見出し画像

【S45】さえ子


「やっと仕事が決まったんに、もう辞めるちゅうの」
お母ちゃんは、ため息をついて、天井を見上げる。
「定時制高校に行きたいんじゃ」
ずっと考え考えして、今日やっと言えた。言ってしまえば、もう後戻りはできない。
「定時? 夜学か。行ってどうするんじゃ。銀行員にでもなるつもりか。アホらし。そんなんなれるか」
「別に銀行員にならんでもええよ。簿記とかの勉強をして、ちゃんとした会社にはいりたいんじゃ」
「あほうが。なにがちゃんとした会社じゃ。人にはの。分相応ちゅうもんがあるんじゃ。それに、お前が勝手なことしちゃったら、弟やら妹やら、どねいすんの。学校にも行けんど」
 やっぱりそう言った。そう言えば、あたしが黙ると思っている。住み込みの美容院の時も。卒業旅行の時も。そう言われて、ずっと我慢してきた。
「なら、なら言うがの。あたしが長寿庵に勤めといての、そのお給料で、一人でも高校やれるの? 今じゃってかつかつなのに。やれるのか。三人も」
「なにか、われ、いつの間に口ごたえするようになったんか。ははぁ、男でもできたんと違うか。そうじゃろう。そうなんじゃの。馬鹿が。お前ぇ、騙されてちょるんでよ。何か。ええことでもされたか? お、そいつが家出ぇ、とか言うたか。ふん。馬鹿もんがよぉ。色気づきおって」
 話にならなかった。たぶんお母ちゃんはお母ちゃんで、今の生活を守ることに精一杯なんだろう。美容院に住み込んだ時、お給料は必要経費以外全部渡していた。見習いで雀の涙ほどだったけど。辞めて随分嫌味も言われたが、今の仕事に就いて、少しお給料は上がって、それも殆ど全部を家に入れた。金を入れれば、お母ちゃんは文句は言わない。
 お父ちゃんは相変わらず働いたり働かなかったり。仕事のない時は、酒ばかり飲んでいる。仕事は下請け部品の製造なんで、上からの注文数が少ない時は、それは仕方がないけれど。でもーー。
 お母ちゃんも働いていた。商品の箱詰めに行ったり、製麺所に行ったり、その伝手で、あたしも長寿庵に雇ってもらえた。
 お母ちゃんは、今はあたしのお給料をすっかり当てにして、お金が家に入るのが当たり前みたいな顔をする。
 こういう生活がずっと続くのか。考えても詮無いことを、少し前から考えるようになった。
 どうしよう。どうしたらええんやろう。そう考え詰めてた時に、健ちゃんが店に来た。
 健ちゃんはたぶん年上の男の人と二人で店に来た。
中学の卒業旅行を、あたしが見送りに行って以来だった。会うのは、ほんとに久しぶりだった。なんだかすごく懐かしかった。
 接客にはおかみさんが出た。男の人はカツ丼、健ちゃんはキツネうどんとライスを頼んだ。奢っちゃるけえカツ丼にせえ、て言われても健ちゃんは、ええです、と断った。健ちゃんらしいの、と可笑しかった。
「あたしがお出ししますけえ」
そう言って、女将さんから
丼の乗ったお盆をもらう。
なら頼むわ、と女将さんが後ろを向いた隙に、天かすをうどんに入れた。
健ちゃんは、天かすを見て、あたしを見て、すぐに気づいてくれた。
「さえ子、か?」
「健ちゃん、久しぶりじゃの」
「お前」
「天かす、サービスじゃ」
そう言って戻った。
厨房に戻ると、女将さんに、一回きりやぞ、と言われた。
しっかり見られていた。

それから健ちゃんはうちの客になった。
毎日は無理やけど、週に一、二回店に来てくれた。うちは一応うどん屋だけど、普通の定食も出す大衆食堂だった。
健ちゃんは晩方、いつも一番安い野菜炒め定食を頼む。野菜炒めなんぞ家でも作れるのに、うちのが強いて美味いわけでもないのに、健ちゃんは頼んでくれる。
お店が忙しいから、特別話もできん。できんが、
「いらっしゃい」
言うだけで、心があったかくなった。健ちゃんのはにかんだような、優しげな顔を見るだけで、嬉しかった。もうオマケはできんかったけど。
何度も通うてくれるうち、あたしは心配になった。高校受験をしなかったのは、健ちゃんだけだったことを思い出したからだった。
あたしは無理言って、先生に受験だけはさせてくれ言うて、試験を受けた。
なのに、健ちゃんは試験も受けなかった。それを知ったのは、卒業遠足のバスが行ってしまった後だった。

