も頷く。町田さんはもう俺の方は見なかった。
 看護補助員のカナコちゃんが、見計らって担架に手をかける。チラと硬い表情で旦那さんに会釈してから、
「はい。それじゃ、出発しんこー!」
と明るく町田さんに言って担架を押す。
「おー」と細い声で町田さんが合わせる。入院中、二人はいいコンビだったんだろう。

 後を俺はついていく。手術室前の長椅子に、年老いた町田さんの両親が待っていた。お母さんがなにか町田さんに話しかけた。笑いながら、町田さんが返事をしている。担架はもう止まらなかった。ゆっくり、着実に手術室へと進んだ。扉が閉まった後、ご両親が長椅子に腰掛けた。
「連日、無理を言ってすいませんでした」
 旦那さんが俺に言う。俺は
黙ったまま首を振った。ご両親は、手術中の赤いランプを見つめていた。

大丈夫、大丈夫。
心の中で、何度も呟いた。
大丈夫、大丈夫。

奇跡は、起きなかった。
衰弱した町田さんの体は手術に耐えられなかった。

 通夜に行った時、町田さんはきれいに化粧していた。心労の中で段取りするのは、旦那さんには辛いことだったろう。いや、気が紛れてよかったか。たぶん今こうして、焼香する人に頭を下げてる時が、一番辛いのかもしれなかった。町田さんのお母さんは、呆けたように椅子に座り、じっと壁の時計を見ていた。
 受付で香典返しを受け取り、帰ろうとすると、
「ヨッちゃん」
と声をかけられた。見れば、受付にカナコがいる。
「ヨッちゃん。精進落とし、して行ってよ」
「いや、俺はいいよ」
「明日、告別式のあと火葬場」
「ああ。もう式には来ねえ」
「12時頃だって」
「何が」
「煙になって、空行っちゃうの」
 手を挙げて、式場を離れる。

「あー、早く家に帰りたいなぁ。ねえ、うちの旦那、ちゃんと掃除してると思う?」
「してるさ」
「本当かなぁ。あたしが帰ったら、部屋の隅が誇りだらけだったりして。勘弁してよ、だよね」
「旦那さんはできた人だよ。嫌だろ普通。見舞いに男なんて呼ぶの」
「まして初恋の相手なんてね」
「馬鹿言うな」
「ほんとだもん」
鼻の穴を広げて怒ったふりをする。
「ヨッちゃん? ですか」
 後ろから声をかけられた。振り向くと、白衣を着た相良くんが立っていた。
「先生。お知り合い? あ、先生も神木町だっけ。ならヨッちゃん知らないわけないか」と町田さんが言う。
「明日、手術を担当する相良です。お久しぶりです」
 俺に軽く頭を下げて、すぐに相良くんは町田さんの問診を始めた。その姿に、ああ、いい医者になったと思った。患者の前で、自分の話はしない。そこでは患者のことだけを考える。いい医者だ。
「ご気分、いかがですか」
「大丈夫です。明日の手術、お願いします」
 相良くんは看護婦からカルテを渡されて捲りながら続けた。
「血圧も安定してるし、体温の上昇もありませんね。明日、頑張りましょう」
「ねえ、先生。お腹開けて、やっぱり無理でしたって、何にもしないで閉じちゃうのはナシですよ」
「何ですか、それ。手術はちゃんと致します。ご安心ください」
 カルテを閉じてにっこり笑う。
「綺麗に全部取ってくださいね。あたし、まだまだやらなくちゃいけないこと沢山あるんですから」
「だから大丈夫ですって」
「ほんとかなぁ」
 相良くんは、今度は苦笑いで、話題を変えた。
「やらなくちゃならないことって、なんでしょう」
「ヨッちゃんと約束したんです。うどん屋さんに行ってそこのお蕎麦を食べようって。先生、知ってますか。病院の前にあるうどん屋さん」
「あ、ああ。知ってます。えっ。あのうどん屋さんに行くんですか」
軽く驚いている。
「そう。楽しみなんです。ただし、うどんじゃないんです。そこのお蕎麦が食べたいんです」
「えっと、あの、行ったことありますか」
「ないです。先生は?」
「ああ、一度だけ」
「ずるいなあ。さっき看護師さんに訊いたら、彼女もあるんですって。ずるいずるい。みんなして。あたしだけ除けもんじゃないですか」
「いや、お勧めはしませんよ」
 町田さんはまた陽気に笑う。すっかり細くなった手を口元に寄せる。笑う時の癖なんだろう。
「じゃ、明日の11時に手術ですから」
「はい。覚悟してます」
澄んだ返事だった。

