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アイスネルワイゼン三木三奈11

第11場面 T駅の喫茶店

T駅に着くと、琴音は洗面所に入って化粧を整え、ポーチを置いて出る。ポーチを置いて? なぜ? 
もしかしたら、何かきっかけが欲しかったのかも知れない。過去の自分と決別するおまじないだったのかも知れない。そこまで行かなくても、気分を切り替える。切り替えて、彼氏と連絡をとって、新しい始まりを始めたい。
そんな気分だったのかもしれない。
彼氏の名前は原田らしい。琴音は、殊更に明るさを装って電話をかける。

今から会える? 
ーー無理
大事な話がある 
ーー答えない
最後に一回だけ 
お休みしてもいい
お金はだす
なんでもしてあげる 
なんでも言って
ーーない
ーーない
ーーない
ーー家、引っ越したから

琴音は、叩きつけるように受話器を置く。妊娠どころか、一度会うことすら拒絶される。琴音に残ったただ一つの希望も無くなった。
会社との決別
小林との決別
優との決別
母との決別
原田との決別
琴音は一人だ。その上、妊娠さえしている。
たぶん、どうしていいかわからない。どこに行けばいいかわからない。

「うんそう、帰るんだけどね。これでは帰らない。これは違うところ行っちゃうからね」

ケアホームから送迎バスに乗る時、ボケた木戸さんに職員の人は語る。バスに乗ると「違うところに行っちゃう」
バスに乗って、琴音は違うところに来た。そこには誰もいなかった。

行き場のない琴音は、原田と過去に会った喫茶店に行く。原田の転勤先の喫茶店を、なぜ琴音は知っているんだろう。琴音が「最後に一回だけ」と言っていることから、別れ話はもう終わっているのだろう。たぶん舞台はこの喫茶店で。そして近くのホテルで最後の関係をもった。もう、それで終わった。だから、原田は琴音に冷たい。もう終わったから。でも琴音には未練がある。妊娠した。これでヨリが戻るかも知れない。だが、それを言う前に、言えないほどに、原田の対応は冷たかった。妊娠はヨリを戻す秘密兵器にはならない。この調子だと、堕ろして、で終いだろう。原田にとって琴音はもう関わりたくない女だ。面倒くさい女だ。少しでも隙を見せれば、ズルズル関係を戻そうとする。だから、この冷たさは分かる気もする。そういう女と琴音は見られている。

店にはショパンが流れている。次にはグリーグが流れる。加藤は高校時代、薮高のショパンと呼ばれていた。自分ではグリーグがいいと言っていた。グリーグは「北欧のショパン」と言われたそうだ。京都と地方の小京都みたいなものか。

暫くして、ピアノレッスンの子供の母親から電話がある。発表会に出たい、と言う。琴音はお子さんには漫画の才能があるから、発表会よりもそっちの教室に通わせるといい、とアドバイスする。今、琴音に関わろうとする人間は、自分の子供で盲目になった女しかいない。
 琴音は、店に入ってきた男に色目を使う。愛情に飢えた立ちんぼのようでさえある。しかし、琴音は男に相手にされない。
 この後、琴音は店員とぶつかってコーヒーをかぶる。店のトイレで着替える。着替えはキャリーケースに入っている。
脱いだもの、原田へのプレゼント、舞台衣装、楽譜、全てだして、店員に捨ててくれと頼む。店員がクリーニング代を出すが、琴音はそれを「いいです」と拒む。
店を出て歩き、赤信号で止まった時、「いいわけないじゃん」と言い、せせら笑う。
何が、いいわけないのか。なぜ、キャリーケースの中、全てを捨ててしまうのか。

自分の人生は、これでいいわけないじゃん。中身を全部捨ててしまって、何にも残ってなくて、いいわけないじゃん。
せせら笑っているのは、自分にだ。こんなみじめでいいわけないじゃん。

琴音はそう呟いている。

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