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「ホラィ・ト・スフィ」の創作秘話と『小説とゲーム』の歴史 ~黎明編~

このたび、自分の作品がようやく世に出すことが出来た。とはいえ、電子書籍によるセルフ出版ではあるが。ただ振り返ると、この作品は物語の面白さよりも、その一連の過程にこそ大きな意味があった作品であった。それに関して、自身の口からではあるが語りたいと思う。
もちろん、この物語の面白さをおろそかにはしてないが。それと同時に出版業界、ゲーム業界の歴史とも多くの影響があったため、そこにも触れながら語っていくこととする。

【作品内容紹介】
連作短編で綴られる、遠い、遠い未来でのお話。そこで生きる少年と少女を模した人工生命体『ファミネイ』。そして、人類の敵〈バーピック〉(俗称はバカピック)との戦闘、日常など描いたSFチックで、すこし不思議な物語。ジャンルとしては終末モノだが、『モラトリアムの終末』と自身は提唱している。
【掲載エピソード】
素敵な世界と3人組の少女
ブレイク・フリー・フロム(書き下ろし)
ミノタウロスの首
少女よ、あの火は何の火だ?
ファミネイの入浴事情
第34次クッキー・ビスケット論争(書き下ろし)

まず、この作品は小説投稿サイトに掲載していたモノ。そのため、書き下ろし以外は無料で、自由に読めます。今回の電子書籍化に当たって、消すつもりもありません。そのため、今回の電子書籍はほとんど『投げ銭』の位置づけになっている。

■書き出すまでの苦悩
~文法と独創性の葛藤~

宣伝も終わったことで、ようやく本題へ。この作品は小説投稿サイトへの掲載分は1年ぐらいで書き上げた物語だが、原型から含めると7,8年前から悩んで今の形へとなったモノ。実際、一番初めの構想はファンタジー世界のロボットモノであった。構想が二、三転して現在の形になってからも、かなり書くスピードは進まず、没にしようとしていた。
それまでの自分はアイデア作りは楽しいが、小説として書くのは苦痛というか、かなり迷いがあった。それは創作にある、自分の色をどう出すか。売れる作品にするにはどうすればいいか。オリジナリティとは。そもそも、小説の書き方とは。
そんなありがちな悩みで、延々と無限ループに嵌まりアイデア以降から書き出しは出来なかった。

そんな沼から抜け出したのは些細な事で、小説の文法、書き方など気にせず書くこと、書き上げることを重視に。それとパクリは当たり前で、オリジナリティは二の次でいいと気づいたからだ。
ただ、この事は過去の自分が助言として聞いても理解できなかったと思う。これはここまで悩み抜いて、ふとした切っ掛けで、その結論に自ら気づけたからだ。
だから、今はただ書くだけなら小説の文法、独創性は邪魔な発想、まずは完成してから考えるようにしている。こう語っているのも、その一つだ。

多分、小説に書くのあたって文法、独創性などを葛藤している人は多いと思うが、先の例を助言した所で救われる事はまず無いと思う。何しろ、それまでの経験がないと、その事自体、普通の創作論でしかないからだ。実際、この結論は自らの考えて出した結論ではあるが、その後似たような創作論として見かけたから、ありふれた考えとも気づかされた。
だから、本気で足掻いていれば、多分、自分のようにいつかはその人なりの答えに気付けるとしかいえない。

■『小説とゲーム』の共通点と違い
~ゼロ年代の誤解~

さて、今までの葛藤が解消されてからは小説を書くのは早かった。そして、小説の書き方と同じく長年悩んでいた、『小説とゲーム』の融合という課題に真の意味で向き合いが始まった。
これはゲームに親しんできた自分にとって命題であった。特に電撃文庫の創刊時はゲームのノベライズ、またゲームの原作となった小説が多く、『電撃大賞』自体は元々は『電撃ゲーム小説大賞』、ゲームを主軸としていた。この時の作品に触れた自分にとって、『小説とゲーム』の融合は命題となった。
ただ、幸か不幸か第4回電撃ゲーム小説大賞から出てきたのは『ブギーポップは笑わない』。これは言ってしまえばセカイ系であり、自分が求めていたゲームとは違った作品だ。それでもこの作品にはまり、そこから『小説とゲーム』を求めてしまった。
ここから先のゼロ年代作品は自分が求める『小説とゲーム』とは真逆な作品ばかりだったと、今振り返るとはっきりといえる。その事が先に述べた葛藤と相まって、自分らしい小説を書く事を阻害していった。

実際、この年代、同人ゲームから出てきた『月姫』、『ひぐらしのなく頃に』などはゲームとしての側面ではなく、新文芸を作るきっかけとなったというのが、現状では言わざる負えない。これらの制作陣は雑誌『ファウスト』を介して、作家としての評価されていくからだ。
ある意味、おかしな話である同人ゲームはゲーム雑誌ではなく、文学雑誌が評価していくのだから。
確かに『小説とゲーム』という点では、これらの作品も一つの形ではある。実際、彼らも別のゲームを参考に作られたと語っている。
そして、この時期にゲーム業界で開発された『ビジュアルノベル』という手法はこれらの作品には相性が良かった。
ただ、これには幾つかの弊害もあった。作りやすいため誰でも入りやすいが、基本システムは同じであるため誰がやっても同じと言う点だ。だから、これ以降は単なる二番煎じでしか無かった。

そして自分にとっても、あの当時ファミコンを熱心にしたゲームとはほど遠いモノであった。その事は自分は感じながらも、これらの作品を触れて楽しんでいても、どこか心は満たされなかった。
それが何かも分からず、だんだんとずれと誤解だけが心の中を鬱憤して、これらの作品からも遠ざかっていった。これが自分の中の『ゼロ年代の誤解』であった。

しかし、今は葛藤から解放されて、その誤解を正しく理解できるようになった。むしろ、今だからこそあの時代の流れ全体で把握できて、読み取りやすくなった点もあった。

そして、自分がゼロ年代で出来なかった『小説とゲーム』の融合は『重機兵少女 ホラィ・ト・スフィ』の中で実験的に試されていく事になる。

まだまだ、語りたい事はつきないが、キリもいいので、今回はここまでとしたい。次回からは『小説とゲーム』の融合を軸に、実践編を書いていきたいと思う。
(いやしかし、自分の作品の話はほとんどせず、創作論とゼロ年代の話題になるとは・・・)

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