 町田さんは煙となって空に消えていった。時間に合わせて、煙突の見えるところまで自転車で来た。やはり、見ておきたかった。
 これで本当に終わったんだと思ったら、急に腹が減ってきた。ここ3、4日、何を食べても味がしなかった。それが、上がる煙を見た途端、胃が絞られるみたいに空腹になった。
「約束だ」
俺は自転車を回した。

 のれんをくぐる。前と同じ顔が二つ、俺を迎えてくれた。
「いらっしゃい」
カウンターに座っているジャージ姿の男が言った。タツと言ったっけ。タツの前には、前と同じでビールとつまみが置かれてあった。
「おばちゃん。お客さんだよ」
「見りゃわかるよ」
七十をゆうに越した婆さんが、水を出す。冷えていない。水道水だ。
「何にしますか」
「かけ蕎麦ください」
あってくれ、と願う。前来た時は、うどんを頼んで、うどんはなかった。うどん屋にうどんがなくて、仕方なく蕎麦を頼んだ。
婆さんが冷蔵庫を開ける。そこから蕎麦を出してくる。ビニル袋に入っているやつだ。よくスーパーで売ってるやつ。ほっとした。
あの日の通りだ。嬉しくて顔が綻ぶ。
「お客さん、あんまり期待しちゃだめだよ」
タツが話しかけてくる。
「まだ、うどんの方がいいと思うけど。まぁ、どっちでも同んなじか」
最後は独り言みたいに言った。
「かけ蕎麦が食べたいんで」
「余計なこと言った。ごめんごめん」
「そうだよぉ。営業妨害だよぉ。タツは明日から仕事だろ。いつまでもこんなとこ、いるんじゃないよ」
言いながら婆さんは、鍋に水をはって火にかける。うどん屋なのに、ここには専用の茹で釜がない。
「こいつ、こう見えて宮大工なんだよ。明日っから長野の寺行くんだ」
婆さんは自分のことのように自慢する。
「お客さん。ビールでも飲むかい」
婆さんの言葉に、じゃあ、と答えていた。おっ、とタツが声を上げ、俺との間にあった空席に、腰を滑らせる。
「昼間っから、いいんすか」
「いいよ。酔っ払ってもいいんだよ、今日は。おばちゃん、店の前にチャリンコ止めたけど、明日取りにくるで、ええかい」
「ああ、いつまででもええよ。盗まれても責任持たんがな」
「ありがと。じゃ、ビールちょうだい」
「話せるじゃないすか」
カウンター内に身を乗り出してコップを掴む。
「あんたのヌルいビールなんて、ついじゃダメだよ」
婆さんが冷たいビールを出す。タツがそれを俺のコップに注ぐ。お返しに瓶を持って、タツに向ける。
「こりゃ、どうも」
タツは自分のコップの残りをあおってコップを差し出す。
ビールを注いでいる途中で、タツが訊いてくる。
「お客さん、間違ってたら申し訳ないけど、ヨッちゃん?」
「おう」
「やっぱり。いつもの服じゃないから。違うかもって。前も来ましたよね」
「来た」
「やっぱり。いやね、付き合ってる娘がいて、そいつこの病院に勤めてんですよ。そいつが、ヨッちゃん来たって。あれ、そういえば昼間のお客さん、ヨッちゃんに似てたなぁって思って」
「彼女さんの名前は」
「あ。カナコっす」
「カナコちゃんか。世話になったから、よろしく言っといてくれな」
「え、カナコ、知ってるんすか」
「知り合いが入院してたんだよ。カナコちゃんにはよくしてもらった」
「そうすか。あいつ、気だけはいいから」
と、嬉しそうだった。
「で、その知り合いさんは」
「退院した」
「そうですか。そりゃ、おめでとうございます」
「おめでとうございます」
婆さんも言いながら、私の前に蕎麦を置く。
 一口啜る。醤油の味しかしなかった。その喉に引っかかる醤油の味が嬉しかった。
しかし不味い。酷く不味い。あんまり不味いんで、ビールをあおった。
「あいつ、アラレちゃんに似てませんか。知ってますか。アラレちゃん」
「知らねえよ」
 また啜る。ふと右手のコブシに手術前に合わせた感覚が蘇った。
どうだ、とびきり不味いだろ。町田さんの笑い声が聞こえた気がした。
           了

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