見出し画像

解釈共同体

読者論。フィッシュが唱える。作品は読者が作る、と。文学は読者が文学だと思ったら文学だ、と。じゃ、好き勝手に読んでいいかと言えば、それは違う、と。解釈共同体てのがあって、そこに入ってれば、アナーキーな読みにはならない、と。いまいちピンとこん!
ハーシュの理論が私には一番しっくりくるのだが、どうにも旗色がわるいようである。このまま現代の批評理論を追っても、読者を中心に考える方向が主流の気がする。読者は好き勝手に読む。そうした相対主義に陥ることを避けるのに、フィッシュは解釈共同体を持ち出してきだ。マヤカシである。ハーシュの言う「作者の意図=意味」のようなものがなければ、様々な意見、感想を統べることはできない。ハーシュの理論を否定すれば、行き着くところは相対主義のカオスではないか。それに開き直って、カオスでいいんだよ、とやったのがポスト構造主義、脱構築のような気がする。知らんけど。そうなら、先を読む気力が湧かない。或いは、その弊を避けるため、フェミニズムとかマルクス主義とかのイデオロギーを「作者の意図=意味」の代わりに据えるなら、それこそいつかきた道、「ためにする文学」になってしまわないか。ちょっと混乱してきたので、ちょっと休憩。フーコーの「言葉と物」が、家のどっかあったな。あれを読み直そうか。思えば、現代思想の本も沢山買ったけど、殆どまともに読めず古本屋行きだった。読んでもわからんもの。「アンチオイディプス」なんか半頁もわからんかった。でも、何故かフーコーだけは読めた。だけね。でも全部忘れた。もいっぺん読みましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?