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人魚歳時記 弥生 前半(3月1日~15日)

1日
寝不足の朝は雨。灰色に濡れる庭から聞こえる鳩の声が心に優しい。病院への送迎。診察終わるまで見晴らしのいい院内のラウンジで読書。急に晴れて陽がいっぱいに差し込み暑い。首を折って居眠りする。病人はほぼ全快。帰宅して疲れて昼寝。起きてからカレンダーの二月を破る。

2日
晴れて強風が吹いている。明るい日、外ではいろんな物が飛ぶ音がする。窓を開くと、青い空に飛んでいる大きなカラスが風に負けて、弧を描きながら流され、隣の農家の大きな柿の木に止まっている。昨日見つけた古本の代金を払いに行こうとして、郵便局が休みなのに気づく。

3日
雛人形はどこか禁忌を孕んだ印象で、丁重に扱わないと怖い気がする。東北の何処ぞにある、長く受け継がれる古色蒼然としたお雛様を飾る家を訪ねる。午後、煎茶と最中なんかを振舞われながら、人より長く在る人形を拝見して、夕方にお暇する―霞の空を眺め、そんな旅を夢想した。

お雛様

4日
朝の光線に照らされる部屋。掃除をしても至る所が埃っぽい。鼻にメンタム。花粉が吹く。ご飯でお腹をみちっと満たしたいのは冬。最近の朝は『卵と兵隊』ばかり。最初に切り取る殻の裏の白身を愛犬が待ち構えるようになった。今朝は未開封の節分豆を発見して、朝食後に食べた。

#2
夕方、電線に、二羽のムクドリが、頭の向きをたがい違いにして並んでいて、遠くから眺めると、綺麗にひとつのハート型になっていた。

5日
窓を開くと炒飯を炒める匂いが近所から流れてきて、お昼だと気付く。用事を済ませに出る。弱雨の薄墨色の景色。旧国道の左右には、田園が広がる。緑が増えた。養豚場の豚舎からチラと覗く薄桃色の体。遠くで赤いトラクターがゆっくり動いている。菜の花の黄が鮮やかな静かな日。

6日
一晩中激しく降り続けた雨は、夜明けとともに止む。冬に逆戻りの暗い朝。冷たい風が盛んに吹いて、庭の水たまりに波紋を作る。睡蓮鉢に雨が入り、水が溢れそう。汲み出していると、藻の陰から青いメダカが出てくる。秋から餌を断っているのによく肥えて、すぐに鉢底に消えた。

まだ寒い

7日
梨園と竹林の間の細い道を抜けると、古い農家ばかりの集落に出た。誰もいない。音も絶えた静かな薄曇りの午後。ふいに、寂しい夕方のように烏の声が響く。瞬間、子供時代に連れ戻された錯覚がした。とはいえ、すでに大人の私は、これら不穏な雰囲気のすべてを楽しんだ。

8日
朝、図書館とチョコレートを買いに行く。未明にでも降ったのか、フロントガラスから見える里山の、山肌は白斑。さらに真っ白のガスが山頂を被い、ゆっくり動いている。すぐに晴れて、春の雪は幻のように消えた。でも山から吹いてくる風は一日中、凍るほど冷たかった。

9日
「これで終わり」と、農家の人から大きな白菜をもらった。冷蔵庫に入らないので、台所の隅に置いておく。朝、忙しく食事を作っていると視界の隅に白いものが映る。愛猫が二階から来たと錯覚して、「お腹すいた? ご飯を用意するね」と、今季最後の白菜に話しかけていた。

瓶の向こう

10日
晴れて風が強い。愛犬と散歩に出る。そろそろ畑の準備らしい。人一人が楽々と入れるほどのビニール袋に米糠がみっちり詰められて、畑の隅にいくつも転がされている。裸の人が倒れているみたい。ふと見上げると、澄んだ空に大きな鳥と見紛う雲があり、北に向かって流れていく。

11日
物凄い轟音がして見上げると、被災地へ物資を運ぶ自衛隊の輸送機が二機飛んでいく。歩みを止め、北の空に見えなくなるまで見送る。自然と心の中で両手を合わせていた。周囲は若葉と花々に満ちている。あたりが静かになると鶯が鳴いて、急に哀しみを感じた十三年前の春。

12日
改造した台所の配電用の壁の隙間に潜り込んだらしい。狼狽えて人に相談したら「これを」と渡された鼠捕りに、今朝大きいのがかかって息絶えていた。そのまま庭に出した。落ち着いて見ると、可愛い顔をしている。しばらくすると降りだして、黒い体毛は春の雨に濡れていった。

13日
「先生の家」と、地元の年寄りたちが呼ぶ家がある。町はずれの、古びた簡素な平屋。主は県立高校の校長先だったそうだが、今は空き家だ。先生は晩年、庭を菜園にしていた。先ほど前を通ると、庭の梅の最後の花たちが風に飛ばされ、荒れた畑を白く覆っていた

梅まんかい

14日
冬の恰好でゴミ捨てに行くと、裏の神社で初鶯が鳴く。いい声。トランプをめくるように季節が変わらないかな。どこかへ出かけたいが、結局は湯たんぽを入れた蒲団にモグラのように潜り込む。花粉で鼻が詰まるので、口を開いて熟睡。早く浮かれたい。昼寝して待つよ、春を。

#2
変わるようで変わらない季節に焦れる。尽きぬ眠気。はっきりしない心身。チョコレートと珈琲では補えないものが体に溜まり、結局は昼寝をする。風邪で欠席した小学生の午後を思い出す。いびきと歯ぎしり。猫の重みで目が覚めると、花粉で目が痒い。

15日
「こんにちは」と、畑の隅で背を丸め、私に気づかず作業に没頭する老人に声をかけると、「うわっ」と、その姿勢ままビョンと飛び退り、すぐに自分の驚愕ぶりに照れて大笑い。漫画の一コマみたい。私も大笑い。
あたりには春の陽がうらうらと照り、陽炎が立ちそうだった。

麦は一足早く青くて

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