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憂しと見し世ぞ11

 息が詰まった。呼吸ができない。次の言葉を出すまでの数秒が、無限に長く感じられた。
「ケガは? 二週間って言ってたけど!」
 怒鳴るような大声だ。興奮してるはずなのに、自分が自分でないような。どこか違う世界で声が響いているようだ。
「右腕。どうしよう、練習できないよ。最後の大会なのに。どうしよう」
 どうしよう。数日前に受けた大野先輩のボールの感触が蘇る。最後の大会までに、あのボール、投げられるだろうか。
「いっちゃん。ニュースでは全治二週間って言ってたよ。大会まであと何日だっけ」
「十日。十日しかないよ」
「いっちゃん。大野先輩にあったの?」
「ううん。さっき三門先輩からメールが来て、大げさにしないで、でもみんなには知らせてって」
「大野先輩の声、聞いた?」
「ううん。すぐ携帯掛けたけどつながらなくって。かけてるうち、明日の方がいいかなって。わたしなんかが騒いで、混ぜっ返すのも嫌だし」
「そうね。そうだね。じゃあ、明日。知らせてくれてありがとう。他の子には?」
「あたしからLINEしといたから」
「いっちゃん。気が利くね」
 心配そうに黒田さんがわたしを見ている。きっとわたしは半分泣き顔みたいな顔になってる。
「刺された子、知り合いだったのか」
「先輩です。ソフト部の……」
「そうか。心配だな」
 それきり黒田さんは、黙っていてくれた。何か訊かれたり、何か話したりするのは、たまらなく億劫だった。だから、とても有難かった。夜道を歩きながら、いろんなことを考えて、頭の中がぐるぐるした。
 別れ際、どうしても確認したいことがひとつだけあった。
「あの通り魔、きっとわたしを襲ったのと同じ人間だと思うんです」
「だろうな」
「わたしが、あの時、肘打ちなんかしたから……」
「だから、ナイフなんか持つようになったって?」
「そう」
「そうかもしれんがな、そうでなくても、いずれそいつはナイフを使うようになったろうな。もしかしたら、有ちゃんの時だって、持つは持ってたか」
「どうしてそんなことが言えるんですか」
「女を夜道で襲おうなんて奴は、だいたいが弱い奴だ。心も体もな。そんな奴に、ナイフなんか持たせたら、それだけで自分が大きくなれたと勘違いする。初めは持ってるだけで満足するだろう。だが、そのうち使いたくなる。自分がどれだけ強くなれたか、確かめたくなる」
「そんなの、強くもなんでもないじゃないですか」
「そうさ。だから勘違いだ。でも本人は、勘違いに気づいてない。最初に使いたくなったのが、たまたま先輩のときだったんじゃないかな。だから、有ちゃんのせいだとかは、俺はそうは思わない」
「……」
「俺の個人的な考えじゃ、こっからが危ないな。ナイフ使うことで、たががはずれた。しかも、襲った女の子には、ケガを負わせただけで逃げられてる」
「警察も本気で動き出したし、じっとしてる可能性だってありますよ」
「いや、そいつは相当自尊心が傷つけられたと思う。怒ってると思うな。だから、少ししたら、またやる」
「変態」
 そう呟いた。変態って言葉は、あの変質者のために用意されたような言葉だと思った。
「有ちゃん。気をつけなよ。あいつはいっぺん君を襲ってる。有ちゃんの顔をもし覚えてたら、もう一度、襲ってくるかもしれん。怖がらせようとして言ってるんじゃない。本当に気をつけな」
 はい、と返事したものの、何をどう気をつけたらいいか見当もつかない。そうだ、小学校のとき鞄に提げていた防犯ブザー。あれをもっていよう。何かの役に立つかもしれない。確か、引き出しの奥にあったはずだ。
 結局、黒田さんは玄関まで送ってくれた。遅くなるから、もう道場のほうは来なくていいから、と言ってくれる。
「黒田さん、送ってくれるでしょ」
「それは送るけどな」
「じゃ、行きます。吉田君のことも心配だし」
 ちょっとお母さんに挨拶を、と言う黒田さんを、長くなるからいいよ、と言って帰ってもらった。

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