見送りに来ていた教頭先生が言った。
「さな子、合格できてよかったの」
嬉しかった。高校の合格書をみんなに見せられてよかった。一緒に卒業遠足には行かれなかったが、卒業式にはもう仕事の関係で、出ることは叶わないが、今日は来れて、皆んなの顔が見れて、嬉しかった。
「よかったです。お母ちゃんが、試験は受けてええ言うてくれて、わがままじゃけど、ありがたい思うちょります」
「四月から高校生じゃの」
「あ、あたしは受かったけども、高校には行きません。中学、出たら働きます。受験は記念。区切りみたいなもんです」
教頭先生は妙な顔をした。高校に行く意思のないものは、受験しないようにという取り決めがあったから。妙な顔をしつつ、健ちゃんの話をした。
「そうか。じゃ就職組はさえ子と健ちゃんか」
えっ、と息が詰まった。高校行かんもんは、自分ばっかりと思っていたから。そうしたあたしの境遇を知っていた皆んなに、受験の結果をどうしても知ってもらいたくて今日は来たのだから。
「健ちゃんもて、どうしてですか」
「知らんかったんか。しもうた。余計なことを言うた」
「じゃ、受験もせんかったんですか」
「まあの。さえ子、もう訊くな。家庭の事情は言えんことになっちょるんじゃ」
 じゃあの、元気でおやり。そう言って教頭先生は離れていった。
「3年間、ありがとうございました」
卒業式の挨拶の代わりに頭を下げた。教頭先生は軽く手をふった。

 来た。「いらっしゃい」の声が弾む。その声で、店にいる他の人に気取られないか、ひやりとする。
誰もみな、飯を食うのに忙しい。よかった。
思うているうちに、健ちゃんはカウンターに座って、野菜炒め定食を注文する。水を置くあたしをチラと見てくれる。でもそれ以上、何も言わない。
「野菜炒め定食いっちょう!」
言ってあたしは配膳口の前に立つ。
「あいよ」と親父さんが鍋を振り始める。
手持ち無沙汰な健ちゃんは、手を組んだり、水を飲んだり、壁のメニューを眺めたりする。そしてまた、あたしのことをチラと見る。可笑しくてあたしが笑うと、慌てて視線を外して、また水を飲む。
そんな僅かな時間が好きだった。
 その日、会計の時、思い切って話しかけた。
「あんま通わんでええよ。お金かかるじゃろ」
健ちゃんは、
「毎日じゃないけえ」
と、心外そうに言う。
「明日、あたしお店お休みじゃけえ、どっかで話さん?」
お釣りを数えながら、目を見ずに言う。
「ええけど」
「お昼、抜けられる?」
「まあ、なんとかなるわ」
なんか呑気だ。こっちがこんなにドキドキしておるのに。
「お釣り。じゃ、駅前で、12時過ぎに待っちょる」
結局、目は見られなかった。返事も聞かず、小走りに厨房に入った。

 お店は8時に閉める。それから、食器を洗い、鍋釜を洗い、余った食材を保存し、シンクを洗い、店を掃除して、椅子を上げる。片付けの途中で、「野菜くず、もろうて帰ります」と言う。朝仕込みの時に出た、大根や人参の皮やキャベツの端やら白菜の芯に近いところなど、捨てる部位を取り分けて置いていた。そこまで生活に困ってはいないのに、なぜか勿体無いと思ってしまう。大根と人参の皮は細く切ってきんぴらにしよう。キャベツはサッと茹でてごま油で炒めよう。
「お肉、あんたの分くらいなら、持って帰ってええよ」
親父さんが言ってくれる。ありがたくもらっておく。今日は自分が食べる分ではない。明日のお弁当用だ。

 翌朝、両親を仕事に送り出し、弟らを学校に出して家の仕事を済ませてから、お弁当をひとつ用意する。とりたてて珍しくもない、普通の弁当。たぶん、いつもは健ちゃんもお弁当なんだろう。あの日は、たぶん外回りで連れがいるから用意してなくて、たまたまうちの店に入ったんだと思う。軽トラで来たようだったし。
 きつねうどんとライスなんて、どう考えてもお金のない人の注文だ。健ちゃんもあたしと同じで、家にお金を入れているのかも知れない。だから週に一、二回であっても、店に通わせているのはなんだか申し訳なかった。かと言って、店に来なくなるのも困る。だからせめて今日ぐらいは、お弁当を食べてもらいたいと思った。
 駅には、12時少し前に着いた。駅舎には、中に二脚、外に一脚、長椅子が置いてある。あたしは外の椅子に腰掛けて、健ちゃんを待った。
話したいって言ったが、何を話したいのか分からなかった。店に来るなとあんまり言うのも変だし、それで本当に来なくなったら困る。家のことは話したくないし、前の仕事を辞めた理由も話したくない。なんだか話したくないことばかりで、どうしようと思った。
 せっかくなんで、楽しいことを話したかった。楽しいこと楽しいこと。やっぱり中学校の時の思い出話が一番いいように思った。元々、接点はそこにしかないんだから。

 足をぶらぶらさせて待っていると、電車が来て、人が降りて来た。駅を出る人の中に、中学の同級生が混じっていた。
え。と思った。お昼過ぎに何人も。その制服は、あたしが行けなかった高校のものだった。どうして?
 前を向いて、見ないようにした。できれば話しかけられないで、気づかないでくれればいい、と思った。
「あれ。さえ子? さえ子じゃろ」
すぐに声の方を振り向けなかった。
「さえ子、だよねえ?」
近づく声に振り向く。咄嗟に作り笑いを浮かべた。
そこには同級生の千鶴と友美がいた。
「やっぱりやっぱり、さえ子だ。ひっさしぶりー」
「あ。久しぶり」
私を挟むように、二人が長椅子に座る。
「いやあ。懐かしいなあ。どうしてた」千鶴が言う。
「美容院。さえ子は美容師になるちて言いよったろうが」友美も話しかけてくる。
「久しぶり。今日は学校早いね」
「ああ。試験なんじゃ。昨日と今日。ホント嫌になるわ。勉強勉強ちうて、いつまで続くんじゃろうか」
「さえ子はええね。もうお給料、もらいんよるんじゃろ」
「うん。まあ」
「ええなぁ。自分で儲けたら、なんでも買えるじゃない」
「そうじゃの。あたしも就職したらよかった」
悪気はないのだろう。むしろ、働いている自分を持ち上げてくれる気持ちなのかもしれない。でも、居心地はよくなかった。
「美容院。実は辞めたんじゃ」
ちょっと間があった。
「ほんとに。じゃ、今なにしよるん」
「長寿庵」
「あ。うどん屋さんかあ。そこで働きよるん?」
「うん」
「そうかあ。美容院、大変じゃったの?」
今度はあたしが、ちょっと間をあけた。
「合わんかったけえ」
いつの間にか、肩に力が入っている。ここに健ちゃんが来たらどうなるんだろう。二人は、今度は健ちゃんの身辺調査を始めるのか。
「そうなんか。社会は厳しいもんな」
なんの悪気もないはずなのに、聞いていてイライラした。それが伝わったのか、あたしが話に乗らないんで、話の接ぎ穂がなくなったのか、二人は立ち上がる。
「あー、まだお昼食べてないんよ。お腹すいたあ」
「今度、長寿庵行くわ。じゃあね」
「うん。じゃあね」
二人はまた、何か楽しそうに喋りながら歩いて行く。それがあたしのことでないことだけは確かだった。

時計を見た。12時から15分経っていた。時刻表を見る。30分になったら、また電車がくる。あたしは立って、駅舎の端の方に移動した。あんな目立つところに座ってなくても、あたしが健ちゃんを見つければいい。
 電車が来て、また何人かが降りてきた。学生はいなかった。ふと、健ちゃんは来ないんじゃないか、と思った。何か自分が、大きな思い違いをしていたのかもしれないと思った。お弁当の入った紙袋を持ち直して、いや、も少しだけ待とうと思った。

40分になって、健ちゃんが来た。
「すまん。急に修理の電話があって」
鼻の頭に汗をかいていた。それを見て、「よかった」と言葉が漏れた。「すっぽかされたかと思うたわ」
「まさか」
真剣に弁明しようとする。言わんでも、その格好、見たら分かる。
「あ。荷物置いたら、また来るけえ」と言う。
あたしは「ええって」と、持っていた紙の手提げ袋を押し付ける。
「お弁当」
「ああ、それで昼休みなんか」
「金もないのに、お店来てくれるお礼じゃ。これ食べて午後も頑張り」
それで、本当に別れるつもりだった。楽しい話、思い出せないな、と思っていた。歩き出そうとすると、健ちゃんの声が追いかけてきた。
「夕方、また会えんか。今日、休みなんじゃろ」
待たせて、悪いと思っているらしかった。それで、弟らのご飯の支度があるけえ、とやんわり断ろうとしたら、
「なら、4時。今度は遅刻せんから」
と重ねて健ちゃんが言った。
どうしようか。少し考えて、
「5時まででええんなら」
と言うと、
「わかった。じゃ4時ここで」
と、嬉しそうだった。その顔を見て、あたしもなんだか嬉しくなっていた。

 4時に会ったら、絶対話すまいと思っていたことを、みんな話していた。楽しいことだけと思っていたのに、辛いことしんどいことばかりを話してしまっていた。誰かに話したかった。たぶんそうなんだけど、それが健ちゃんなのか。迷惑じゃないか。喋りながら、自分はなんて面倒くさい女なんだろうって思っていた。でも、止められなかった。喋るのを、止められなかった。
 全部、全部聞いてくれてから、健ちゃんは言った。
「わがままになり」
 驚いた。一番自分がしてはいけないことを、健ちゃんはしろって言った。
「何年遅れでもええじゃない。難しいこと、夜学でいっぱい習うて、しっかり勉強したらええんじゃない。勉強したいんじゃろ」
固い鎧が外れるようだった。健ちゃんは、仕事も変えろと、こともなげに言った。自分がそうしたいんなら、そうせえよ。そう言ってくれた。さえ子の人生をさえ子が生きりゃあええんじゃ、と言ってくれた。

それで何晩も何晩も考えて、今日、お母ちゃんに刃向こうた。そんなこと、今までいっぺんもせんかったのに。生まれて初めて、お母ちゃんに刃向こうた。
 お母ちゃんは、男の入れ知恵かと、汚い言葉であたしを責めた。でも、あたしにはわかる。言えば言うほど、傷つくんはお母ちゃんなんじゃと。必死で暮らしを支えて、それなのに子供はそれを恨みに思うて、やりきれんのじゃ。やりきれんのじゃろう。
 しかし、ここは正念場だ。ここで引いたら、生涯後悔すると思うたから、あたしは言った。
「定時制高校に行く。金の迷惑はかけん。食い扶持も自分でかせぐ。でも稼いだ金は家には入れん。出てけ言うんなら、家を出て行く。このままじゃあ、このままじゃあ、お母ちゃん、あたし嫌なんじゃ」
 お母ちゃんは、ずっと黙っておった。弟や妹やらは、初めて見るあたしとお母ちゃんの親子喧嘩に息を潜めていた。お父ちゃんは、向こうむきに寝転んだまま、ボリュームを絞ったラジオで巨人戦を聞いていた。

「じゃ。出ていけ」

お父ちゃんは、そう言った。
「家族のことより自分が大事なら、出ていけ」
お父ちゃんは、そう言った。
今ならわかる。そうしてお父ちゃんは、あたしを逃してくれたんだ、と。
でも、その時はわからなかった。あたしは、今、捨てられた、そう思った。そう信じていた。
あたしは、もう誰とも口をきかないで、ただ家を出る支度をした。
六月半ばの夜だった。
いつもより、梅雨の入りが遅かった。

           了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?